眠れなくなったのはいつからだったか。
鶯が死んだあたり?
椿が失踪したあたり?
怜悧が夢の中で殺された時だろうか。
どれも近い様で遠い気がする。
朝方に目がさめてから眠れる気配はない。
ベットの中で寝返りを打つも眠気は襲ってこない。
かと言って起きる気にもならずそのままベットに身体を沈ませた。
最近は眠ってもすぐに目が覚めてしまう。
その感覚は次第に狭くなっていった。
最終的には、薬に頼らなければ寝れなくなった。
俺の部屋のベットサイドの引き出し。
そこに薬が入っている。
毎晩処方分の錠剤を水で流し込む。
1人寝には広くなったクイーンサイズのダブルベッド。
隣にはいちが座ってこちらに気がつくと笑って撫でてくれる。
「どうしました?」
「いち…手繋いでくれ」
いちは笑って手を繋いでくれた。
「忘れたくない…」
俺は怜悧を失った場所で今度は愛しい娘を亡くした。
怜悧の時とは違ったと思う。
でも引き裂かれる音がひどく鮮明に耳に届いた。
俺は怜悧がなった症状と同じ、心因性の健忘症を患った。
ただ、怜悧は誰彼構わず覚えてたり覚えてなかったりする。
だが俺は違った。一期のことは決して忘れなかった。
そして、鶯も。
それがシヴァには申し訳無かった。
最初はただの友達だった。
そこからだんだん妹みたいに思えてきて、今では大分娘と思えるようになってきた。
その矢先に俺がこんな事になって、あの子は俺を恨むだろうか…
そんな子ではないと言える自信が今の俺にはない。
ぼんやりとしか思い出せないシヴァの事も明日には忘れているかもしれない。
それがただただ怖かった。
椿を思い出せない日もあった。
電話がかかってきたのを取ったのがいけなかったのか電話口でおかしいと感じた椿が国兄を連れてきたことがあったが俺は2人とも判らなかった。
黒月はもっと会う頻度が少ないせいか毎回主治医だと理解出来ないでいた。
黒葉先輩の所には頻繁にカウンセリングに行っているのに数回しか覚えていたことがない。
自分の記憶があやふやで不確かなものになっていくのが怖かった。
俺の知らない人が俺を知っている感覚。
悲しげに目を伏せらるあの感覚。
「いや、いや、いやだいやだいやだいやだ!!」
「鶴丸殿、どうなさいましたか?」
いちがすかさず抱きしめて、背中を撫でてくれる。
「いち…いちは本当にいちか?
俺の、恋人だった?」
「そうですよ、思い出せませんか?」
「違う、違うんだ…俺は君との思い出を都合よく誤解してないか?
君は優しいから、頭のおかしい俺に合わせてくれていないか?」
「あなたが私の恋人で無いならそこまで致しません。
それに、頭は覚えていなくても身体は覚えていますぞ?」
そう言って首筋を舐めあげられてビクリと身体が跳ねる。
何度も肌を重ねた、体温が溶け合うほどに交じりあった。
そんな身体はいちから与えられる快感に従順で、俺はいちのものだって自覚できる。
「いち、いち、愛してる、愛してる」
いちが笑ってキスをくれる。
俺の世界で一番大切な人。
いちが居ないと生きていけない。
「私も愛しています。どうか、どこにも行かんで下さい」
「行かない、行かないから…
いち、いちっ…」
いちが俺をきつく抱きしめた。
そこで意識は途切れてしまった。


「鶴丸、今朝の調子はどうだ?」
昼間はいちが眠っている。
いちは俺が寝てる間、ずっと起きていてそばに居てくれる。
パソコンで写真を整理しながら、俺におかしな様子があればすぐに対応できるようにと。
そしていちが寝てる間はこうして鶯が俺を看ている。
「今朝のノートは書いたのか?」
鶯は茶を淹れながら1冊のノートを指さした。
それは黒葉先輩から渡されたものだ。
朝起きてすぐと寝る前の2回必ず日記をつけること。
朝は覚えている人の名前と関係を書く。
夜は一日の出来事を書く。
鶯がそのノートを書き終わるのを向いで眺めている。
今日は3人忘れてるそうだ、誰かはわからない、名前を聞いてもピンと来ない。
「今日も……シヴァは覚えてないか。
膝丸は…髭切の弟だぞ、これも駄目か…
おやおや、包平も忘れてしまったか。
あいつは…俺の番だ。覚えていないか?」
「ん…よく、わからない……」
「そうか、まぁ今無理に思い出すことは無い。
朝食は取ったか?薬は飲んだのか?」
「…飯は…どうだったかな、食べたような気もする…薬は飲んだ」
「鶴丸、今朝の分の薬はここにあるぞ?」
「え…?」
鶯がとんとんとテーブルを叩く。
「あれ…さっき飲んだのに…」
個包装された薬の袋に錠剤が数種類入っている。
黒月が毎日2回飲むようにと言った薬だが、何の薬だったか覚えてない。
「これ、何の薬だった?」
「精神安定剤と抗うつ薬だ。
不安やイライラを抑えてくれると黒月が言ってたのは覚えてるか?」
「……ああ、そんな気はする。」
薬を眺めながら自分はこんなものに頼らなければならないんだと改めて実感すると落ち着かない。
頭がぼんやりして思考がうまく働かない。
生きてる感じがしない。

「なぁ、鶯。俺、生きてるか?」

鶯が、悲しそうな顔を一瞬だけ見せた。
失敗した、そんな顔をこいつにさせたい訳じゃない。
「お前は生きてる、大丈夫だ。
それとも、死人の言うことは信じられないか?」
「ちが、そうじゃない…すまん、俺は…そんなつもりじゃ…」
「別に責めてない、お前も俺もちゃんと生きてる、こうして触れ合えるだろ」
鶯がギュッと手を握る。
一瞬驚いてビクリと身体が跳ねるが鶯は手を離さなかった。
「お前は少しひとりで気張り過ぎる。
俺が死んでからはそれが顕著に現れていた、少し肩の力を抜け。
どれ、俺が茶を入れてきてやろう」
「いくな」
俺は立ち上がった鶯の腕を引いた。
バランスを崩した鶯が椅子ごと倒れても、溢れ出すものを止められなかった。
守らないといけない、俺が。
俺の命は大切な人を守るために使うと決めた。
「鶴丸、どうした?」
鶯が困ったように笑いながら隣に座って背中を撫でてくれる。
「いやだ、鶯!行かないで、消えないで、俺の記憶から消えないでくれ」
感情は一度溢れだしたら止まらない。
洪水の様に堰を切った感情が俺の口から次々と溢れ出す。
「なんで、なんで居なくなるんだよ
俺の前からいなくなるんだよ
やめろだめだ、消えるなよ、忘れたくない、わすれ、てく……きえてく…」
みっともなく鶯にすがり付いて悲鳴みたいに泣き叫んで、鶯はそれを黙って聞いて、背中を優しく撫でる。
俺が忘れていくのはそいつらの事をどうでもいいとこもってるみたいで、嫌だった。
大切なのに、忘れたくないのに、消えていってしまう。
「忘れたくない…」
こんなに気持ちが揺れるのは鶯の前だからだろうか。
「鶴丸、お前が大切にし過ぎるから耐えられないんだ。
抱え過ぎて、こぼれ落ちそうなのにそれすら許さないから、お前は自分の心をすり減らす。
今までは俺の代わりになろうとする事で無理矢理理性でそれを縛り付けていた。
だから、壊れてしまった」
鶯の言葉が頭の中に重く響いていく。
「鶴丸、お前は誰だ?お前は何がしたい、お前の本当に守りたい相手は俺ではないだろう」
「違う、違う違う違う、俺はあの時、お前を……」
すがり付いたまま崩れ落ちた俺の隣で鶯は背中を撫でながら飲みかけのお茶を口に含む。
「吉光はどうする、あんなにお前を深く愛してくるれる男なんてこの世界中探してもあいつだけだ」
「いち……」
「そうだ、お前の為に吉光はどれ程その身を削っていると思う?」
「……あ…おれ…」
「お前が少しでも安心して寝れる様に1晩中お前の傍に居てくれてる吉光を誰が守るんだ。」
「お前は、お前はもう、居なくならないか?」
「ああ、少なくとも暫くはその予定は無い。
包平と番になったんだ、あいつを一人残すことはしない。」
鶯が笑って、幸せそうに笑ったから、俺は大丈夫だと思った。
鶯はもう勝手に居なくならない。
あの日確かに鶯の声を聞いた。
名前を呼ばれて、急いで駆け付けた。
あの時、あの瞬間しかなかった。

鶯が殺されたのは俺が側を離れたせいだ。

「うぐいす」
「どうした?」
「……茶を、いれてくれ」
俺は大切な人を失っていく度に思い出を抱えて生きていく。
「ああ、そこに座ってろ」
鶯はキッチンの方に姿を消した。
「あいつの時にも出来たじゃないか」
俺は自分の手を見つめた。
亡くしたなら、その分俺が変わればいい。
後悔しないようにすればいい。


俺が全部引き受けるから



五条鶴丸は幸せそうに笑った。