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しあわせのありかた

 


「お前は少し休め」



仕事で大きな怪我をした。
病院に行くまでもないし、まして仕事が終わったのは真夜中だった。



鶯は何かを言いたげだったけど知らないふりをした。
大事な相棒を家まで送り届けると、家には明かりがついている。
「愛されてるな」
そうひやかせば鶯は少し笑って「そうだな」とだけ言った。
鶯と別れ、俺は自宅へ車を走らせながらお気に入りのアーティストの曲をかける。
気分が乗らない。
暗い夜道を一人で走らせる車はどこか寂しい。
幼い娘が居るから待っていなくていいといつも言ってるせいか電気は消えてる。
眠っているだろう最愛の夫と愛娘を起こさない様に戸締りをしてからバスルームに行き、湯を張る。
暖かなお湯に温泉の入浴剤をいれ、溜まるまでの間に血を流す。
傷口はしっかり消毒してきたからもう血は止まっていた。
ついつい無理をしてしまった。
誘拐された娘を連れ戻して欲しいて依頼され、逆上した犯人と斬り合いになって何ヶ所か斬られてしまった。
でも無事娘は依頼主の元に返せたし、俺も娘を持つ親として気持ちは理解出来たから大事にならなくて良かった。
だけど、シヴァは母親がこんな傷だらけなのは嫌だろうなぁと思うようになってきた。
だからすこし申し訳なくなる。
「はぁぁ…俺もまだまだだな」
国兄や黒兄みたいに尊敬される親にはなれない。
俺が無理をしていちやシヴァが傷つくのも嫌だ。
みんな幸せなのがいい。
なのに加減が難しい。
暖かな湯に体を浸して目を閉じる。
それがなんだか気持ちよくて、そのまま意識を落とした。


 


鶴が帰宅した音がして眠い目を擦る。
待っていなくていいと言われてもすぐ無茶をするあの人が気になって、寝室のベットライトを付けて本を読んでいたらいつの間にか眠っていたらしい。
帰宅した鶴は一向に上がってくる気配はない。
食いはぐれた夕食でも食べているのかと思い、なにか温かいものでも用意してやろうかと下に降りると洗面所から僅かにあかりが漏れていて、シャワーでも浴びているのかと思いいたり、中を覗いて声をかけた。
「鶴、帰ったんですか?」
中からは何も反応はない。
電気のついたバスルームからは水の音すらせずに不安になってバスルームの戸をあけた。
「鶴…?」
鶴はバスタブの中で湯に浸かりながら眠っていた。
余程疲れたのか、規則正しい寝息にほっと胸を撫で下ろす。
「鶴、起きてください、つる」
このままにもしておけずに眠る鶴に声をかける。
暫くしてから眠そうな蜂蜜色の双眸が私を捉えるのがわかった。
「いち、ただいま」
舌足らずな幼子の様な甘える声色で鶴がにこりと微笑んだ。
「おかえりなさい。
風呂で寝るのは危ないですから、寝るならベットにしてください」
「ん……寝るつもりはなかったんだが、気持ちよくて……」
とろんと今にも寝落ちそうな表情で申し訳なさそうにはにかんだ笑みを見せる。
それは付き合い始めた頃によく見せた表情に似ていて思わず胸が高鳴る。
濡れた肌、髪、そして一糸まとわぬ姿であどけなく笑う鶴。
昔の自分ならきっと理性も無く襲っていただろうなと邪な考えを振り払う。
「今着替え持ってきますから、寝ないでくださいね」
「いち」
不意に、パジャマを掴まれた。
「いち、抱いて……」
切なそうに、泣き出しそうな鶴が私を見上げていた。


 


舌を絡ませながらのキス。
濡れたからだを密着させたせいかいちのパジャマがしっとり濡れる。
カメラマンのくせにしっかり鍛えられていて、でも腰周りは細くて、大学時代のあだ名は王子様。
モデルやアイドルなんじゃないかと言われたり、毎日告白されたりしていた大学内でも割と女性ファンが多かったいち。
今でもたまに思うことがある。
何で俺だったんだろう?
俺は自分では平凡だとずっと思ってたし、悪目立ちはする方だったけど俺の周りの顔が良すぎて、文武両道で顔も性格も文句無しの王子様のお相手が俺なのか、ずっと不思議だった。
付き合い始めた頃、キスをするのもたどたどしくてどこが王子様なんだって、笑ったこともあったっけ。
愛しく俺に触れるキスが心地よくて、しあわせだった思い出が溢れかえる。
初めていちに抱かれた時もお互い初めて同士でめっちゃ痛くて、でも必死ないちが可愛くて愛しくて…
ずっと一緒にいたいと思った。
ひとつになって、いちの精液が腹の奥に注がれるのを感じて、いちと幸せになりたいと思ったのに。
今の俺はいちを、しあわせにできてる?
沢山傷つけて、悲しませて、置き去りにして…
自分勝手で酷いことばかりした俺を、いちは許してくれたけど…
「いち、いちはいま、しあわせ?」
キスの合間にこぼれた本音。
聞いてみたくて、怖くて聞けなかった。
「貴方と一緒に居られて、可愛い娘をさずかって、しあわせでないわけが無いでしょう?
あなたは…幸せじゃないんですか…?」
頬を撫でられ、抱き締められる。
モヤしっこって笑っていた胸が、腕が、こんなに力強く安心するなんて、すっかり忘れていた。
「しあわせ。
いちとこうしていらる事が一番幸せ」
少しくすぐったくて、でも大切なことだから伝えたくて…
「愛してる、いち。
もう我慢できない、いちの愛、いっぱい俺に注いで?
お腹がいちで一杯になるまで…」
「明日仕事に行けなくても知りませんよ?」
「鶯に暫く休めって言われたから、仕事に行けないように激しく抱いてくれ。
今はいちを感じていたい」
いちはパジャマを脱ぎ捨てながら笑いながら俺を抱きしめる。
密着する肌と一緒にいちが中に入ってくる。
キスの合間に漏れる俺の声と、ずちゅ、ずちゅ、と肉が擦れ合う水音がバスルームに響く。
「あ、んっ、ちゅ、ふぁ、んちゅっ、ああんっ……いち、いちっ?」
硬い床を背に覆い被さってくるのは王子様の皮を被った俺の愛しいオオカミさん。
余裕ないギラギラした肉食獣みたいな目で俺を見下ろすのがたまらなく愛しくて、腹の底まで暴かれて、犯されて、この人だけのメスにして欲しいと身体中が訴えてくる。
「つるッ、つる、愛してる、あいしてます」
俺の腹をゴリゴリと突き上げながら、いちは小さな子供が母親に縋るみたいに俺を抱き締めて、あちこちにキスを落とす。
身体中に所有印を刻まれながら、たまに胸を吸い上げられ、いちの俺しか知らない顔を見ながら腹を突き上げられる快感は麻薬のような中毒性を帯びていた。
「もっと、もっと激しく…
動物の交尾みたいに激しく俺にいちを刻んでくれ……」
腰に足を絡ませて、俺は強請るように内壁をきゅうと締めた。


 


 


「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ツ!!しょれ、もっとぉ!!
ちゅる、ぐちゃぐちゃに、なりゅまれ、ずぽずほひてぇ!」
私の腹の上で狂ったように喘いでいるのはかつて私が恋焦がれていた先輩だった人。
今では長年の片恋慕が報われ妻に迎えた人。
セックスレスと言う訳では無いが、娘が出来てからは中々機会もなく、互いに仕事もあって長い事ご無沙汰だったので、誘われた時は素直に驚いた。
仕事で何か思うことがあったのか、激しく、もっと激しくと求められるうちに鶴が飽き足らずに自ら私の上でとても愛らしいとは言えない快楽に溺れた雌顔で淫らに腰を振っている。
「ヤラシイ雌穴で私のチンポを咥えて、ヤラシイ奥さんですね。
その身体、私以外に許したりしてませんよね?」
「はひっ、ひてない、しょんなこと、おれは、いちの、つまだから、おれの、ぜんぶ、からだも、こころも、しんぞうも、いちらけの、ものらからっ!」
「勿論です、誰かにあなたをいい様にさせたりなんて…
絶対にゴメンです」
普段は色気も素っ気も見せないくせに、こんな時だけ色気全開で、意識も飛んでいるから甘えてくる仕草も可愛くて仕方ない。
大学時代からこの人は自分の事には無関心だった。
同じ講義に居た同期の何人が彼で抜いたと話をしていたか、彼は知らない。
彼の周りにはいつも美貌で人気がある方ばかりが居たからわかっていないでしょう。
あなたが人並み以上の美貌であることも、その気さくな性格から好意を抱いていることも、飲み会に誘いあわよくば集団レイプをしようとしていた輩がいた事も。
あなたは何も知らなくていい。
そんな汚い輩が触れていい存在ではない。
「あなたは私のものです。
命の終わるその瞬間まで、貴方の全ては私だけの……」
そう言うと鶴は幸せそうに微笑んだ。
何度目かの射精を腹の奥で受け、身体を快感に震わせて、だらしなく唾液を零しながら私の名を愛しげに呼びながらイッた鶴はそのままぐったり意識を失った。
浴室に籠った熱と精液の臭いに、慌てて換気扇を回すと、鶴の体を綺麗に清めて浴室から出る。
鶴は忘れたかったのでは無くて確かめたかったのだろうか?
今自分は生きていると、愛されていると。
「馬鹿な人ですねあなたは。
今更貴方を手放す訳ないでしょう?
どれだけ私が苦労してあなたを手に入れたと思ってるんですか」
バスタオルを巻き、寝室まで連れていくと今日怪我したであろう傷を消毒して包帯をまく。
タンスから出した新しき下着とパジャマを着せてベットに寝かせると、改めて憧れていた先輩が先程まで自分に股がって喘ぎ、今は隣でぐっすり眠っているのが日常だと思い知り、微笑む。
同期達には、付き合い始めた頃に相当羨ましがられた。
どんな声で喘ぐのか、どんな顔でイくのか、挙句マワしてくれと頼み込む輩も居た。
別れようと何度も思ったし、国兄さんに嫉妬して絶望したことも何度もあった。
それでも、貴方を諦められなかったのは…


「愛してます。
あなたがいなければ生きられないほどに私はあなたを愛してる。
私以外の誰かが貴方を愛するなんて考えたくないほどに」
深みにハマっていたのはいつも私の方だった。
だから許してあげます、あなたの罪の全てを。
だから、あなたは私に一生の愛を誓ってください。
そして来世も、できるならあなたを愛したい。



「おやすみなさい、私の愛しい奥さん。
怪我は程々にしてくださいね」


布団の中でなにかがモゾモゾ動いた気がした。


 


目が覚めると昨日の記憶が一気によみがえる。
風呂場で寝落ちして、気持ちよくなって、ここにいちがいたら最高なのにって思ったらいちが目の前にいて、嬉しくて……
淫らに喘いで、そのまま気絶したとか…
はずかしすぎる!!
しかも久しぶりだったしめちゃくちゃ激しくしたから腰が痛い。ついでに背中も痛い。
隣で俺の百面相の元凶は気持ちよさそうに寝てやがる。


『つる…』


昨晩の声が身元に蘇り肌がゾワッとする。
「カッコよかったな…昨日のいち…」
「それはどうも。
でも出来れば起きている時に言って頂きたいですね」
寝顔を眺めながら独り言、というか心の声だったはずのものに反応されたりいつの間にか目がぱっちり開いていた事にも驚いて飛びのこうとして、不意に抱き締められた。
「貴方はそのままでいいです。何があっても私はあなたを支えて受け入れます。
だけど何かあったら言ってください。
全て察するのは私には無理ですから」
「んっ…」
キスしながら、頬に添えられる手が心地いい。
「いち……もういっかい、する?」
照れくさそうに位置を見上げれば、めずらしく照れたようないちがどうしようか迷っている様で面白かった。
「いち」
「…シヴァが起きてくる前に朝ごはんを作りたいので、一回だけですよ?」
そういってベットに俺を押し倒す。
「ふふ、うんうん。わかってる。
可愛いお姫様がお腹を空かせて待ってるものな?
でも、俺も可愛いお嫁さんだから、構ってくれないと死んじゃうんだぜ?」
「まったく、仕方のないお嫁さんですね」
そういっていちは俺の大好きな笑みを浮かべた。
朝の陽ざしがカーテンの隙間から差し込む中、俺はいちの愛に包まれて幸せをかみしめた。



そろそろ、新しい家族が増えそうな予感がする。


 

3.優しくないユメがいい

黒く、昏く、長い廊下が続いている。
それは自分が住んでいる本丸のようであり、しかし知らない気配があちこちからしていた。
曲がり角、柱の陰、花瓶の隙間、掛け軸の中、襖の間、天井。
皆くすくすと笑っていたり泣いていたり、音を発している。
こわい、こわい、ぜんぶこわい。
小さな狐の少年は、しかして身に余る霊力を持っていた。
昔は狐の母が、その後に混じりの母が、今は鬼の青年が守ってくれている。
日々はそれで安心するものの、時折こうやって夢の中に入ってくる。

「ほんとうに? どうしてまもってくれるの、どうして?」

不安をあおる声をなるべく聞かないように、紅葉の手の平で耳を塞いだ。
そうなると不安定になる体勢で、転ばないように気を付けると足が遅くなる。
だめだ、だめだ、これじゃあだめだ。
追いつかれる、追いつかれてしまう。

「どうして? どうしておわれてるの、ねえやすもうよ」

いやだ、いやだ、ぜんぶこわい。
どうしてここには誰も居ないの。
安心出来る刀達も、朱乃も母様も。
どうしたら良いのか困り果て、落ちる涙に視界が歪んでとうとう転んでしまった。
膝小僧を擦りむいたのか、恐怖に竦んでしまったのか。
萎える足は立ち上がる事も、歩き出す事も許してはくれない。

「ふぇ……朱乃、母様……ひすいかあさま……!」
「うん、呼んだか?」

助けて、と必死に一心で願った瞬間だった。
怜悧に伸びた影の足が一本、手に弾かれて消え去った。
怜悧は驚きに声を上げながら頭を竦め、背後を腕の陰から覗き見る。
そこには白金の髪に紅い眼を光らせた、常とは違う女性らしい着物姿の母が居た。
色合いは違えど、霊気や雰囲気、何より相貌を見知っていた。

「かあさま!」

助けに来てくれた事が嬉しくて、早くその温かい腕で抱き締めて欲しくて怜悧は飛び付いた。
否、飛び付こうとした。
もふん、とふわふわの何かに全体を包まれて動きを止める。
不思議な事に、目の前の母には狐のような白い尻尾が九本あった。

「何だお前、母様とは私の事か」
「かあ、さま……?あの、しっぽ?」
「お前も狐のアヤカシだろう。名は?」
「え? 僕の事、分からないの?」

常とは違う、温かみの感じられない瞳で見下ろされる。
安心させる微笑みは浮かべているのに、何かがおかしい。

「分からない、とは何のことだか……けれどお前、愛し子に似ているな」
「いとし? かあさま……もしかして、きおくそーしつ?」
「記憶? それなら覚えているとも」

お前は知らない子だ、と言われて怜悧はまた泣きそうに表情を歪めた。
病気の一種ならまだ我慢は出来る……否、出来ない。
多分、そう言われてもショックだっただろう。

「ぼく、れいりだよ。怜悧……かあさま、忘れちゃったの?」
「れい、り? ふむ……ああ、なるほど、そういう事か。よし、分かった」
「わかったの? おもいだした?」
「ああ、いや……その記憶なんたらというのが分かっただけだ。行くぞ、怜悧」

思い出したわけではないと言われて再び落ち込んだが、いつもの母らしい態度に少し安心を覚えた。
手を引いて貰えると思って伸ばした腕は、しかし空をかすめる。
驚いて足を止めた怜悧を、母が気付いて足を止めた。

「腕か。そういえば今日は腕が無かったな……そら」
「かあさま?」
「どうした、助けて欲しいんだろう?」

そう言って首を傾げる様は愛らしく、おどけて笑って見せる姿に安心する。
色々とおかしい事があったせいで怜悧は母の言葉の意味にも気付かない。
それでも差し出された反対の手に嬉しく思って飛び付くように両手で絡みついた。
目的地は決まっているのか、足取りは軽い。

「かあさま、ここ知ってるの?」
「ユメだろう。そういったものは始まれば終わるものだ」
「どうしてかあさまの色が違うの?」
「夢に色はない。感覚の問題だろう」
「かあさま、なんで尻尾あるの?」
「お前だってあるだろう」
「かあさま、かあさま!」
「……怜悧、だったか。一つ問おう」
「え?なぁに??」
「何故、お前は守られて当然だと思っている? 私を助けだと言い、お前は何もしようとしない?」

紅い瞳が見下ろしていた。
普段は優しい母の瞳が、空虚な虚ろのように見下していた。
問いかけは突然で、怜悧には意味が理解出来なかった。
守ってくれたのも、助けてくれたのも母の方だと、何もしなくて良いと教えたのもそうだった。
けれど今は何故か、それが間違いだったと言いたげで。
針のむしろに座るかのように肌が痛くなる。
急激に感じるプレッシャーに、喉の奥からヒュッと掠れた音が出た。
冷や汗を感じて身体に震えが走る。
何か、何か言わなければ……。

「いや、答えなくて良い。そろそろ目覚めの時間だ。怜悧、一つお願いがある」
「……ぁ、……な、に?」
「そう緊張するな。私はお前を害しないよ。もしも夜、誰かに名を呼ばれたなら応えて欲しい」
「……??」
「それがその場には居ない者だとしても、一度で良い。応えてくれ。私はお前の応えに応じ、助けたろう?」
「たす、け……?」
「そうだ、助けただろう。一時的だが闇を払った。故に次は私が望む番だ」
「……ん、わかった。かあさまが、言うなら……何か意味、あるんだよね?」
「意味、か……。そうだなぁ」

怯え始めた少年と繋いだ手をゆっくりと手放しながら、白く染まっていく世界の中でそれはしっかりと微笑んで頷いた。
開かれた口が言葉を成した時、怜悧は布団から上半身を起こしていた。
見覚えのある寝室に、隣に眠る人の体温。
目を向ければ覚えのあるその人が眠っていて、安堵の息を吐く。
そうして自分が何故こんなに早く起きたのかと首を傾げ、夢を見たのだと思い付いた。
確か何かに追いかけられる夢を見て、

「あれ?」

どんな夢だったかを忘れてしまった。
まだ覚えていると思ったのだが、思い出そうとすればする程靄になり形を掴めずに消えていく。
夢とはそんなものか、と納得しかけた時。

「私はイタズラが好きなんだ」

楽しそうに笑う女性の声を耳元で聞いた気がして振り向いた。
そこにはただ、朝日を受けて白く輝く障子があるだけだった。

4.真綿で首を締めるようなアイ

自らの手の中にある緋翠の珠を日にかざす。
それは透き通った色合いをしているのに昏く澱んでいた。

「これが私の核、か……」
「正確にはそれに呪いや魔術を掛けた物が、だよ」

いつの間にか背後を取られていた事に驚く事も無く、非難するでもなく。
手をひるがえすと次には珠が消え、代わりに柔らかな手を差し出すように背後の人影へと差し出した。
ふくよかな胸の前に花をあしらう帯を流し、花魁のように髪を結い上げている。
背には真っ白な九本の狐の尾、目尻に赤をあしらった紅玉の眼差しは愉快だと、紅を引いた唇は慈愛の笑みを称えていた。

「よく来たな、愛し子よ。しかし……挨拶なしではたいした出迎えも出来んぞ」
「来訪者喰いの呪いを掛けておいてよく言うね。間違って、食い散らかしたから後で掛け直しなよ」
「おや、そのようなイタズラが? こわやこわや……愛し子よ、怪我はせなんだか?」
「僕の不興を買いたいなら成功だよ」

背後から伸びてきた白魚のような手に首を絞められてなお、女は笑みを崩さない。
本気で首を絞めない等と思ってはいない。
現に手は皮膚がたわむほど締め付けているし、爪先は突き刺している。
あいにくと血が滴る事は無かったが、むしろそれこそが女が平気な顔をしている所以であった。
数多の怨霊と血と肉、霊脈の澱みと呪い、とある人物の陰気。
そのようなモノで成っている女は、簡単には死ねないが作り主の怨みでヒトとして完全に象る事も出来ない。
とある人物もそうだったが、女もとかく半端である。
そして作り主こと今、首を絞めている人物も半端者であった。
呪う者としては大成しているのに、人を捨てきれない部分が残っているせいでそれは脆い。

「それで、何用だ。わざわざ愛し子が来るほどの用向きなど、覚えがないぞ」
「別に、ただ大人しくしてるか見に来ただけ。ついでに、下手な事出来ないように手足をもごうと思ってね」
「そうか。それは随分と寂しい限り……言い付け通り、大人しく。なにせ私は外へ出れぬからな」

首を絞める手を離し、忌々しげに舌打ちをする。
どんなに嫉ましいとしても、憎らしい存在だとしても完全に手は出せない。
その魂がとある人物の分け身である限り、近しくも手に入らない人の代わりとしても側に置きたかった。
だが、見たくはなかった。そしてそれは、奇しくも女にとっても同様。
例えばとある人物が人よりこの存在を優先したとして、人を諦めたとして、母として生きて居たならば。
それは存在そのものを否定、全く違う人物の構築に近いものだった。
故に精神性は同人物の違う時間軸のものが引き継がれた。
人よりこの存在を優先し、人を諦め、人として生きる事を諦め、母として生きた彼の人物。
その代償に、母は愛しい子を二人、殺されていた。
最初の子を二人目の子が看取り、二人目の子を母が死に水を取った。
子の死を目の当たりにした母にとって、生きているはずの無い愛しい子との接触は嫌悪であり、憎悪であった。
互いが互いの理想を怨み、憎悪を向けられずには居られない。
だのに、その者が目の前に居たならばと温もりを、声を、願わずにはいられない。
受け入れられないのに、苦痛でしかないのに、全てが摩耗していく。

「外に出られずとも、貴方なら出来る事はあるでしょう?」
「無論。だがな、それだけでは私が飽いてしまうだろう。狐とは、存外、イタズラ好きな生き物、だから……な?」

言葉尻を指で作った狐にコン、と鳴き真似をさせて微笑む。
首を絞めていた少年、怜鴉は、愛らしいとも思えない母のお茶目に睨んで返した。
色味は違うが母と同じ顔をして、彼女がしない表情で空虚を漏らす虚ろの女。
縛りを与えるために名は母と同じひすいと付けた。

「馬鹿らしい。けど、貴方のイタズラは見過ごしてやるよ。僕としても都合が良いからね」
「そうか。なら、今度はお前が使える物を造るとしよう。……あちらの私が使っているのは、刀剣男子、と言ったか?」
「……人の歴史を守るなんて、無意味だ。守るに値しない」
「そうだな、そこには同意だ。率先して関わる意味もない。……だが愛し子よ、あの子は良いのか?」

言う女の瞳は紅く、縦長の瞳孔が針のように細くなる。
いつだってこの女だけは軽々しく、そして何でも無い事のように怜鴉の唯一を口にするのだ。
怒りにかられ、女の腕を伸ばした爪で一閃に飛ばす。
衝撃に細い身体が吹き飛ばされ、為す術もなく床に縫い付けられた。
鳩尾に足を落として身動きを封じてから、怜鴉は少しだけ不快そうに眉をひそめたひすいを見た。
もしかしたら、今日ここへ来て初めて目を合わせたかも知れない。

「毎度言うけど、貴方も懲りないね?その話はするな」
「そうか。しかし愛し子よ、私は愛し子に関わる事だから口にする。反魂は出来んだろう、魂呼ばいも出来ん筈だ。あの子は、良いのか?」

今度は予備動作も見せずに尻尾を引き千切る。
千切れたそれは霧散し、単なる力として怜鴉に吸収された。
女は餌だ。
極上な霊力を持ち、怜鴉に近い力の混ざり者であり、何より死なず母と同じ魂を持つ。
ただそれだけの、重要な餌だ。
女の言う通り反魂も魂呼ばいも出来なかった、行方も知れず生死も不明。
容易く口にするのは、母でも許せない。
たった一人、唯一だと認めた。
餓えを覚え渇いた魂が、満たされるようだと歓喜した。
あの子の為に狂い、あの子の為に溺れようと誓った。
胸にも手を突き刺し、肝を引き摺り出して口にする。
母が言う言葉の意味も、タイミングもよく分からない。
ただ憎くて憎くて怜鴉を捨てて怜悧を選んだ事が許せなくて、八つ当たりだった。
女は口から澱みを吐き出し、自身も真っ黒な泥の中へと沈んでいく。

「かふっ……なる、ほど。また、今度か……」

一人満足そうな笑みを浮かべ、女は艶然と微笑みながらゆっくりと目を閉じた。
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