その日はシュノと朝早くから現場に向かうために車で移動していた。
運転はゼクスがして、シュノは助手席でスケジュールを確認している。
レイリは後ろからそんな二人を眺めながら、眠そうに目を擦る。
「レイリ、眠いなら寝てて良いぞ」
「現地迄はあと一時間くらいかかりますからね」
「でも、こうゆうの初めてなんだ
誰かと旅行するの、だから何だか楽しくて寝るのはもったいないよ」
楽しそうなレイリを見て、シュノはレイリに微笑みかけた。
ずっと、怖くて外に出ることも出来なかったレイリが、目を輝かせながら移り変わる窓の外の景色を眺めている。
休憩を挟んで、目的地に到着すると待っていたスタッフに案内されて先に宿に通された。
高そうな和室に露天風呂と小さな中庭がついている。
荷物を置いたらすぐに撮影を開始するらしい。
「レイリ、おいで」
シュノに呼ばれてレイリが駆け寄ると、ぎゅっと抱き締められた。
「シュノ…どうしたの?」
「撮影現場は一般のビーチだからこの時期は沢山海に来てる奴がいるんだ。
だから、お前が心配で…」
大半はβだろう。
だが、βも発情期ならΩを孕ませられない訳では無い。
それに、海に万が一αが居れば、レイリは襲われて番にされるかもしれない。
「シュノ…アレ、付けてよ。
覚悟は、出来たから」
にっこりと笑いかけて、そっと頬に手を当てる。
「本当は、噛んでもいいんだよ
だけどシュノがお互いを良く知ってからって言ってくれるなら、僕は君だけのΩになる覚悟をしていこうと思う。」
まだ会って間もないけど、シュノがレイリに対して誠実なのは理解出来た。
レイリの気持ちを第一に考えて行動していることも。
そこまでしてくれるなら、レイリはシュノの物になる為の覚悟をしようと決めた。
シュノだけのΩになる為に。
「わかった」
シュノはレイリの頬に何度もキスをすると、キャリーケースから赤い革の首輪を取り出した。
シュノが友人に頼んでレイリに似合う首輪を特別に誂えてもらった物で、この世でたった一つしかない特別な首輪。
首輪にはきちんとロックがついていて、特殊な鍵でないと開閉できない仕組みになってる。
Ωにとって首輪は己の身を守るための唯一の手段。
望まない番にならないための。
レイリはシュノを見上げた。
確り真っ直ぐ見上げて、ニコッと笑った。
この笑顔を守りたい。シュノはそう決意してレイリに首輪を嵌めた。
カチッとロックがかかり、レイリの首にピッタリ隙間なく嵌った。
これでレイリはαに襲われても、最悪番になる事だけは防げる。
「どう…かな?」
「可愛い、よく似合ってる。
だけど気をつけろよ、これで防げるのは番の契約だけだからな
孕まされないように周りに気をつけろ」
ギュッと、きつく抱きしめられて頭を擦り寄せて甘えるシュノが愛しくて、可愛くて、レイリはシュノを抱き返しながら頷いた。
「シュノ、そろそろ時間ですよ」
隣の部屋に止まることになっていたゼクスがシュノ呼びに来た。
「鍵、シュノが持ってて
君以外にこれを外す人は居ないから」
レイリはシュノにちいさなカギを握らせてから名残惜しそうに離れた。
そして部屋のドアを開けてゼクスを招き入れた。
「これから海に行くけど、レイリは遊んでて良いからな
だけどあまり俺から離れずに目の届く範囲に居ろよ」
「うん、お仕事の邪魔にならない様にしてるね」
水着に着替えて、ラッシュガードを着込むとプールバックに着替えとスマホ、財布に浮き輪を詰め込んだ。
「シュノ、今日の予定です」
ゼクスが打ち合わせから戻り、撮影のスケジュールを伝えていく。
「肌を焼かないように日焼け止めはしっかり塗ってくださいね
レイリ、貴方もですよ」
ゼクスがシュノに日焼け止めを渡すとシュノはめんどくさそうに舌打ちする。
「レイリ、向こうについたら塗ってくれるか?
背中は届かねぇんだ」
「うん、いいよ」
シュノはソワソワしたレイリをぎゅっと抱き締めて頭を撫でる。
「撮影終わったら遊んでやるからな」
「うん!」
レイリを連れてビーチへ向かう。
にこやかにスタッフに挨拶するシュノは完全に仕事モードだ。
水着に着替え終わったシュノがレイリに日焼け止めを塗るように背中を向ける。
冷たい日焼け止めをシュノの背中に塗り込める。
手のひらを介して伝わる鍛えられた肉体に心が乱れて落ち着かない。
レイリは我慢できずにシュノの背中にぎゅっと抱きついた。
「寂しいのか?」
衝動的に抱き付いたのを寂しいと言われ、はっとして我に返るとすぐに離れて顔を赤くした。
「あの…シュノが…カッコよくて、その…」
次第に自分が何を言っているのか判らなくなってレイリは俯いたままフードを深くかぶってしまった。
撮影場所は他の人が入らないように仕切られており、一般のビーチへ向かったレイリは何かあったらゼクスに連絡する様に言い、ゼクスにもレイリを見張るように告げる。
レイリは浮き輪を片手に海に足を入れた。
避暑地に海辺に来たことはあったが、海に足をつけるなど初めてだった。
ひんやりとした海水が足元の砂を浚っていく。
「気持ちいい…」
心地よい感覚に足を浸して歩いていると、浜辺で撮影してるシュノが目に入った。
シュノは水着で浜辺に立つだけで絵になるなぁと考えながら嬉しくなってしまう。
あの人が、自分の恋人で番になってくれる人なんだと。
レイリは浮き輪を水につけて、穴の部分に身体を寝かせるようにして両手を伸ばした。
天気は晴天、綺麗な青空と夏の日差し全てがレイリに取って何物にも変えがたい時間だった。
世界はこんなに色々なもので溢れていたのに、Ωだと言うだけでそれらすべてを無かったことにするのは愚かな行為だったと改めて気がついた。
「レイリ!もう少しで休憩になりますから余り離れないでくださいね!」
ゼクスが声をかけてくれて、気が付けば大分陸から離れていたので慌てて浜辺まで戻ってくる。
そこに撮影を終えたシュノがパーカーを羽織ってフードまでかぶってレイリを迎えに来た。
「レイリ、海はどうだった?」
ぎゅっと抱き締めて、首筋にキスを落としながらシュノが聞いてきた。
レイリからは磯の匂いがした。
「楽しかったよ、ぷかぷかしてて気持ちよかった
それに、お仕事中のシュノも見てたよ、凄くカッコ良かった」
にこっと屈託なく笑うレイリに満足したのか、シュノはレイリの手を引いた。
「昼飯食べに行くぞ」
「あ…でも…」
レイリはゼクスを振り返った。
もし他のスタッフも一緒なら自分のような一般市民が居ては迷惑がかかると思ったからだ。
何となくレイリの言いたいことを理解したのか、ゼクスは大丈夫ですよとレイリを宥めた。
「シュノはいつも一人で食事するんで、スタッフも周知の上です。」
「お前はいつも勝手に付いてくるけどな」
「当たり前です、貴方はいつも食べる詐欺ですからね。
見張ってないとコーヒーだけしか飲まないでしょ」
「シュノ…それは…」
さすがにレイリも困ったようにシュノを見上げた。
「ちゃんと食うからそんな顔するな」
レイリの頭を乱雑に撫でて、シュノとゼクスは近くの海の家で昼食をとることにさした。
午後も海で撮影した後、夜には近くで開催される祭りでの撮影があり、ちょっとしたイベントに参加して今日の日程は終わりだった。
「お祭りあるの?」
「この時期は観光客向けに温泉街で一斉にお祭りをやるんですよね」
「そうなんだ」
かき氷を食べながらレイリが祭で何をしようかとワクワクしてると、気だるそうに頬杖をついたシュノがレイリを見上げた。
「浴衣着て行けよ」
「え、浴衣なんて持ってきてな…」
「無いわけ無いでしょう、シュノが持ってきてますよ」
「えっ、え?」
シュノと二人で買い物に行ったとき、水着やら私服やらは新調したのだが浴衣は買った覚えはない。
とはいえ、着せ替え人形の様にあれこれ試着させられたので後半の方はもう何を着せられたか覚えていない。
「ちゃんとお前に似合うやつにしたから安心しろよ」
シュノが柔らかく微笑むと、レイリもシュノが喜んでくれるならそれもいいかと黙って頷いた。
「シュノ、そろそろ時間ですよ」
撮影再開の時間になると、シュノは人が変わったように爽やかな笑みでスタッフやカメラマンに声をかけている。
「シュノっていつもあんな感じなの?」
「そうですね、表面上の愛想は良いですよ。
スタッフや共演者にも好印象はもたれやすいです」
「そう…なんだ…」
何だか胸のあたりがきゅっと絞まる。
苦しくて、息が詰まる。
「ゼクス、僕ここで撮影見ててもいい?
邪魔にならないようにするから」
「構わないですよ、この椅子に座ってなさい」
レイリに椅子を勧めて、それにレイリがちょこんと座ると、こちらに気がついたシュノが笑いかけてきて身体が熱くなる気がした。
思えば一目見た時からシュノに惹かれていた。
シュノも一目惚れだと言っていたのを思い出す。
「運命の…番…」
その言葉にレイリは嬉しそうに頬を染めた。
「はい、お疲れ様でした。
じゃああとは夜になりますので時間までゆっくりしてください」
「お疲れ様でした」
シュノがスタッフに挨拶すると真っ直ぐレイリに駆け寄って、ぎゅっと抱き締める。
「シュノ?」
「周りの奴らがお前のことチラチラ見てた
俺から絶対離れるなよ」
「君を、見てるんだと思うけど…
大丈夫、離れないよ」
にこっと笑うとレイリはシュノの手をぎゅっと握る。
ふたりは一旦宿に戻り、レイリは部屋についていた露天風呂に入浴中だ。
ゼクスは隣の部屋で時間まで眠ってくるといわれ、シュノは広い旅館の部屋に1人手持ち無沙汰だった。
「シュノー」
不意に浴室から楽しそうなレイリの声がした。
「どうした?」
「ねぇ、シュノも一緒にはいろー!
すごい気持ちいいよ」
シュノは少し躊躇ってドアを開けた。
レイリは湯船に浸かりながら浴槽の淵にもたれ掛かってこちらを見上げていた
「シュノ」
しっとりと濡れた髪からこぼれ落ちた雫がほんのり赤く色付いた肌を滑り落ちる。
髪を下ろしたレイリはいつもより余計に幼く見える。
「ねぇシュノ、こっち…」
「レイリ…判ってんのかお前」
レイリは首をかしげてシュノを見上げる。
シュノはαでただでさえΩであるレイリに惹かれやすいのに、密室に裸で2人きりなんて、生殺しもいい所だ。
レイリの気持ちが追いつくまで手を出さないと決めているシュノはちりつく本能と戦っていた。
「手を出さないと保証出来ないから上がったら教えろ」
そこまで言われたレイリは顔を赤くしてシュノに背を向けた。
肌に張り付く髪の隙間から覗く赤い首輪が目に入る。
白く細い項に嵌められた赤い首輪。
シュノの奥底からじわじわと込み上がる黒い感情。
初めて会った時に感じた、レイリを滅茶苦茶に犯したい衝動。
そんな衝動を理性で押さえつける。
レイリを絶対に怖がらせたくない、傷付けたくない。
その一心でシュノは深く深呼吸して熱を吐き出すためにトイレに篭った。
暫くして、宿の浴衣にバスタオルを肩にかけたレイリが浴室から出てきた。
「シュノ、次いいよ」
ホカホカとしたレイリの身体を抱き締めて、首筋の首輪に唇を寄せる。
びくっ、とレイリの身体が震える。
「いい匂いだな…すごく…」
「あ…ん、や…くんくんしないで…」
「だってお前、すげぇいい匂い…」
レイリの首周りを執拗に嗅ぎ回るシュノに少し恐怖を感じつつ、そっと押し返した。
「シュノ…怖い…」
不安そうにシュノを見るレイリに我に返りレイリから離れた。
「悪い、なんか俺変だ…俺から離れろ」
「シュノ…」
戸惑うレイリには判らないだろう。
「俺、今…ヒートだ。」
「えっ…」
ヒート…名前だけは聞いたことがあるα特有の発情期で突発的にくるが、引くのも早い。
「あの、僕…いいよ?」
レイリがシュノの服を引いた瞬間、鋭い視線に身動きが取れなかった。
気が付いたら畳に押し倒されていた。
フー、フーと荒い息でレイリの首輪に噛み付くシュノに、初めて恐ろしいと思った。
「あ…あっ…」
がくがくと身体が震えるレイリに、シュノは必死に首輪を噛んでいる。
Ωの匂いがシュノのヒートを加速させていた。
元々理性で抑えるのが難しいヒート。
シュノの理性とは裏腹にαの本能がΩと番になろうと首筋に噛みたい衝動に逆らえない。
レイリは恐怖に声も出せず震えるだけ。
箱入りで育って、Ωと認めずに隠して生きていたレイリに圧倒的に足りない知識は、Ωを目の前にしたヒート状態のαの反応で、今それを身を持って体験している。
「や、だ…いや…こんな…」
普段紳士的なシュノの変貌に驚きを隠せない。
受け入れると覚悟を決めたはずなのに、恐怖を感じている自分が情けなくてレイリは涙を流した。
「レイリ、早く…俺から…逃げろ」
「や、いや…シュノが苦しいのに、置いていくなんて…」
そう、頭では思っていても、身体は震える。
「いい、から…シュノの…好きに…していいから」
レイリがぎゅっとシュノに抱きつく。
その瞬間に、押さえ付けていた理性は、脆く崩れ去ってしまった。