水無月の頃になった。
行方不明となった緋翠の手掛かりもないまま、季節は春から夏へと差し掛かろうとしている。
長かった梅雨も明け、水の主とも言える緋翠の恩恵から火の勢いを受けた怜鴉を首座においた本丸は、初夏にはまだ早い季節だと言うのに熱い。
それは精神の在り方が本丸の時季に影響を与える故か。
暑さにバテ気味の朱璃を見ながら、怜鴉は忙しい日々を過ごしていた。
「全く……厄介な事してくれたよね。無作為発動型の時差式罠だなんて」
「そうは言いますけど、自身が常に万全とは限りませんからこの位の策は当たり前ですよ。けれど、さすがに多すぎましたかね……情報だけを流して運用可能にしておいたのもまずかった」
今居るのは審神者執務室であり、文机を挟んで怜鴉と大裳であるルーシェスが向かえあっている。
二人が並んで見る巻物は覚えうる限りの遡行軍の情報だ。
郷に入っては郷に従えとばかりにルーシェスは情報の和文化を図った。
その成果の一つが目の前の巻物であり、机と言わず床の上にも散乱している幾つものそれだ。
内容は勿論のこと、暗号化されている中身を見て理解出来る者は少ない。
必然、手は足りなくなってくる。
「本当に、なんでこんな事したわけ」
「徹底的な戦力の壊滅を貴方が望んだからでしょう。私は命令された事を推敲し、遂行しただけ。とは言っても……我ながら手際の良さに感服します」
「はいはい、あちら側の愚か者にも分かりやすいようにするっていう無駄な有能さね。自分がこっち側に来るとは思わなかったわけ?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ、主上」
いつもの如く悪態を吐きながら、片手間に暗号を照らし合わせて情報を精査していった。
こんのすけに指示を出す傍ら、脇に置いた端末を操作して政府の管理官へと情報を横流しする。
遡行軍から怜鴉が抜けてここ数ヶ月、戦闘は過激化の一途を辿っていた。
良くも悪くもあちらの主軸の一人として戦陣を担っていた節がある怜鴉。
彼に遠慮して、または警戒して穏健派に回っていた派閥が動き出したのだ。
敵の動きを助長したのはルーシェスが流布していた戦略や薬、罠も起因する。
つまりは二人共が後先考えずに復讐を誓って動き回った結果、有能さに拍車を掛けて今首を絞めてきているという事。
怜鴉の正式な辞令や就任式を後回しにしてまで本丸維持の為に奔走する羽目になった。
遠征に次ぐ遠征に出陣に次ぐ出陣、常に人が動き回る本丸にあって、息つく暇なく式神達も総動員となる。
唯一手の空いている者は朱璃だけとなり、その朱璃ですら怜鴉を癒すために構われ続けて疲れを見せていた。
その折、ようやく好い日取りを決めて就任へとこぎ着けたのがこの水無月は朔日のこと。
「ここいらで一区切り付けませんと、客人を迎えるのでしょう?」
「……ああ、母さんの縁者ね。向こうも先陣切ってるだろうに、わざわざご苦労な事だよ。山吹とか言ったっけ。天后は会った事ある?」
「はい。頼もしいお人柄で、気の良い方ですよ」
読み終わった巻物を片端からまとめて積み上げていきながら、白金の髪に翠色の瞳が緩やかに笑う。
天后は茘枝、と名付けられた彼女は緋翠の頃から仕える式神であり、怜鴉が幼き頃に世話を受けた者だ。
片付けを終えた後は傍らに用意しておいた冷茶を出し、目元を赤らめて息を吐く朱璃に風を送る。
昨晩は声が嗄れてもなお啼かされたようで、紗の天蓋にありながらぐったりと身体を預けてきっていた。
人の領分を越えるほど見目麗しいだけではなく、気だるげな色気も相まって存在の儚さが拍車をかけ一種の芸術品めいている。
「朱璃、疲れた?」
「……ん、くぁ……」
あくびをする様は幼く、うとうとと眠そうに目を擦った。
その手を止め、怜鴉は舌で朱璃の睫に浮く涙を舐め取る。
されるがままにしながら曖昧な反応しかしないが、それでも怜鴉を相手にするからこその話し。
怜鴉が関わる事でのみ人間性を垣間見せるのは相変わらずだが、格段に良くなっていると言える。
そんな朱璃を望んでいた人物が欠けている事実が悲しい。
「朱璃様は元気な子です、少し休んだらお着替えをして主上とお客様を迎えましょうね?」
「良いよ朱璃は、見せたくない。茘枝も一緒に休んでなよ」
「いけません! 主上が正式に本丸の主であるという証の場に番の者が居ないのは反目が御座います。まして式の一人に過ぎない私が居ないとなれば、主上が侮られます」
「別に、侮ったところで返り討ちにしてやれば良い」
「主上……朱璃様を大切に思うなら、無用な争いの種は蒔きませぬ様、お願い申し上げます。慣用には意味が、それを守る事に意義が御座います。賢明なご裁可を」
「……分かったよ。あの人ならこんなつまらない事、気にしないと思うけどね」
「あら、御台様はああ見えて律に厳しく礼儀正しき姫でしたよ?何より祭り好きでしたから」
「つまり、何事も楽しめって事ね。仕方ない、けど朱璃は御簾を下ろした中で良いでしょう?」
「ええ、構いません。参加している、という事が重要なのですから」
主に天上人としての在り方を説きながら、天后は良く出来ましたと子を褒める親のように微笑む。
ある意味でもう一人の母と呼べる相手の気さくさに満足な笑みを零し、怜鴉は朱璃の頬を撫でた。
うっとりと目を細めて自らも手に頬を擦り寄せる朱璃。
そんな二人を見ながら天后と大裳は頭を垂らし、御前を離れるのだった。
花魁風の華美な繕いをした着物に身を包み、その人物はやってきた。
長い髪は複雑な編み込み方をして頭の上方を包み込むハーフアップにされ、残る部分は何もせずに背に流れていく。
だが、どうみてもアフロか鳥の巣を乗せているようにしか見えないそれに、怜鴉は開いた本殿の扉を一度閉めた。
「ちょっと、客を締め出すなんて良い度胸してるじゃない!?さすがあの女の息子ね!!?」
「うわー、うわー、山吹様やばいですって!だからその壊滅的なセンス控えましょうって言ったのに!何であたしまで駆り出してんですかこのクソ巨人!!」
「あらやだ、竜胆ちゃんが新しい椿審神者を見たいって言ったんじゃない」
「あれは言葉の綾、情報屋の性ですよ!一瞬見ただけですけどやばい圧力でしたよ!?これだから完成された存在って嫌、見た目からして圧力半端ねぇ」
「あんたの美形嫌いは根が深いわよねぇ……何と言ってもあたしに通用しない辺り、業が深いわ」
本丸の主を放って繰り広げられる会話に頭を痛め、業が深いのはお互い様だろうと苦虫を噛み潰す。
朱璃を置いて先に来て良かったと思い、いや良くないと思い直した。
一体誰と誰が知り合いか問いただしたくなるような、存在自体が暴力的と言わざるを得ない者を見た。
「全く認めたくないけど……あれを縁者に認めるって、どれだけ懐が広いの……」
どういう基準で選んだのかが気になる所だが、問い正したい本人は不在である。
連れ戻したらこの分の借りもきっちり返そうと決め、一呼吸置いて改めて観音扉に手を掛けた。
先程と同じ視界の暴力を目線に捉え、その巨体の影に隠れるようにある存在に気付く。
黒色の髪をハーフアップに、頭の横で二つに縛り上げていた。
金褐色の瞳は猫の様に釣り上がっていて、気の強さを表した眉の上で前髪が揃えられている。
人柄を表す上で、それはよく似合っていると言えた。
「で、どっちが山吹?」
「今、あたしの事はしょった?何よこの親子、どっちも厚顔不遜!面の皮が分厚いにも程があるわよ!」
「うるさい。こっちにはこっちの事情があるって分からないわけ?相手をするのも面倒な程忙しいんだよこっちは」
「はいはい、親好を深めるのはそのくらいになさい!それと、今日は言祝ぎに来てるんだからあんたはあたし達の相手をするのよ。こういうのを疎かにすると、世話役が文句付けられるのよ」
「……何だ、見た目の割には常識人なんだ」
「さっきからあんた達、あたしに文句あるっての?ヤルなら受けて立つわよ」
あぁん?と化粧で整えられた顔面を歪めながら巨体が吠える。
前情報といい今の反応と良い、恐らくはこちらが山吹で間違いないだろう。
確認するべき事はもう無いと、怜鴉は顎をしゃくって中へ入るように促した。
意外にも二人共、礼儀正しく一礼をして敷居をまたぐ。
中へ入ると本殿の廊下の左右に天后を筆頭に控えの者達が頭を垂れて待っていた。
「本日は遠方よりわざわざのお越し、有り難く存じます。ここより先は主人に代わりまして、私たちが」
「へえ……流石は椿の審神者、良い式神持ってるわね。品も良いし、これは意外だわ」
「天后、これは火葬場に運んでおいて」
「主上は冗談がお好きなのです。お褒めに頂き、有り難く存じます。竜胆の審神者、しかし私共は主上のお人柄あってのもの。努々お忘れ無きようお願い致します」
「ふふ、さっすが天后ちゃんね。椿の、この子を大事にしたいならそれなりの場では礼節を弁えるのよ?」
「言われなくても」
肩を竦めて山吹の小言を受け止める。
そのまま天后に案内は任せ、怜鴉は正装に着替えて朱璃と共に控えの間へ行く。
連れた後は上座の定位置へと座らせ、御簾を下ろした。
怜鴉はあえて客座の正面に座し、段差が無い事で身分に違いがない事を表す。
それぞれの紹介は天后が中継ぎをし、準備を整えた。
「備前国は山吹の審神者より。椿の審神者就任、お祝い申し上げるわ」
「越中国は竜胆の審神者より。椿の審神者就任、おめでとう御座います」
「先達よりの言祝ぎ、謹んでお受け致します。これよりは椿の審神者として、先代と代わらぬご厚意を承れるよう精進する所存」
「つきましては、本来でしたら酒席を用意する所。ですが……椿の本丸は先代審神者、御台について主上よりお願いが御座います」
「あらやだ、本題に入るの早すぎじゃ無い?」
「って言いますけど、あたしを連れ出したのはそれが目的でしょう?さっさと用件終わらせて帰りたいんですけど」
「無粋な子ねえ……普段は礼節だの儀礼だの形を重んじる割には及び腰なんだから」
「あたしは!貴方と違って頭を使う役職なんです!前線で槍振ってりゃ良い脳みそ筋肉とは違うんですよ」
「は?誰が筋肉ですって?」
「ちょっと、そういう茶番はいらないから。あんたらの持ってる情報あるだけよこして。か……緋翠が居なくなった理由とか、そういうの」
苛々と苦虫を噛みつぶした顔で怜鴉は言う。
元より仲良く、など意識はしていない。
そんな馴れ合いは、無遠慮に踏み込んできたあの人と最愛を除いては求めて居ないからだ。
気にした風もなく山吹は肩を竦め、竜胆は背を伸ばす。
前者は慣れから、後者は怜鴉の威圧が自然とそうさせるからだ。
臣下ではないのに自然と部を弁えてしまう。
それは生まれながらの長者の特権であり、業であり、性だ。
表向きは渋々と、大人しく竜胆は口を開く。
「今のところ政府は遡行軍の対応に追われていて、御台の不明について混乱は起こってないわ。管理者が有能だから、情報規制も上手く機能してる」
「最古参のお歴々も同じく、ね。一部愉しそうにはしゃいでるけど……元々横の繋がりなんて無いに等しいのよ。あたしは例外ね」
「使えない……その位の情報なら僕だって握ってる。他には?」
「……なら、まだどこにも出回ってないとっておき。神無月の朔日、時の政府は審神者の上位に神を戴くつもりよ」
「は?何よそれ、聞いてないわ」
竜胆の言葉に山吹が初めて焦りの色を見せた。
怜鴉も掴んでいなかった情報なだけに、信憑性が窺われる。
「報せは直に。問題は、審神者の上位として戴くって事。これまで治外法権も良いとこだった本丸に、政府とは別に監査が入るようなものだから」
「それは……可能な訳?」
「審神者が納得するかどうかって意味なら、聞かないで。出雲からわざわざのお越しってなったら、迎えざるを得ないわね」
「今の本丸は三千世界に広がってるから、政府だけでは手が足りないのが現状。審神者と付喪神の癒着から神隠し、独断で刀剣男子の差別化、問題は山とあるわ」
「今は水無月だから……神無月までは4ヶ月。情報を集めるには短すぎるわね」
「情報の精査や関連付けについては厭わない。とにかく耳と手が足りないんだ。御台に関してはあんたらも借りがあるはず、協力してくれるよね」
疑問ではなく断定で、怜鴉は言った。
二人からの否やは無い。
それぞれが得意の分野で動きを開始する事に決め、三人は頷きあった。
「あたし、あの人の粗野で粗暴で暴力的で独断的で傲慢な所は嫌いだけど、調停力に関しては評価してるの。今居なくなられたら、お山のアヤカシが荒れるわ」
「アヤカシ……妖怪って本当に居るわけ?」
「あやかしい者、って意味ならYES。純粋な者は少ないけど、それなりの血筋は結構残ってるものよ。衆目力と純粋に力を持つという責任感があの人にはあった。力があるという事はね、それだけ影響力があるという事だわ」
「つまり緋翠は、相変わらずのお人好しでその辺りを上手く収めちゃった訳だ」
「そういう事」
「望もうと望まざるとに関わらず、あの人はそれなりの仕事はしていた」
人を愛する、そういう人柄だから。
光を見守るという事は影も見守るという事。
それを意識的にか無意識的にかは定かでは無いが、出来ていたという事実が肝要だ。
人の道筋を守る為、敵と見なした者には容赦はしないが淘汰もしない。
勧善懲悪でありながら、悪をもまた愛していた。
そういう人だから、怜鴉をありのまま受け入れ、身内にすえて愛する事を決めた。
愚かしく、純粋な、どこまでも人らしい半端者。
「なら、あたしは神仙の世界について情報収集をするわね。あっちにもそれなりに法とか律とかあるから。ついでに、分かる範囲で貴方にレクチャーしてあげる」
「……良いけど、あんたの趣味についてはいらないから」
「ちょっと、あたしのセンスのどこが悪いってのよ!」
「……悪いって訳じゃないけど、奇抜なんですよ……」
疲れた様子の竜胆の言葉を受け、この場は互いに情報交換を中心とする事にして祝いの場は酒席へと代わっていった。
これ以降、山吹は出撃の合間をぬって月に一度とそれなりの頻度で椿本丸を訪れるようになる。
更に合間に出雲へ出向いては神の意向とやらの探りを入れるため、かなり破格の対応と言えた。
その分負担は大きいだろうが、むしろ本人は生き生きとして来る度に何かしらの土産物を持参する。
竜胆はあれから本人が訪れる事は一度もなく、通信だけは頻繁に交わすようになった。
大概は大裳、ルーシェスが対応を引き継いでいるのだが、本人が自負するだけあり情報の収集力に関して一目を置いて居る。
しかし多岐に渡る内容の割には的外れな事も多い、とルーシェスは嘆いていた。
怜鴉に限っては知識として完成されている物が乏しいと苦言を注する程。
「蠱毒の影響でしょうけど。術を識っているからと言って、成り立ちや使い時を知っていないと正しい方法を理解してるとは言えません」
こういう理由からルーシェスは怜鴉に術を使わせる事を厭う。
図書館に寄贈された本の内容を、司書が全て知っているとは限らないのと同じ。
検索して方法が分かるだけでは正しい知識とは言えないと稀代の錬金術師は語る。
知識オタク、と内心毒づきながらも怜鴉は多忙な身故、今のところは方針に従っていた。
それぞれが奔走する中、ようやくの糸口を掴んだのは長月の事。
神を戴くという神無月まで、あと半月もない頃だった。