消えてしまいたいと、思った。
綺麗な湖の光に月が淡く反射してとても幻想的だったのを覚えている。
このまま…融けてしまいたい。
僕は水になって、融けて、消える。
そうして僕は僕を、僕と言う存在事人々の記憶から融けだして消してしまえば良い。
そうすれば、何も残らない。
僕が生きた証も、僕がそこにいた事実も。
そうして僕は融けだして何一つ残さずに…
死ねると思った。
遠征の地は山々に囲まれた自然豊かな場所だった。
綺麗な湖は水底まで見透せる程の透明感。
その綺麗な湖を眺めて思ったのは、このまま融けてしまいたい。
「きれい…」
フラフラと引き寄せられるように湖畔に歩みより、手を伸ばす。
冷たい湖の水は純度が高く澄んでいる。
太陽の光を反射させて水面はキラキラと輝いていて、光で覆われているようだった。
その幻想的な雰囲気に引き寄せられ、そのまま身を任せた。
「これで、終われる。」
駐屯地となる場所でテントの設営をして居たノエルが、見慣れた金色が見当たらないことに気が付いた。
その容姿ゆえに何処に行っても見失うことのない愛弟子の姿が忽然と消えていたのだ。
つい先程まで自分の回りをチョロチョロと世話しなく動き回っていた筈だったのに。
ノエルは面倒くさそうにため息ひとつ、吐き出して近くの隊員を呼び止めた。
「おい、あのバカは何処にいった?」
「隊長ですか?そう言えば先程川に水を汲みに行くと…。
それからまだ戻られていませんね…」
「川ったって、目の前だろうが。」
駐屯地の目の前を流れる川は山の中腹にある大きな湖から流れている。
駐屯地から少し下流に小さな村があり、今回の魔物討伐の依頼はその村からのものだった。
魔物の群れが湖の近くに住み着いてしまったので退治したいという事だったが、レイリはそれを知っているはずなので、そう遠くには行っていないだろうと、設営を急ぐことにした。
しかし、夜になってもレイリは戻ってこなかった。
副隊長として、ノエルが依頼主から話を聞き、明日からの討伐についての作戦を皆に伝えたあと隊員の一人に声をかけた。
「シュノ、ちょっと来い。」
最近入隊したばかりの紫銀色の少年は、キョトンとして振り返り、作り笑顔を浮かべた。
「何ですか、副隊長。」
「俺様の前で猫被るな。」
「別に猫被っている訳じゃありませんよ。
使い分けているだけです。」
シュノは他の隊員が退室したのを見届けてから、気だるそうにノエルを見上げた。
「用件はそれだけですか。」
「んな訳あるか、お前ちょっとレイリを探してこい。」
あからさまに嫌そうな顔で、シュノは大きくわざとらしいため息をついた。
「何で俺が行かなきゃ行けないんだよ。」
「隊長不在なのに俺様がここを動くわけにもいかんだろ。
それに、めんどくせぇ。」
「あんたが面倒くさいなら俺だって同じだ。」
「良いから早く行け、嫌な予感がする。」
ノエルはシュノの返事を待たずに会議用に提供された村の集会場から出ていった。
「チッ…めんどくせぇ。」
舌打ちをひとつ、シュノは刀をつかんで駐屯地の近くの川に向かった。
川は駐屯地の、文字通り目と鼻の先にあり、ここからでもテントがしっかり見えている。
暗くなった山から流れる川に、カンテラの光を向けると、キラッと何かが光った。
光の方に歩いていくと、バケツが転がっていて、水が流れ出していた。
「上…行ったのか?」
不審に思いながらも、川に沿って山の中に入っていく。
途中、ぬかるんだ場所からレイリの物とおぼしき靴跡を見つけた。
どうやら、本当に一人で上流にに行ってしまったようだ。
「何考えてんだ、アイツ。」
近くから獣の息遣いを感じる。
こんな中で、一人でろくに戦えもしないレイリが何をして居たというのか。
シュノは黙って川沿いの靴跡を追いながら上流に急いだ。
途中何度か魔物に襲われたが、シュノの敵ではなく、魔物を処理しながら先に進んでいく。
「ったく…どこ行ったんだよ。」
悪態をつきながらも、シュノはレイリの跡を追う。
お伽噺の英雄の血を引く、暗い影を負った少年の姿を求めて。
やがてシュノは山の中腹の湖の近くに来ていた。
魔物が住み着いたという辺りなので、警戒しつつあたりを探っていくと、湖の方に人の気配を感じた。
「……隊長?」
遠目なのではっきりとはしないが、どうやら目当ての人物らしい。
レイリは湖の中に身体を半分程浸けて、尚も深みへと進んでいく。
「おい、冗談じゃねぇぞ!!」
ふらふらと、何かに導かれるように湖に沈んでいくレイリに向かって、シュノは走った。
ひんやりとした湖の水が体温を奪っていく。
まだ夏だというのに驚くほど冷たい水に歯を食い縛りながら、前方のレイリに向かって水を掻き分けた。
「隊長!!」
何度呼んでも、レイリには聞こえないのか、歩みを止めようとしない。
消えてしまいそうな程に、深く沈んでいく。
このまま、レイリが融けて消えてしまうのではないかと思った瞬間、辺りに濃い霧が立ち込めてきた。
「なんだ、さっきまで晴れてたのに…」
先程まで神秘的に湖を照らしていた月は隠れ、一気に陰鬱な雰囲気が立ち込めた。
早くここからレイリを連れ出さないといけないと感じたシュノは、急いでレイリの方へ歩みを進めた。
「隊長、かえりますよ!!」
「……たい……」
ようやくレイリの背中が見えたと思ったら、レイリはなにかを呟いてゆっくりこちらを振り返った。
振り返ったのは、レイリではなかった。
レイリによく似た、長い髪の美しい女が一人立ち尽くしていた。
「…会いたい…」
その女を、シュノは知っていた。
いや、実際に知っていたわけではないが記憶の底から何かが溢れ返ってくる。
「……おまえなのか…?」
「…あなた…なの…?」
女はゆっくりこちらに歩み寄ってきた。
そうして、シュノの頬に触れた。
「ようやく…会えた…」
濡れた細い身体がぎゅっとシュノに抱きついてきた。
不思議と嫌な感じはせず、むしろ愛しくて堪らなかった。
「…会いたかった…」
そう言ってシュノの胸に顔を埋める。
腕の中に収まる身体を抱き締めれば、女は潤んだ瞳でシュノを見上げた。
そして、そのまま吸い込まれるようにキスを交わす。
白く細い腕がシュノの首に廻されて、柔らかな唇を貪るように夢中で口付けた。
そっと、唇が離されて悲しげな顔で女が呟いた。
「私を…助けて……シュノ…」
「待て、レイリ!!」
ハッと、自分の叫び声で我に返った。
辺りに立ち込めていた霧はいつの間にか消え、腕の中には女の代わりにグッタリとしたレイリが気を失っていた。
「…まさか、お前が…?」
全身ずぶ濡れのレイリを抱き締めて、頬を撫でる。
同じ感触。
親指でそっと、唇をなぞり半開きのその唇に自分の唇を重ねた。
「ん、っ…」
全く同じ感触に、シュノは戸惑った。
幼い頃から度々見た夢。
獣の姿をした自分に寄り添う美しい女神。
結ばれぬ恋だと知っていたのに、止めることが出来なかった淡い恋。
幼い頃からシュノを呼び続けていた、悲しそうな涙声。
あれは、レイリのものだったのか。
今のシュノには確める術がないが、なんとなく確信していた。
「レイリ…」
それを確めるために、シュノはレイリの身体を抱き上げて、急いで駐屯地に戻った。
隊長と副隊長用の大きめのテントの前にはノエルが煙草を吹かしていた。
「戻ったか。えらいずぶ濡れだな?」
「どっかのバカが湖で入水自殺図ってたからですかね。」
「おい、何で俺様にレイリを渡す?」
「はぁ?あんた保護者だろ、連れ帰ってやったんだからあとは自分で何とかしろよ。」
「知るか。その辺に適当に転がしとけ。」
冷えたレイリの身体は早く暖めないと病を引き起こす可能性があった。
レイリは元より線が細く華奢なため、余り丈夫な身体ではなかった。
なのでノエルはきちんと湯を沸かしていた。
小さな木桶の中に温かな湯とタオルが浸してあった。
悪態をつきながらも、それなりに心配はしていたようだ。
「ガキじゃねぇんだ、叩き起こして自分でやらせろ。」
そう言ってノエルはテントから出ていった。
面倒事を丸投げされたシュノは、仕方無くレイリの身体を揺すった。
「隊長、起きてください。」
「……」
グッタリとしたレイリは、反応せずに深く意識を落としていた。
シュノは少し考え込み、耳許に顔を近付けて、甘い声でささやいた。
「起きろ……レイリ。」
すると、気を失っていたレイリの身体がぴくんと震え、ゆっくりと大きな瞳を開いた。
「…………しゅの…」
レイリは視点の合わない瞳でシュノを見つめながら、ぎゅっと抱き付いた。
「……融けて…無くなってしまいたかった…。」
「レイリ?」
「あのまま、水に融けて…何もかも消えてしまえたらって…思ってた。
何も残さず自然に消えてなくなれば…
皆から僕が消えてしまえたら…って…」
急に、的を得ない話をしだすレイリを、シュノは黙って見つめていた。
「でも、あの時君が…迎えに来てくれて…
だから僕は気付いたんだ。
ずっとずっと…待ってた…君が僕の運命なんだって…。」
「俺をずっと呼んでたのは…お前だったんだな…」
シュノは濡れた身体を暖めるようにぎゅっとレイリを抱き締めた。
「呼ばれたんだ…懐かしい声で…
帰っておいでって。
暖かくて優しい気分になって、死ぬのがちっとも怖くなかった。
でも、君が止めてくれて良かった…」
「お前が生きてて良かった。
これからは、傍に居るから。」
抱き締めた、小さな身体を離さないと誓って
シュノはレイリの頭を優しく撫でた。
「身体冷えるから、まずは着替えろ。」
「うん…」
レイリが名残惜しそうにシュノから離れると、シュノもようやく着替えのために立ち上がった。
濡れた着物はずっしり重く体温を奪い、シュノの身体にピッタリと張り付く。
「シュノ…着替えたら…またここに来て…」
消えそうな声でレイリが言った。
まだ不安定なレイリは今一人にすればまたどこかに消えてしまいそうだった。
「ああ…わかった。」
テントにレイリを一人残し、与えられた自分のテントに戻る。隊員は数人で一つのテントを使うため、眠っている隊員を起こさないように荷物から着替えを取りだし手早く着替えた。
レイリの待つテントに戻ると、ノエルは既に自分のスペースで横になっていて、レイリが暗がりのなかちょこんと座って虚ろにこちらを眺めていた。
「シュノ…」
シュノは黙ってレイリを抱き締め、そのまま身体を横たえた。
布団を引き寄せてレイリの身体をぎゅっと抱き締めながら頭を優しく撫でた。
「 ずっと…一緒、だよね?」
「ああ、もう絶対に離さない。」
腕の中でレイリがニコッと笑いかけた。
今までの、無理矢理浮かべた作り笑顔ではなく、心から嬉しそうに笑っていた。