ナイフをまっさらな腕に当てて、ゆっくり力を込めて引く。
赤い筋がうっすらと線を引き、ぷつぷつと珠のように内側から溢れる赤い体液。
でも、それも最初のうちだけで。
回数を繰り返せば皮膚も厚くなるためさらに深く切り込むためには力がいる。
それでも、迷い傷と言うのは存外ただ傷がつけば満足する場合が多く、彼もそのタイプだった。
表面の皮膚を切り、何本も赤い筋が腕に引かれるのを見て安心する。
自分はまだ生きている。
自分の意思はまだここにあると。
彼が腕に傷をつけるのは、手首だと目立つから。
利き腕と逆の腕には浅い傷が幾つも残っていた。
こんなことをしても何もならないのは承知の上で…
理解してもらおうとも思わないから敢えて隠れる場所を傷つけるのだ。
少年は偽りの自分を演じ続けた。
そして、ついに自分が誰なのか判らなくなってしまった。
自身の体に傷をつけるその瞬間、自分は自分なのだと認識できた。
痛みはあまり感じなかった。
感覚が麻痺してるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
けれど少年にとってそれは些細なことだった。
傷をつけると言う行為自体が少年にとっては重要であり、あとはどうでも良かった。
「あは…赤い……まだ、大丈夫……。」
ナイフを愛しそうに抱き締めながら、少年は微笑んだ。
「なに…してんの?」
不意に、背後からした声に驚いてナイフが床を滑る。
「ロゼ…?なに…してるの?」
もう一度、彼女は聞きながら床を滑ったナイフを拾い上げた。
「…別に…」
「ロゼ!!」
「離せよ!!」
彼女、トラヴィスは振り向こうとしないロゼットに掴みかかった。
普通なら女性であるトラヴィスが押し負けるはずだが、彼女は普通の女性より力が強く、ロゼットをうまく押さえ込めることに成功した。
「いや…やめろ…見るな…」
必死に隠そうとしていた腕の傷はあっさりと見つかってしまう。
「何だよ…これ…何のつもりだよ!!」
ロゼットを机に叩きつけて、胸ぐらを掴むと自然と首が絞まってロゼットが苦しげにもがく。
「…ぅ……あがっ…」
「答えろ!!ロゼット!!」
トラヴィスの剣幕に、ロゼットは光をなくした瞳で見上げた。
「お前……には、理解…出来ないっ…」
「だからって、自分の体を傷付けて何になるってんだよ!!」
ロゼットに詰め寄りながらトラヴィスは泣いていた。
何故涙をこぼすのか、その意味を空っぽのロゼットが理解できるはずもなく、緩んだ腕から抜け出してトラヴィスを見つめる。
「トラヴィスに何がわかるんだよ。
上辺だけの俺しか必要として無いくせに…」
消えそうな声でロゼットが呟いた。
もう、総てを諦めた絶望しきった瞳で。
「ロゼ…あんたが何を言ってるのか、全然判んないよ…」
「俺にも判んないよ……もう、何も判らないんだ…
何が本当で、何が嘘か…」
傷つけることでしか自分を保てない哀れなロゼット。
「こんなの…ロゼらしくないよ…。」
「…はは…またそれか…
俺らしくない、そんなのは俺じゃない……
じゃあ本当の俺ってなに?
教えてよ、本当の俺ってなんなのさ!?」
「ロ、ゼ…?」
トラヴィスは訳がわからず、豹変したロゼットに、ただ呆然とするだけだった。
「俺は何をどうすれば本当の俺になれるの?
どうすれば俺は俺になれるの?
ねぇ、誰か教えてよ……あは…あははは…」
狂った様に笑いだしたロゼットを、急に背後から誰かが抱き締めた。
「ここに居たのか…探したよ。」
「……ノーツ…?」
ぎゅっと抱き締められる事によって、背中からフィオルの鼓動が、温もりが、ロゼットを落ち着かせていく。
「ああ、また傷付けてしまったのか…
仕方無いな、帰って手当てをしなくてはね。」
「……うん。」
ロゼットは先程までとは別人のように大人しくなった。
「驚かせてしまったみたいだね。
ルージュは稀に、今日みたいに溜め込んだストレスを爆発させてしまうことがあってね…。
寝て起きたら忘れてるから、この事は君の胸の内に留めて置いて貰えないだろうか。」
フィオルが立ち尽くすトラヴィスに声をかけ、トラヴィスは今まで金縛りにあったみたいに動かなかった体が動くことに気付いた。
あれだけ長く連れ添った幼馴染みの些細な変化に気付かずに居たことが、トラヴィスには悔しくて堪らなかった。
誰よりロゼットの側にいて、彼を見てきたのに、そんなにロゼットが自分を殺していることにさえ気がつけなかった事を。
「フィオルは、知っていたの?」
トラヴィスは下唇を噛み締めながらフィオルを見た。
「気付いては居たよ。
だが、ルージュはいつも沢山の仮面を上手く使い分けてしまうから…」
そう言って、フィオルは腕の中に収まり不安そうに自分を見上げるロゼットに気が付いて、頭を撫でた。
「アタシじゃ…ダメ…だったのかな…」
トラヴィスが消えそうな声で呟いた。
「…本当なら君の方が良かったんだろう…。
常識的に考えればそうだと思う。
だが、すまない…これだけは譲れない。」
フィオルもまた、ロゼットと同じように周りに求められるまま演じてきた。
一歩間違えれば今のロゼットの様になっていたかもしれない。
けれど、同じだからこそ判ることがある。
歩み寄ることと踏みいることの違い。
壊れた人形みたいに、ロゼットは腕の中で笑ったり、泣いたりを繰り返していた。
彼を知る誰もが、この状況を見れば気が触れたと思うだろう。
周りに合わせて、周りが望むままに躍り続けた操り人形は、意思を無くしたように崩れ落ちた。
透明な糸は太く鋭く、ロゼットの体も心も傷付けていく。
それでもロゼットは踊ることを止めなかった。
そこに自分の意思が発生しているのにも気付かず、望むままに踊って、やがて糸が絡まり立つことも出来なくなった。
フィオルはその絡まった糸をほどく人形師だ。
その指先で傷付けないように優しく、時に厳しく、いつかロゼットが操り糸など無かったと気付くまで…。
「ルージュには私が、私にはルージュが必要なんだ。」
トラヴィスは、その言葉に涙をこぼしてうなずいた。
「判った…ロゼを…頼むよ。
何か出来ることがあるなら、何でもするから。」
「ああ、その時は遠慮なく頼らせてもらうよ。」
フィオルが手を引くと、少しだけロゼットが微笑んだ。
それを見て、トラヴィスはため息をついて床にへたりこんだ。
どうあがいても、自分はフィオルに勝てないのだと、そう悟らされた。
悔しくて、悲しくて、羨ましかった。
「…好きだったよ…ロゼ…」
心が壊れてしまった幼馴染みが、またちゃんと笑えるなら、自分はその恋心に蓋をするのだ。