「温泉に行こう!」
そう言って声を上げたのは五条鶴丸だ。
大学に合格した朱乃と怜悧の合格祝と言うことで計画した2泊3日の温泉旅行。
行先は三条宗近の実家の三条温泉だ。
当の本人は締切がどうのとかで来れないらしく、椿家と鶴丸、鶯、一期の6人になった。
実家では寛げないから楽しんで来いよと促されて一行は三条温泉に向かった。
「あ、お兄さん達いらっしゃい!」
「おう、良く来たなお主ら!」
出迎えたのは長男、融(とおる)と末っ子の剣(つるぎ)だった。
「今日は世話になる」
鶯が一礼すると、通りは荷物を持って中に案内した。
「へぇ、趣のある旅館だな」
緋翠は辺りを眺めながら車から荷物を下ろした。
「お、剣坊か?大きくなったな!」
鶴丸が剣の頭を撫でた。
「ぼくはもう中学生なんですよ!えっへん!」
剣が鶴丸の手を引いて中に誘う。
融は荷物を台車に積んでいく。
「怜悧、足元気をつけろ。滑るからな」
朱乃が怜悧の手を引いて車から降りた。
「うん、ありが……うわぁっ!?」
「危ない!」
バランスを崩した怜悧を朱乃が素早く抱き締める。
「ありがとう、朱乃…」
怜悧が照れたように笑いながら手を引かれる。
「朱乃に怜悧か。
大きくなったな!」
融は怜悧と朱乃の頭を撫でる。
まるで親戚の邂逅だなと緋翠は笑った。
「弟から親友達に良い部屋をと言われておるでな。
見晴らしのいい露天付きの部屋を二部屋用意させてもらった。
大浴場も自慢だが、部屋風呂でゆっくりしてくれ」
部屋まで案内し、荷物を置くと2人は去っていった。
食事は別の宴会場を貸切っていると伝えられ、それぞれ思いのままに過ごすことにした。
「綺麗な部屋だね、母さん」
手入れの行き届いた和室に腰を下ろした緋翠に怜悧が茶を入れて目の前に置いた。
「見晴らしもいいな、露天もすごいぞ」
「ありがとう怜悧、お前も見ておいで」
茶を受け取り、口をつけるのを確認して怜悧は露天を見に行った。
「凄いね、部屋にお風呂なんて凄く高い部屋なんじゃ…」
「たぶんな、こんないい部屋通常料金でいいなんて三条さんの口添えのお陰だな」
「これで夜中でも温泉入れるね」
「ああ、そうだな」
朱乃は喜ぶ怜悧の頭を撫でた。
「母さんもここなら人目を気にせず入れるよ、良かったね」
怜悧が話しかければ椿が露天風呂を覗いた。
「へぇ、すごい豪華だな」
檜造りの露天風呂は風通しがよく、絶景の見晴らし。
「朱乃、荷物おいたら大浴場も行ってみようよ」
「判ったからはしゃぐな」
そう言って朱乃は嬉しそうな怜悧の頭を撫でた。
「母さんはどうする?」
「1人で知らない奴しかいない風呂に入る気にはならないからお前達だけで行け。
俺はこっちの湯で十分だ」
椿の楽しそうに湯に手を入れる様子に安堵し、2人は大浴場に向かった。
「お!お前達も来たか」
先に来ていた鶴丸、鶯、一期がこちらに気が付き声をかけた。
「五条さん達も来てたんだ」
「温泉が楽しみすぎてな」
全員で服を脱いで大浴場の中に入る。
タイルが敷かれた大浴場は真ん中に大きな円形の風呂があり、中心には台座が置かれ彫刻が置かれていた。
周囲には檜造りの風呂がいくつかあり、効能が違う温泉の名がプレートに刻まれていた。
脇にはサウナや水風呂、打たせ湯もあった。
「うわぁ、広くて豪華!」
怜悧はおか湯を身体にかけ、温泉に駆け出した。
「怜悧、あまりはしゃぐなって言ったろ?」
朱乃が怜悧の手を掴み湯に浸かる。
続いて鶴丸達もゆっくり湯に身体を浸した。
「あー、極楽だな」
「ああ、これはいいな。茶があれば最高だったが」
「こんな時にまで茶かよ」
「部屋のお風呂ならお茶のみながらゆっくりつかれるんじゃない」
「それもそうだな、怜悧は賢くなったな」
鶯に頭を撫でられて怜悧は嬉しそうににっこり笑った。
「怜悧、露天風呂行かないか?」
「行く行く!」
朱乃は怜悧の手を引いて露天風呂に行くのを見て、鶴丸達も一緒に行く事にした。
「すごいな、風呂から滝が見えるぞ!」
「ああ、そうだな。
怜悧、朱乃、足元に気をつけろよ」
滝のある露天風呂を満喫した。
部屋に戻ると丁度緋翠も風呂から上がっていた。
「母さんただいま、お風呂凄かったよ?滝あった!」
幼子みたいに嬉しそうな怜悧の髪を朱乃がタオルで拭う。
「またちゃんと髪乾かして来なかったのか…」
「ソフトクリーム食べるって聞かなくて…」
怜悧は確かに手に食べかけのソフトクリームを持っていた。
「怜悧、ちゃんと髪くらい乾かしなさい。
あと一口くれ」
「うん、美味しいよ」
怜悧が差し出したソフトクリームを一口舐める。
湯上りに丁度いい冷たさと甘さが口に広がった。
「ん、うまいな」
「でしょ?朱乃も食べる?」
朱乃は少し考えて怜悧の口元についたソフトクリームを舐めとった。
「ふぁ…」
「甘い」
顔を赤くした怜悧は朱乃に背を向けた。
「夜中は空いてるだろうし折角だから母さんも大浴場行ってこいよ。
風呂沢山あったぞ」
「ああ、そうだな。後で行ってみる」
朱乃は冷蔵庫に入れておいた2リットルのお茶を取り出してコップに注いだ。
「朱乃、僕もー」
ダラダラとすることを決めた怜悧はコップを朱乃に渡すと朱乃にもたれ掛かりながらお茶を飲んでいる。
部屋でのんびりくつろいで、食事の時間になれば宴会場に移された。
家族用の小さな宴会場には既に美味しそうな料理が膳に用意されていた。
「すごい豪華だな」
「これは宗近からの差し入れだよ、気にせずたくさん飲んでいってくれ」
ビールケースや日本酒、焼酎にワインと様々な酒と、未成年の朱乃と怜悧用にペットボトルのお茶やジュースが大量に用意されていた。
「三条先輩にお土産買って行かないと駄目ですね、こんなに沢山。」
「そうだな、明日は土産を買いに温泉街に行こうか」
「鶯、おれ日本酒がいい、とってくれ」
「あ、鶯おれにもくれ」
「少し待てお前達」
慌ただしく食事を済ませ、部屋に戻り二次会となだれ込む。
鶴丸達の部屋で差し入れられた酒とつまみを広げる。
「しかしなぁ、あんなに小さかったチビ達がもう大学生か。時が経つのは早いな」
「全くだな、椿が子供を育てると言った時は驚いたが、立派に母親出来ていたじゃないか。」
「運動会や学芸会などみんなで見に行きましたね。
鶴丸殿は自分の子でもないのにやけに乗り気で三条先輩に注意されてましたな」
「だって小さい頃は親がそうやって子供の成長を喜ぶものだろ?
それに親友の子なら俺にとっては弟みたいなもんだ」
「確かにそうですな」
思い出話に花が咲いてきた頃、ふと緋翠が立ち上がる。
「母さん?どこいくの?」
酔っぱらいを解放していた怜悧が顔を上げた。
「ああ、風呂だ。
せっかく来たんだし、それにこの時間なら人いないだろ?」
時計は既に12時を回っていた。
「そうだね。行ってらっしゃい」
「酔っぱらい共を頼むぞ」
「判ってる、母さんも少し飲んでるから気をつけろよ。風呂で倒れても俺達判らないからな」
緋翠はひらひらと手を振ってタオルを掴んで大浴場に向かった。
温泉の香りと誰も居ない静まり返った脱衣場に温泉が流れる音が響く。
「誰もいないな」
ほっとして露天風呂に向かう。
綺麗な夜景と噂の滝とやらがライトアップされてなかなか幻想的だ。
ゆっくり浸かって居るだけで確かに疲れがほぐれる気がする。
温泉好きという訳ではなかったが、なるほどこれはいいものだなと思っているの不意に声がした。
「いいお湯ですね」
自分ひとりだと思っていた露天風呂にいつの間にか品の良さそうな老女がにこにこしていた。
いつの間に入ってきたんだろうと思いながら当たり障りなく話して出ようと思った。
「ごめんなさいねぇ、ひとりでいる所に勝手にお邪魔してしまって」
「あ、いえ。別にお気になさらず」
すぐに出ていけばよかったのに、何故か少しくらいなら話を聞いてもいいかという気分になっていた。
「孫と一緒に来たんですよ。
普段なかなか会えないから」
そう言った老女は滝を眺めながらぽつりと呟いた。
「私はあの子のそばにいてやれなかったから離れていてもあの子が笑ってくれたらそれでいいんです。
あの子が私を忘れてしまっても…
ふふ、ごめんなさいねぇ、歳をとるとどうも悲観的になってしまって。」
「いえ…」
そう返したがその後に何をいえばいいかわからなかった。
「あの子が元気そうで安心しました。
叶うなら、もう1度抱き締めて謝りたかったけど…
貴方におまかせして良かった…
ありがとう、緋翠さん」
そう言われて振り返るとそこには誰もいなかった。
そこは最初から誰もいなかったように静かにお湯が流れ出していた。
「あの人は……そうか、怜悧に会いに来たのか」
部屋に戻ると、酔い潰れた鶴丸を怜悧が介抱していた。
「五条先輩、ほらちゃんと起きて。
薬飲んで、明日二日酔いになっちゃうよ?」
「むにゃ……怜悧!おまえはなぁ、俺達の弟みたいなもんだぞ
朱乃、お前もだからな!」
「はいはい判ってるよ。怜悧、そっち側の肩頼む。
一期さんの隣に寝かせるぞ」
「うん、せーの!」
可愛い息子2人が大切な親友を介抱する姿が妙におかしくて、椿は笑った。

ありがとうと言われることは何もしていないが、それで彼女が安らかに眠れるなら来てよかったと。
これが終わったら怜悧と朱乃を連れて墓参りに行こう。
シーズンではないから親戚に会うこともないだろうし、怜悧の大学合格を報告してやればいいだろうと考えて、日本酒を煽るように飲み干した。