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花が咲く。

年に数度ある身体の不調を感じながら、国永は下層の慣れた道を歩く。
頑丈さがウリのαではあるが、日頃から番の為にと酷使しがちな為によくある事だった。
こういう時は温かい物を食べて横になっていれば二、三日で回復する。
けれど一分一秒も惜しいと感じてしまうのは、弟に苦労を掛けたくないという兄の意地だろうか。
Ωというだけでろくな仕事もなく、ひとたびヒートが起これば隔離せざるを得ない最愛の番。
病気ではないから治療のしようもなく、対処療法でやり過ごすしかない。
唯一の救いは、最近出来た友人のお陰で良質な抑制剤が手に入るようになった事だろうか。
上層の住人たちの中でも特に有力者とされるαの友人、三条宗近。
彼に出会ったのは、国永がヒスイの頼みで上層に通うようになった事がきっかけだった。
情報収集と簡単な小銭稼ぎの為に感じもしない身体を売っていた時に、宗近が国永を買ったのだ。
酷く焦った様子で、執心していたように思う。
黙って立っていれば女に見えなくもない儚げで整った顔が気を引いたのか。
Ωである弟は抱く度に気持ち良さそうな蕩けた表情をし、愛らしく鳴いて熱を乞う。
そんな様子を、溶ける穴の熱を知っている方からしてみれば骨ギスで具合の良くない身体を好き好んで買うなど、気が知れていた。
感じるフリは出来るが貫かれる痛みに身体が硬直するのを、後ろから抱かせる事で誤魔化し続ける。
今はヒスイ自身が宗近と関係が出来たため、国永がわざわざ上層へ足を運ぶ必要もなくなってしまった。
必然、ウリをする機会もなくなり。
それでも抱かれる事を好まない筈の自身に目を背けながら、宗近との身体の関係は続いている。

「……そういえば、話しがあるとか言ってたな」

気だるい身体を引き摺っているせいか、詮無いことを考えてしまった。
ろくに結論の出ない思考に、ため息を落とす事で蓋をする。
今日の予定は久方振りの宗近の訪問と、弟の鶴丸もこの日の為にと何かを意気込んでいたようで。
食事の支度は任せており、買い出しも済ませている。
ゆっくり帰路につく事にしようとした大通りの奥、赤い煉瓦の建物が目に付いた。
幼少期、親を亡くした鶴丸と二人で預けられ脱走した名も無き孤児院。
Ω13地区には他に2カ所、教会付属の孤児院がある。
ここだけは教会の神父が運営に携わっているのに、教会と隣接して居ない。
理由は国永にも与り知らないが、そこの院長は親友が着いていた。
この間、新薬の抑制剤を鶴丸の目の前で使用して倒れた時に世話になったらしい。
顔を出して挨拶をしようか迷ったが、結局重い身体では更に心配を掛けるだけだと自重する。
当初の予定通り、家へ帰って横になろうと身体の向きを変えて歩き出した。
どこから流れて来たのか、甘い香りが鼻先を掠めた気がした。


横になっている間にやってきたらしい宗近を向かえ、鶴丸特性の味の薄いシチューで食卓を囲んだ夜。
狭い寝室で大人三人、顔を付き合わせる中に沈黙が降りていた。
宗近は何度か口を開こうとしていたのだが、その度に何かを考え込むように顔を伏せてしまい。
鶴丸もそんな宗近に遠慮してか、意気込んでいた割りに静かだ。
話すのなら早く済ませて欲しいと思いながら国永は二人をのんびりと見守り。
やがて、宗近が小綺麗な顔を苦しげに歪めながら口火を切った。

「この街の大通り、ヒスイ殿の店が在る方とは反対の突き当たりに……赤い煉瓦の孤児院があるのを知って居るか?」
「……は、こじいん?」
「あの、ちか兄……その孤児院、俺達が昔――」
「つる」

今更脱走した事を知られたところで意味など無いだろうが、宗近の考えが読めないうちはと鶴丸を止める。
慌てて口を両手で抑え、目には見えないケモノの耳を垂らした鶴丸は落ち込んだ顔で黙り込んだ。

「そこはな、昔……俺も居たのだ」
「え? まさか、ちか兄も孤児……?」
「いや、しかし……きみみたいな奴が居たなら知ってる筈だが、どこに居たんだ?」
「うむ。院長室からのみ通じる中庭の奥、窪みのある桜の木を過ぎた所にな……」

宗近の言葉を聞いた瞬間、国永の視界に緑が弾けた。
院長室の奥、そこは孤児達には立ち入り禁止の中庭が確かにある。
大きな窓から覗く庭には様々な植物が栽培されていて、危ない物もあるからというのが理由だった。
けれど国永は誰も居ないのを良いことに、泣きたい時にはこっそりと入り込んでいたのだ。
身体が小さいから、色が白いから、様々な理由で子供達は鶴丸を、国永をからかいの対象にした。
弟の前では泣くまいと頑なに我慢を貫いた国永が、唯一気を抜ける場所。
誰も居ない庭の片隅、大きな樹の根元にある窪みの中で。

「……けど、きみを知らない」
「くににぃ……」
「あそこに教会が併設されて居らぬ理由はな、三条の子飼いだからだ。当主になれぬαを囲う為、あの奥には屋敷がある」
「いや、違う、違う場所だ。だって俺は、そこを知らない」
「……知らぬのなら、違う場所やも知れぬな。それに俺は幼少のみぎり、女児の格好をしておった故」

言い回しが古風な為に一瞬理解しかねるが、それがつまり女装で過ごしていたのだと言う事に気が付いた。
今は成人男性らしく、一見すると細身だが体格に恵まれ鍛えた身体を持っている事を国永は知っている。
光りに透けると深い群青にも見える黒髪は艶やかで、細められた朝ぼらけの月が浮かぶ瞳は涼やかだ。
鼻筋も通っていて、ほっそりとした顎のラインなど文句なしの美丈夫である。
女の格好をしたとて、そう違和感はないだろう、体付き以外は。
けれど完成された造形美は、幼少の頃から際立っていたに違いない。
からかいの対象にはならなくとも、他人の興味が引かれるのは間違いないだろう。
だのに、そんな麗しい子供の話しを聞いた事は無い。
時に狡猾な嘘をつくだろう機知に長ける人間だが、瞳には誠実な色が浮かんでいる。
だから、嘘では無い。
けれど、認める事も出来ない。
口止めをしてから暫く、落ち込んだ表情で考え込んでいた弟、鶴丸が不意に顔を上げる気配がした。

「……もしかして、ちかちゃん?」

more...!

記憶のオリ。

うららかな日差しが目立つようになって早数日。
風が強い時は砂塵すら舞う下層だが、冬の身を切るような寒さが和らぐのは好ましい事だ。
けれど春の気配が漂うようになったのとは真逆に、

「……はぁ……」

三条宗近は落ち込んでいた。
今居る場所は下層、Ω13地区。
最愛の子等、国永と鶴丸が世話になっている薬屋だ。
Ωである鶴丸の為に抑制剤を卸すことが決まって以降、店主ヒスイとの関わりが増えた。
女性とは思えぬほど粗野な振る舞いに驚いたのは一度や二度では済まない。
けれどそんな細かい事を気にするほど、宗近は繊細ではない。
気鬱の原因は鶴丸の一言が発端だった。

『国兄は、俺の為に孤児院を出たんだ』

どういった流れでそんな話になったのか。
今までの暮らしぶりを聞いていたのだったか、幼い頃の話しをしていたのだったか。
もはや記憶の彼方で預かり知れない事だが、孤児院を出たという言葉が宗近には衝撃だった。
数少ないとは言え下層に併設されている孤児院は教会が運営し、確かな衣食住を提供される。
その安息から抜け出る程に追い詰められていたのかという困惑と、疑惑。
三条家は古くからコロニーにあるαを有する華族であり、血筋を残す為には子を成す義務がある。
けれど家として認めるのは家長のαただ一人。
決してαの輩出率が少ないという訳では無い。
家長以外のαは予備として別の場所に"保管"されるのだ。
宗近もそうして保管されていた予備の一人だった。
幼い頃、世話役のアンドロイド一体と二人だけで小さな屋敷に暮らしていた。
三条家が教会と提携する事で保管場所にしていた、孤児院の片隅にある屋敷だった。
人の出入りは許されず、宗近も狭い中庭しか知らぬ。
物心ついた時に連れてこられたその場所。
母は精一杯の温もりを分け与え、父は最上の者としての誇りを託してくれた。
お陰で、宗近は多少擦れた子ながら人として腐らずに生き。
誰にも知られず、ただ老い朽ちていくのだと思っていた。
そんな生き方が寂しいと気付かせてくれたのは、真白の温もりだった。
中庭を抜けた先、院長室の前庭で。
言葉も涙も忘れた人形の様に、ただそこにあっただけの少年。
次第に話しを、笑顔を取り戻していく様は胸が震えて。
涙を人に見せようとしない強がりな少年の、泣ける場所になりたいと思った。
共に生きたいと思うようになった。
だからそれを伝えようとした、矢先。
家長の候補であったαに不備が見付かり、宗近は"家"に戻された。
伝手を頼りに少年を探せば、彼は死んだと聞かされて。
失意の内に国永と出会った。

「……はぁ……」

吐き出す息と共に、胸のうちに凝ったものが出ていきやしないかと願う。
今のところそれが叶った覚えはない。
それでも出てしまうのがため息であり、

「いい加減うざいんだが?」
「……む、あいすまぬ」

同じ室内に居たヒスイが顔をしかめながら手元のカルテから顔を上げた。
対面に座りながら用意されたハーブティに口を付け、漏れ出そうになる息を呑み込む。
ヒスイは表情を変えず、面倒くさそうにテーブルへとカルテを投げ捨てた。
人の情報を無造作に扱うなど、医者ならば苦言をあげられる事だろう。
けれどもヒスイは医者ではなく、そしてその情報が己の物であるから気にもならない。

「俺はカウンセラーじゃねぇ、相談なら他所でやってくれ」
「ふむ、これは異な事を。俺もそなたを心療医とは思っておらぬぞ?」
「……どうだかな。で?」
「うん?」
「何が気になる」

渋い顔をしながら、相談は受けないと口にしながら、結局話しを聞いてくれるらしい青年に笑みがこぼれる。
何だかんだ面倒見の良い、気優しい人柄なのだろうと思えた。
居住まいを正し、何から口にしたものか一寸迷い。
けれど隠そうとしたところであまり意味は無いと思い直して素直に話す事にした。

「鶴がな、孤児院の出だと言っておった」
「ああ」
「ヒスイ殿は下層の特性をご存じだろうか?」
「隔離、管理、培養……あと何だ?」
「いや、概ねそんな所だろう。とくにαとΩについては綿密な管理が成されて居る」
「……へぇ、つまりあれか。Ωの鶴丸とαの国永が外を出歩いているなら、脱走した、と」

切れ長の眼を細め、口元に笑みをはきながら声を潜めてヒスイは言う。
まるで猛禽の鳥のようだと宗近は思った。
同時に、狩る対象であるかも計られている。

「その事自体に何を言うつもりもない。あの子等が決めた事ならば、必要だったのだろう」
「……ふーん?」

一瞬にして気を抜き、目を和らげながらヒスイは首を捻った。
つまり何が言いたいのだと、沈黙で問いかける。

「……そなたは、あの子等が出てきた孤児院を知っているだろうか?」
「知ってるなら?」
「教えて欲しい」
「何故」

短い応酬は、わざとだと知っている。
何気なく首を捻っているようで、色の見えない目はこちらの動きを探って居た。
恐らく宗近の知らぬ所でもこうやってヒスイは二人を守っていたのだろう。
隠したまま情報を引き出せる相手でもなく。
そうするだけ時間の無駄だという事も分かっていた。
耳に残る甘い呼びかけを思い出しながら、一度だけ目を固く閉じて姿を追う。
白い肌に白い髪、似通った顔立ちの少年達。
赤い瞳には長い睫の陰が落ちていた、宗近に寂しさを与えてくれた初恋と。
蜜色の瞳は大きく、陽だまりを教えてくれた初恋。

『ちか』

二人がそう呼んでくれたから、宗近は名を忘れずに人として居られたのだ。
よすがに思い耽るのをやめ、目を開けた。
彼らを思い出す度、胸の甘さに笑みがこぼれる。

「初恋の行方を、探している」

声は、掠れて小さなものだった。
聞こえているかも定かではない。
けれどヒスイは驚きに目を丸く瞠ってから、肩の力を抜いて脱力した。

「純情かよ……お前、その顔でそれはないだろ……」
「む、顔か? 褒めそやされる事はあれ、否やと言われた覚えはないが」
「ああ、ああ、そうだろうよ。素敵なご尊顔って奴だぜお前」
「はっはっは、そうかそうか。褒めて良し」
「ったく……調子狂うぜ」
「うむ、して」

次第に頭を抱え始めたヒスイに、事の次第を問い詰める。
こうなれば、とことんまで話し合う心づもりであった。
今度はヒスイが一つ大きなため息を吐き、白い兄弟に出会った時の事を話し始める。
出会いは、瓦礫の山だった、と。

「あの二人を囲うつもりなら、やめておいた方が良いと言おうと思ったんだがな……」

そう前置いてから知らされたのは、3人がどうやって生き抜いてきたかというものだった。
Ωである鶴丸は、他言されるような虚弱さなど見せず他人と変わりなかったこと。
初めはヒスイにバース性の知識が無かった事もあり、抑制剤もない中で考えられる対処方を取ることにした。
αとの番。
幸い、αはすぐ傍に居た。
想い合うαとΩ同士、なんら問題も無いように感じ。
実際、初めの数年間はそれでヒートを上手くしのげていたようだった。
なのに、

「国永が二十歳を過ぎた頃からか……鶴丸のヒートによるフェロモンを抑えられなくなってな」
「ヒートを? しかし、Ωは番った相手にのみ……」
「そう聞いてるし、俺には感じない。が、強弱はあれど他に漏れてるらしい」
「……国永が噛んだ痕は」
「残ってる。そんな訳で、鶴丸は未だに抑制剤が必要なんだ」

肩を竦めながら軽く流される内容に、宗近は口元に手を当てて考え込んだ。
もし新種のΩならば、確実に研究所なりに囲い込まれるだろう。
それでなくともΩは数が少なく、劣勢遺伝子だというそしりを受けていた。
鶴丸の意思に関係なく、番という安全性が働かない限り孕み袋としての扱いを受けるだろう。
誰とも知れぬ相手に組みされるか弱い彼が脳裏を過ぎり、吐き気が込み上げた。

「で、だ。今回お前に検査を受けて貰ったのはαのデータが欲しかったからだが」
「――む?」
「多分、鶴丸に問題は無い。あいつは通常のΩ検体と同じだ」

通常の検体と同じ。
確実ではないにしてもヒスイにそう告げられ、宗近は詰めていた息を吐いた。
Ωというだけで弱者と断じられる世界。
そんな中で更に惨いことにはならずに済むと、安堵に身体の力を抜く。
けれど、鶴丸に問題が無いと言う事は――

「国永の身体な……Ωでいう、子宮みたいなものがあるみたいで」
「……し、きゅう?」
「ごく稀に、αからΩに転向する奴が出るんだろう? 仮性Ωっていうんだったか」
「まて、それは……それでは、国永は……」
「ホルモンバランスの崩れが原因だろうな。どちらの要素もあるってのは、つまりどっちつかずって事だ。実際に妊娠可能かは俺には判別不可能」

せっかく安堵したというのに、頭は尚酷い混乱状態だった。
つまりΩの要素を持っているからαになりきれず、番った相手にも支障が出てきた訳で。
けれどαでもあるから抑制にはなっている。
ならば、国永が今後Ω側に傾く事はあるのだろうか。
そうなった時、鶴丸はどうなるのか。
伏せていた顔を上げヒスイを見ても、肩を竦めて首を振るばかり。

「国永の問題はそれだけでもないんだ。あいつ、首にテーピングしてるだろ」
「う、む……初めはΩの貞淑帯かと思ったが」
「上層じゃΩでも身を守れるようになってんのか。こっちだと番の証しに左手小指の指輪くらいだな。……じゃなくて、あれな、抑制チップなんだ」
「……よくせい? だが、Ωではないと……」
「ああ、そっちじゃない。脳、海馬への抑制チップだ。記憶をいじくってんだよ」

脳、と口にしたところでこめかみを人差し指でトントン、と叩いてみせるヒスイ。
幼少期ないしトラウマを患うような出来事により、日常生活すら困難になった者に施される措置らしい。
荒療治が過ぎる気もするが、そうでもしないと廃人になりかねない、と。
聞いて、何故か空虚なガラス玉の赤い瞳を思い出した。
恐らく、そうなった人間を宗近は知っている。
小さな身体が反応もせず、人形の様にただそこにあるだけだった。
触った時の温もりだけが確かなもので、目を離せず、どんな風に笑うのか気になった。
どんな声をしているのか。
笑って欲しい、名前を呼んで欲しいと強く願い。
それが叶った時の、救われるような気持ちを知っている。

「何があったか鶴丸は覚えて無いし、国永も知らない。物心ついた時からしてるってんだから相当な年期だろうよ」
「……」
「問題ってのはな、そのままにしておいても害になる部分があってな。国永はそれが顕著なんだ」
「……一体、どのような……」
「過覚醒、痛覚の鈍化、身体の制御が外れやすい、過労、記憶障害……感覚器機械化症に似てるが無自覚、下手すりゃ寿命が縮むんだよ」
「じゅ、みょう?」
「つまり、脳みそに負担を掛けすぎて早死にするって事さ」

何でも無い事を語るような軽さで、ヒスイは口にした。
それは、近い将来彼が居なくなると言う事実を、分かりやすく、呑み込みやすく。

「そもそも本人が耐えきれない部分を誤魔化す、時間稼ぎのようなもんだからな」

壊れ、散ってしまいそうな者を繋ぎ止めるための措置。
国永は上げられた症状のどれもが、当てはまっている。
下層から上層への侵入など、ただのαには荷が重い上に容易ではない。
可能にしていたのは、そう出来るだけの理由があったからか。
眠るのが得意ではないとも言っていた。
直ぐに目が覚める上、2.3時間寝ればそれで十分なのだとも。
もし、もしも記憶の中の少年が国永だとすれば。
忘れてしまうだけの要因が、あったのだとすれば。
あの柔らかな微笑みに、会えるのだろうか。

「そのチップを、外すことは出来るのか……?」

答えを待つ間、背中に冷や汗が流れるのが気持ち悪かった。
逸る心臓の音でヒスイの声を聞き逃さないよう、唇の動きに注視する。

「出来る。後遺症は……まあ無い、一応な」
「ならば――」
「――ただし、外すと必ずリバウンド、精神の揺さぶりが起こる。1.2ヶ月と言われているが、どのくらい続くかは分からん」
「リバウンド……そうか、それもあり得るか……」
「心療内科は俺の性分じゃないし、得手でもない。本能が剥き出しになって凶暴化されても対処出来ん」

一日中面倒を見ることは、一人の人間では不可能だろう。
なまじ、国永への依存度が高い鶴丸が傍に居ては満足に診る事も出来るかどうか。
一人を治療するために患者を二人抱えるのが得策でない事も分かる。

「国永にとっては治療をしたら少し記憶が抜ける程度だと伝えてる。けれど、鶴丸の事があるから踏み切れないと言われた。ここじゃ拘束も出来んしな」
「……拘束が出来、常に人の目があり、鶴への配慮が出来るなら……頷いてくれるだろうか」
「さてな? 今のままで不足はない、の一点張りだ。……ああ、執着心の増加も症状の一つだったな」
「……そうか」
「まあ、どっちつかずともなるとどんな影響が出るかも分からんからな」

αの本能に溺れる程度ならば、鶴丸に無体を強いることになっても対処のしようがあるだけマシ。
Ωの本能が出るならば――

(国永を、手に入れられる……か?)

欲に溺れる上層の人間を嫌っていたというのに、結局は自分も同じ穴の狢なのかと苦いものが込み上げた。
それでも、あの真白の青年達が手に入るのならば。

(いや、俺が願うのは……あの子等のさいわいだ)

手に入れるばかりが幸せとは限らない。
何よりもあの笑顔を守りたいと、見続けたいと思ったのなら。
踏み込むべきではないのだ。
そう飲み下そうと思うのに、喉が張り付いて上手く呼吸すら出来そうになかった。

おもふこころ。

おもふこころ。
想う心、言葉で繋ぐ心と書いて、こい、と読む。



その日はあいにくの雨であり、国永はそれが車の窓を叩く音を聞いていた。
何故、車の中なのかというとそれは今現在、上層へ向かっているからだ。
宗近と友人になり、鶴丸の抑制剤は宗近の会社が抱える被験者Ωの一人として都合が付くようになった。
それに多大な恩を感じない訳では無かったけれど、恩を感じるのならば今まで通り、友人とさせてくれ、と切実な願いであるかのように頼まれてしまった。
本人を厭うているならまだしも、宗近という人間を気に入っていた国永からすれば、有り難い申し出だ。
それともう一つ、どうしても止めることが出来なかった習慣が宗近に抱かれる事。
上層に来る事自体は宗近も自分の伝手を使ってならば、と許容した。
そうする事で上層の情報をヒスイへと国永経由で渡っている事を知っているからだ。
なので日中、昔なじみの孤児院へと訪れた国永は、そこに居る宗近の弟を訪ねる。

「お待ちしてました。まずは街中を一通り流してから、借り家で宜しいですか?」
「ああ、いつもすまないな」
「ええ、兄様のご友人ですから。それに私も黒葉の用があるので丁度良いです」

どうしてそこで黒葉の名前が出てくるのか、きょとりと目を見開いて小狐丸を仰ぎ見た。
かなりの高身長、宗近よりも高いだろうそれに、赤い狐目の瞳がにやりと笑う。

「言い知れぬ仲、と言う奴ですよ」
「たわけ、ただの護衛だろう。ここ、帰りにプリンを買ってきてくれ。ああ、鶏でも良いぞ?」
「ぷりん……宗近が持ってきた甘味か。材料は鶏なのかい?飼育するならそれなりに準備が必要な筈だが……」
「うむ、お鶴に頼んでな、子供達と用意をしておる。鶏が居ればぷりんが無限に食べれる」
「……言っておくが、ぷりんには牛乳も必要だからタマゴだけじゃ無限には食えないぞ?」

確か宗近が持ってきてくれた料理の本にそんな事が載っていた気がする。
現物をそのまま渡されては後々に渡って困る、そう言った国永の意を汲んで宗近が次から用意したのは主に情報だった。
本や端末のページなどで料理や裁縫、刺繍、編み物と多岐に渡る作る事に特化した内容だった。
新しい事を知るというのは国永の性に合っていたようで、渡された情報は軒並み頭に入っている。
ぷりんに関する物もその一つであり、材料さえあれば自作する事も出来る程になっていた。

「む……牛乳か……ヤギなら都合が付くだろうか。しかし飼育代も考えねばな……」
「鶏ならば都合が付きますので、手配しましょう」
「うむ、頼んだぞ」

上機嫌に、国永には分かる程度でにこにこと笑う黒葉は物珍しい。
何より公私を分ける黒葉がただの護衛に私用を頼むという事自体、異例だ。
二人の関係性とは何なのだろう、そういえば耳慣れぬ愛称を呼んでいたか。
気になって運転席の小狐丸を見ていたらしい、不意にバックミラー越しに視線が絡む。

「なにか?」
「……いや、黒葉と随分仲が良いと思って」
「ああ、そういえば貴方は黒葉の親友でもありましたね」

意味ありげにくすり、と笑みを含んだ言葉で返され、居心地の悪さを感じる。
会話の主体を撹乱されているような。
こちらから話しを振ったはずなのにいつの間にか主導権を握られ、狐に化かされるようだ。
狐というのなら小狐丸は名の通り、狐のような男だった。
白金の長い髪を後ろで緩く縛り、獣の耳のように頭の上で跳ねる髪。
何より赤い三白眼が獣のそれを思い出す。

「何が言いたい?」
「いいえ、何も。強いて言うならば、何故今も兄様の所へ? 待てば彼の方から行くでしょうに」
「……待てば、か。俺は、待つのは性に合わないんだ」
「そうですか。では、言い方を変えましょう。……何故、兄様に抱かれるのです?」

そちらこそ性分ではないでしょう、と言外に示されて一瞬呼吸を忘れた。
宗近の方から言う事は、恐らくだがないだろう。
けれど小狐丸は確実に何かを掴み、その上で話題にしたのだ。
自分たちの関係を知られている。
自分たちの、関係?
それこそなんだというのか。
ただの友人、にしては宗近はあまりにも遠く、そして近すぎる。

「ああ、隠さずとも私には分かりますよ。貴方が帰る時、兄様の匂いが移ってますので」
「……添い寝を、しているだけかも知れないだろう?」
「おや、あけすけに言われるのがお好みですか。色香が違います」

色香、と言われてしまえばもはや言い返す言葉もない。
自分が抱いた最愛の弟が、次の日には普段の無邪気さと共に言い知れぬ色気を感じさせるのを知っている。
抱かれた者の独特の雰囲気というのは、それだけで周囲に知れるものだ。
行き帰りの送迎を担っている彼が知るのは、当然だろう。

「……そう言われると、黒葉にはそれがないな」
「当然じゃ、手を出して居らぬ」

突然変わった口調に、むしろそちらの方が素なのだろうと窺える。
少しは意趣返しになったようで、不機嫌そうにミラー越しに睨まれた。

「きみは、αだろう? Ωのフェロモンは効かないのか」
「些末じゃな、幼い頃からの自制教育と薬で耐えることは出来よう。本能に従うのは容易じゃが、心を、とあれが望んだ」
「こころ……」
「あれの望みならば叶えよう。私はあれを好いておる故、慈しみ、愛するのみじゃ」
「あい……分からないな……」

心も愛も、分からない。
国永にそれを教えてくれた者は、彼を捨ててしまった。
それを教えてくれる者の言葉は、理解を拒否してしまった。
国永にある明確な感情は、鶴丸だけは手放せないという執着、依存だ。
好いているのか、愛しているのか、もはや分からない程に澱み濁っている。
ならば宗近へは、どうなのだろう。
小狐丸から視線を外し、窓の外を見た。
相変わらず雨が降り続いていて、一向に止む気配はない。
抱かれるのは好きではないし、それを気持ちが好いと思った事も無い。
自分が望むのは弟の、鶴丸の身体で、彼を抱くことは充足感を味わえた。
宗近は、抱きたいとは思わない。
抱かれる事に快感はないけれど、彼の腕の中は不思議と落ち着いた。
彼の匂いに、懐かしさを感じて涙が浮かぶ。
深く考えようとするとこの頭はぼんやりとし、何も思い浮かばなくなる。
けれど、他の誰かを宗近が同じように抱くのだと思うと、胸が騒いだ。
胸騒ぎの意味は分からない、思考が及ばない。
ただ、手放しがたいと思うのみだ。
雨はまだ止まない。
more...!

おもいで。中編2

「察しの通り、国永と出会ったのは上層でな。しかし、抑制剤を買うには苦労が多いようだ」
「ふぅん……まあ、あいつが上層で何をしていたか、俺は知らねぇんだけどな。分かってるとは思うが、俺は流れ者だ」
「左様か。うむ、見慣れぬ者とは思ったが……下層ならば、紛れるに問題も無かろう」
「へぇ……上層なら別、と?」
「紛れ込むのは容易かろう。だが、そなたの義肢……技術力の出所や活用を求められるだろう」
「なんだ、そっちか。俺の予想としては住民管理の方かと思ったぜ」
「むしろそちらの方はやり様がある。家に属する者には寛容よ」

暗に囲い込む者も居るのだと、言外に告げる。
宗近の言葉を聞いたヒスイは、意地の悪い笑みを浮かべた後に鼻で笑い飛ばした。
そうして椅子に改めて深く座り込むと、足を組んでリラックスした様子を見せる。

「まあ国永が許容したなら、多少の性格の悪さはあっても真っ当か」
「おや、何の話しだ?」
「お前を認めるって話しだよ。国永も鶴丸も、お互いに依存が強くて心配だったんだがな……」

くすり、と口元に小さく笑みを浮かべるそれは、子を思う母のそれに似ていた。
母性というものがそれをさせるのか、宗近には分からない。
だが、深い愛情を感じる事に家族というものの温かさを感じる。
微笑ましく、少しだけ寂しさが胸を占めた。
羨ましいといえる程、それを求めた事が宗近にはない。
その事が少しだけ寂しかったのだ。

「ヒスイ殿は長子だったか。二人共、良い姉を持って居るな」
「ん、まあ年功序列って奴だな。俺は二人が良い友人を持ったようで安心だよ」

年功序列とは、組織内で使うような口ぶりに宗近は笑った。
それを言うなら親子や家族というのは、皆そういった括りになってしまうだろうと。
丁度、鶴丸がお盆に茶を載せて現れた。
一度口を閉じ、渇いた喉を潤す事に専念する。

「抑制剤、だったか。Ωの絶対数が少ないから検証例もあまりないんだな」
「うむ。それについては情報のやり取りは端末で良いと聞き及んでいる。設備を導入せずに良いのか?」
「使い慣れた奴があんのさ。こっちとの相互干渉は把握済み」

けろり、と何でも無い事のように口にするヒスイの持つ技術力に、改めて宗近は内心で驚いた。
上層でも上級の設備を使っている宗近と、遜色ないと言ってのけたのだ。
一体どこから流れて来たのかは分からないが、ひょっとすると要人レベルの者だったかも知れない。
そうなると、素性を隠して下層に居るのは正解とも言える。
くれぐれも扱いに困るような事にしてはならない、と宗近はヒスイに関する情報収集も頭の隅に置くことにした。
何より、彼女に何かあっては大事な友人達が悲しむ事になるのだから。

「ではこの端末を使っておくれ。鶴丸は薬慣れをしておらぬ故、常用型よりも周期によって服用をする方が良かろう」
「ああ、そうだな。まあその辺りはこっちで考えるさ」
「俺、あんまり普段の影響出ない方が良い……手伝いも止めたくないし」

ついていけない話しに大人しく宗近の隣に座っていた鶴丸が、おずおずと意思表示をしてみせる。
それに二人共、当然だと頷き返した事で安堵の笑みを見せた。
自分の話題をしている時に、ちゃんと意思を組んで貰える。
何気ない事だろうが、国永が居ないと鶴丸はこういった場面でも遠慮がちになってしまうのだ。

「抑制剤は通常、どうやって使う?」
「発情期の前後に飲んで期間中は家に居る事が通例だろう。他、緊急時用として強めの抑制剤を渡しておいた方が良いだろうな」
「そうなると……お前が渡したって言う人工知能が頼りか。緊急連絡先に俺の番号を登録しておけ……これな」

些末な紙だが下層で流通する中ではまともな部類に入るそれに、簡単にメモを書く。
横から見ても鶴丸にはよく分からない文字の羅列に見えたが、宗近にはそれで伝わったらしい。
一度目を通してから頷き、胸から出した小型の機械を指先で操作していく。
あっという間に終えたそれを再度しまい直し、不思議そうに首を傾げている鶴丸と目が合うと微笑んだ。

「どうした?」
「あ、いや……今の、何やってたのかなって」
「うぅむ、そうさなぁ……俺も今、ヴィータを持っているのだ。それを、ヒスイ殿のヴィータと手紙や電話が出来るようにしていた、と言えば分かるか?」
「あ、それなら分かる! へぇ、さっきの変な文字でそんな事が出来るのか」
「個人毎に今の文字が変わるようになっておってな、知らない者とは連絡が出来ぬようになっておる」

仕舞った端末を再度出しながら、鶴丸にも分かりやすいよう手振りを交えて宗近が説明する。
意外にも様になっているその姿に、ヒスイが対面で忍び笑いをしている事にも気付かない。

「なんだ、随分楽しそうにしてるな?」

馴染みのある声が響いたのは、そんな二人が顔を付き合わせて端末を覗き込んでいる時だった。
予定より早い到着に宗近は目を瞬かせ、鶴丸は目を輝かせる。
いつも宗近が会う時よりもラフな格好で、むしろそちらの方が着飾っているのだろう事が分かる簡単な装いだ。
襟足の髪を後ろで一つに束ねている事から、仕事を早めに終えてすぐに伺ったことが知れた。

「国兄! いらっしゃい、おかえり!」
「ああ、ただいまお鶴。ヒスイ、宗近はどうだい?」
「合格だ。まあお前が絆されるような色男なんだから当然だな」
「それは重畳。心配はしてなかったけどな」

軽いやり取りに国永が笑い、宗近の隣に立つと顔色を窺ってくる。
そうして、宗近の方にも問題は無いかと言葉にはせずに問うてきた。
恐らくはヒスイへの配慮、そして心配はしていなくとも気遣ってはいるからだろう。
勿論問題ない事を頷いて示し、国永はようやく安堵の笑みを浮かべた。
焦ってきたのか額の汗に張り付く髪をひと掠い、そうして驚きに目を見開く国永の頭を撫でる。

「急がせてすまなんだなぁ」
「……別に、心配はしてないって言ったろ?」

口では素っ気なく言いながら、眼を和ませて気持ち良さそうに頭を預けた。
触れる事が好きな宗近に最初の頃こそ遠慮していたが、今では慣れた物で止める事すらしない。
二人にとってはいつもの光景なのだが、不意にヒスイと鶴丸が黙り込んでいる事が気になって顔を上げた。
二人は、とくにヒスイは驚きに言葉を失ってその光景に見入っていた。

「おいおい、どうしたんだい?」
「いや、お前……頭触られるの好きじゃなかったろう? 単純に驚いた」
「うん、国兄俺以外には髪切るのも嫌って……とくに首筋触るのが嫌だって」
「え? ああ、確かにそうだけど……そういえば、宗近に触られるのは平気だな」

不思議そうに首を傾げる国永が襟足を縛るリボンを引いて解き、その髪を見つめる。
桜色に綺麗に染まっている髪は、肩を通り越して肩甲骨に届きつつあった。
男にしては長く、けれど中性的な国永だからこそ似合っていると思うそれ。

「結構伸びたな……お鶴、また切って貰っても良いかい?」
「えー、切っちゃうの? 国兄、昔みたいにもう長くしない?」
「あれは髪を売ってたから伸ばしてただけさ。その分苦労も多くて、大変なんだぜ」
「髪を? ここではその様な物まで売れるのか」
「売れるものなら子だって売るさ。実際には子供なんて掃いて捨てるほど居るからそうそう売れないけどな」
「……そういえば、お前達はストリートチルドレンでは無く孤児院に所属していたのか?」

唐突とも言えるその言葉に、国永は目を丸くし鶴丸は言いづらそうに目をそらした。
先程も中途半端に打ち切られた話題なだけに明確な答えがあるとは思っていない。
けれど、宗近にはどうしても聞いておきたい理由があったのだ。
暫し国永と見つめ合いの後、彼は首を傾げてきた。

「言ってなかったかい? 俺とお鶴は孤児院を出てきたんだ。ヒスイとはその時に会った」
「え、国兄言っちゃうの? 俺、隠しておけって言われたから黙ってたのに」

あまりにも拍子抜けする程の軽やかな口調に、鶴丸が少しショックを受けた表情で呟く。
やはり言いづらい事なだけに二人の間では黙秘を約束していたのだろう。

「まあ、宗近だしな。こいつの場合、下手に隠してもいずれバレるさ」

それはやはり居所を調べていたことを言っているのだろうか。
前歴があるだけに、此度もやらないとは言い切れないところがあった。
国永は呆れ顔でため息と共に言うと、ふて腐れる鶴丸の頭を撫でて落ち着かせる。

「ちか兄、ごめん……そういう事で言えなかったんだ」
「なに、お前達の事情も察せようもの、無理に聞き出して悪かったな。てっきり、住居近くの子供達と同じだと思っておったのだ」
「あー……まあ、無関係ではないな。彼らに何もされなかったのか?」
「うむ、デコイの財布をすられた程度だ。むしろ中身が多いと教授を受けてな、今では近隣を通る際には護衛をしてくれるぞ」

ほくほく、と微笑みながら語る宗近に国永は呆れ、ヒスイは爆笑し、鶴丸は目を見開いて慌てた。
住居近くの子供達というのは大方、国永が知恵を貸しているチームの面々だろう。
鶴丸も時折世話になる彼らは良くも悪くも身内には優しく、よそ者には冷たい。
そんな彼らが護衛をする程の間柄になっていたのに、何も聞いていなかったのだ。
チームの者ならスリをする程度、他のチームの者なら刃物が出てきたかも知れない。

「ちか兄、よく無事だったな……」
「たまにせんべえを貰うぞ? ここのは塩味なのだなぁ」
「しかも餌付けされてる方……って、もしかしてこないだ、どーなつ上げたりした?」
「お? うむ、いつも世話になっているでな。差し入れをしたのだが……何か、まずかったか?」
「ううん……気に入ってた。けど、何で真ん中空いてるのかなって話になったとき、いやしんぼだからなって結果になって……」
「っ、ぶははははは!!! いやしんぼ、こいつが、マジかよ!!!」
「あなや……俺はいやしん坊だと思われておったのか……」

結局、この日の話題はドーナツの穴の中身はどこへ消えたのか、という事が主題になって終わったのだった。

おもいで。中編

宗近の行動が功を奏したのは、それから直ぐの事だった。
会った時からいやに顔が赤く、呼吸も苦しそうにしていた国永は宗近の借り家へ辿り着くと限界が来たようで倒れ込んでしまったのだ。
聞けば、ここ数日無理をしていたようで調子が悪い事を自覚していたという。
けれど話すだけならば平気だろうと上層へ潜り込み、結果動けなくなってしまったらしい。
下層からゲートを通らずに潜り込めばそうもなろう、と宗近は胸中で深くため息を吐いた。
夜が更けたにも関わらず掛かり付けの医者を呼び出し、栄養剤の点滴のみで済んだのは幸い。

「何故、無理をしたのだ。一歩間違えれば大変な事になっていたぞ?」
「……ん」

思わず苦言を労する宗近を、ベッドの中から伺い見ていた国永は小さく頷きを返す。
どれだけ心配したと思う、と口を開きかけ、

「よるになって……」

とろり、と眠気を感じさせる回らぬ舌で国永が話し始めた。
声を張らなくて良いように顔を近付け、額に手を乗せれば熱は下がったようで少し汗ばんでいる。
その頭を撫でているうち、髪の根元の色が違うことに宗近は気付いた。
桜の色合いの下は真白。
染めていたのか、と初めて気付いた。
馴染み、似合っているものだから地毛だと思い込んでいたが、よく見れば傷んだ髪質をしている。
あまり質の良い染め粉ではないのだろう。

「つきをみたら、きみをおもいだして……」
「うん? だが、いつも会うのはもう少し日が空いていたろう」
「……そうじゃなくて。め、きみのめ……つきが」
「……ああ、そういえばそうだったな」

言われて思い出した、と空いている手で目元を探った。
宗近自身はあまり好ましいとは思わない、三日月の浮かぶ瞳。
苦々しい思いでそれを隠す。
国永は頭を撫でる手が気持ち好いようで、うっとりと眼を細めていたから気付かなかっただろう。

「つきが、きれいだから……すきだから、あいたくなって。ともだち、だから……」

ふわふわと、まるで国永の髪のように跳ねて軽く囁かれた言葉。
意味などないかも知れないそれを聞いた瞬間、宗近は耳まで熱くなったのが分かった。
周囲の者は皆、宗近の月を見ると神秘的だと言いはするが、それより話に出るのは月の瞳に関する逸話や父の事。
どこか嫌煙されるそれを、素直に褒められたのは記憶の少年以来。
素直に嬉しいと感じた。
何より友人が欲しいと何気なく言った一言を覚えてくれていたことが。
感謝を述べるべきか、言葉に詰まっていると安らかな寝息が聞こえてくる。
顔を隠していた手を除ければ、穏やかな寝顔があった。
会いたくなったから、予定もない、抱かれるつもりもないのに会いに来る。
それではまるで、本当に友人になれたようで、宗近は胸が熱くなった。
否、本当に友人だと思ってくれたから行動したのだろう。
ならば、そんな彼を家まで送ることも許されるのではないだろうか。
それが特別な事のように思えた宗近は、さっそく専属の運転手に連絡をして迎えを手配することにした。
行く場所は以前調べた国永の住む、下層だ。



家族の話を聞いたことはないが、番が居ると言っていた。
遅くなって心配をさせては申し訳無いという思いもあり、思い切った行動に踏み切った。
身体の熱い国永を抱き締めて車内から見るそこは、上層とは違って異世界のよう。
自分が過ごした離れは整えられていた方なのだと、改めて思い知る。
数年ぶりの下層は何の感慨もなく、車が止まったのは廃墟と見間違う建物だった。
人の気配がありそうなのは灯りの付いている二階の部屋。
運転手を待たせ、羽根のように軽い国永を抱き上げてその扉を叩いた。

「はーい!」

小気味良い返事の後、すぐに開かれた扉の向こうに居たのは、

「そ、なた……は……」
「ん? えっ、国兄!?」

雪のように白い肌、白銀に光る髪は柔らかく跳ね、蜜色の瞳が大きく見開かれている。
幼さを残した顔は驚きに、そして悲しそうに歪められていた。
宗近が抱き上げる国永へ縋るように手を伸ばし、傷ましげに目を伏せる。

「えっと、あんたが国兄をここまで?」
「あ、ああ……俺は国永の友人、でな……そなたは、国永の番か?」
「つが!? あ、えっと、俺は弟の鶴丸! その……番、に、なる予定……で……」

かあっと首元まで一気に赤く染め上がる様は、無垢な色気とでも言おうか。
遮断薬を飲んでいるため宗近には分からないが、恐らくこちらがΩなのだろう。
恥ずかしげにしながらも、番、という言葉を嬉しくて仕方ないと、はにかみ笑う。
愛らしい弟君だと思い、国永を連れてきて良かったと思った。

「そうか。すまぬが、国永をどこか休める場所へ……」
「あ!こっち、中入って!」

もう少しその愛らしい様子を見ていたかったが、国永の身体を気遣い中へと入れて貰う。
奥に行くと寝室があり、国永の部屋だという方へ入れて貰った。
あまり物の多くない、ベッドだけがあるような簡素な部屋だ。
暫く待つと鶴丸が濡らしたタオルを片手に現れ、国永の額にそれを置く。

「えっと、国兄の友人さん? 連れてきてくれてありがとう。俺、国兄が調子悪いなんて知らなくて……」
「うん、俺は宗近という。鶴丸、と呼んで良いか?」
「ああ、良いぜ! じゃあ俺は……えっと、年上みたいだし……むねちか、さん?」
「好いぞ好いぞ、好きに呼ぶと良い」
「うん、ありがとう。……国兄、出て行くとき、友達の誕生日なんだって言ってた。むねちかさんの?」

友達である、と傍目にも言われて思わず頬が緩んだ。
それに、誕生日とは……。

「俺の生まれた日ではないのだがな……俺が、初恋と出会って、生きる意味を見付けた。生まれ変わったような心地だったでな。毎年、その子と出会った日を俺の誕生日と思って生きてきたのだ……そうか、国永は……覚えていて……」

いつだったか、枕を並べて少し話しをした時に語ったそれを。
国永は誕生日なら、と、大事に思ってくれていたのだ。
まさかそんな事で自分の悪体調を押してでも来てくれたのかと思うと、申し訳無くなる。
そして悲しそうな顔をする鶴丸を見ると、記憶の少年も悲しんでいるように思えて。
負担を掛けてしまった、不甲斐ない己に自嘲の笑みがこぼれた。

「……あのさ、えっと……生きる意味を見付けた、って……つまりは嬉しかったんだろ?」
「うん?」
「じゃあさ、笑ってて欲しいと思うんだ。嬉しい日なら、俺なら笑って欲しい」

ふにゃり、と無邪気な笑みを浮かべる鶴丸に驚きで声を失った。
これほどまでに似ているものか、と。
そして、何よりもその純粋さに嬉しくなった。
大切な兄を危ない目に合わせたかも知れない己を許容してくれるその心に。

「そなたは、好い子だなぁ。ありがとうな」
「ううん。俺も、国兄連れてきてくれてありがとう」
「何、そなたを心配させる訳にはいかぬでな。そう言って貰えるならば良かった」
「……ふふ、むねちかさんって大人っぽいのにちょっと子供っぽい」
「はっはっは、そうか? そう言われたのは初めてだ。うんうん、子供らしいか。ならば鶴丸、いや……鶴よ、俺の友人になってはくれまいか?」

宗近の申し出にきょとり、と目を瞬かせる。
鶴丸にとっては得体の知れない人物とも言えるだけに、やはり突然過ぎただろうかと不安になった。
けれど鶴丸は喜色に表情を緩めると大きく頷く。

「友達! 良いぜ、むねちかさんは今日から俺の友達な!」
「お、おお! ……そんなに簡単に、良いのか?」

のんびりしていると言われる宗近ですら、少し不安になる程にあっさりと鶴丸は快諾した。
むしろ何故そんな事を聞くのかと不思議そうに首を傾げてすら居る。

「え、良いんじゃないか? だって、友達が増えるのって嬉しいだろう?」
「ううむ、確かに俺は嬉しいが……」
「それに、国兄の友達なら信用出来るし! あ、呼び方、ちか兄って呼んでも良い?」

兄の友人というのはこれほど信頼されるものだろうか。
もしや身体の成長以上に精神の成長が遅れているのだろうかと心配になる。
それとも国永がしっかりしている分、自由に育ったのだろうか。
後者の可能性が高く、きっと今まで国永は苦労をしただろう事が見受けられる。
だが、鶴丸の無垢さは同時にかけがえの無い物だと分かった。
きっと国永が大事に、下層の不便さを物ともしないで伸びやかに育てたのだろう。

「好いぞ好いぞ。では、俺はお鶴と呼ばせて貰おうか」

新しく結ばれた友情に、ほくほくと笑みがこぼれた。
そうやって二人で話していると、不意にベッドの中がもぞりと動く気配がする。
慌てて口を閉ざしたが本格的に覚醒したようで、ゆっくりと国永が身体を起こした。

「あ、俺水取ってくる!」
「うむ、頼んだ。……国永よ、調子はどうだ?」

虚ろな瞳に不安を呼び起こされながら頬に手を当て熱を測る。
平熱の低い宗近より少し高い程度か。
上層で出会った時より快復しているようで、まずは一安心と言った所か。
うっとりと目を閉じながら手に擦り寄り、ぼんやりと周囲を見渡した国永はやがて首を傾げ、

「ここ……俺のへや? どうして……」
「……それについては謝罪をしよう」
「いや……たすかった、ありがとう」
「国兄! これ、お水!」

明確な説明をするべきか迷っていたところ、鶴丸が元気よく部屋に飛び込んできた事で話しは終わりとなった。
微笑みを浮かべてコップを受け取り、口を付けて息を吐く。
もう大丈夫か、となった所で国永がちらりと目線を寄越した。
何か話しがあるのか、それとも鶴丸への説明を悩んでいるのか。
そのどちらもであり、恐らくは後者が優先されるのだろうと頷いて返す。

「鶴、出掛けに話したと思うけど……こいつは俺の友人で、宗近って言うんだ」
「ん、さっき聞いた! ちか兄の誕生日だったんだろ?」
「ああ、そうなん……ちかにぃ?」
「さっき話しして、友達になったんだ!」

嬉しそうに笑顔で語られると自分も存外嬉しく感じる物だ。
などと、二人の様子を見ながら宗近も笑みを浮かべた。
一瞬だけ国永が胡乱げにこちらを見たが、何か悪い事をしただろうかと首を傾げる。
もしやこちらの家では友人を作るときは家長の許しが必要なのか、と気付き慌てた。

「国永、お鶴には俺から友人になってくれと頼んだのだ! 無理強いはしておらぬが、勝手な事をしてすまなかった」

ぺこり、と頭を下げると慌てる気配と呆れのため息が聞こえてくる。
そうして頭にふわり、と手が置かれた事で顔をあげれば、国永が苦笑をしていた。

「いや、良い。いずれ紹介するつもりだったんだ……この子は弟の鶴丸。……Ωなんだ」
「む……いや、それは分かっておったが……国永よ、そういう事は無闇に口にしてはならんのだろう? それに、そなたの大切な番だ」

出会った当初、苦言を申されたことを覚えていた宗近は困り顔で返す。
遮断薬を飲んでいるお陰でフェロモンの匂いは感じないが、鶴丸の手にもレースの糸で編まれた指輪がある事を認めていた。
番だろう、と思ったのはそれが揃いの物だと見受けられた事と、一緒に暮らしている事からの想像だ。
けれど当たって居たようで、鶴丸は顔を赤くし国永から否定の言葉はない。

「察してくれて助かる。つまりは、そういう事だ」
「何故そなたらが番を結んで居らぬのかは分からぬが、そうであるなら俺は遮断薬を飲んでいるでな」
「そうか。いや、そうだよな……大変だな」

恐らくは他のΩからの誘惑を慮ってだろう言葉に、笑みで返す。
そういった事は慣れている、とは言わずとも理解出来ただろう。
色々と察しの良い相手なので必然、会話も最低限になる。
鶴丸が不思議そうに交互に見、ぷくりと頬を膨らませた。
そういった幼い動作は似合っているとも言えるが、同時に危うさを感じさせる。
と、不意にΩであり番が居ないのならば必要になるだろう物の事を思い出した。

「国永よ、お鶴に抑制剤は工面出来て居るのか?」
「……全く、君は鈍いんだか察しが良いんだか……言いづらいが、俺の薄給じゃあ難しい。ようやく首輪は用意出来たんだが……」
「む、それではそなた等の負担になろう。万が一、望まぬ事態になったならΩの負担は大きいと聞くぞ」

宗近自身が目にした事は無いが、死別や望まぬ番となった者の縁を絶つ事は可能と聞く。
しかしΩは大半がαへの強い依存から、発狂をする事もあるらしい。
せっかく知り合えたのなら、友人と言ってくれた相手をそんな目に合わせたくはない。
まして、心から望む相手が居るのならば。

「あの、俺……発情期は部屋に篭もってるし、大丈夫だよ? 国兄も一緒に居てくれるし」
「いや、鶴の為にそんな事しか出来ないんだ……」
「あいわかった、ここは俺が何とかしよう」
「え、ちか兄が??」

不思議そうに目を瞬く鶴丸と、目線を合わせないように深く項垂れる国永。
国永ほど頭の回る者が友人と言ってくれた時点で、裏がある事は分かって居る。
けれど彼がそれを最終手段として、自分から言いはしないだろうとも理解していた。
その程度には心を許し、本当にただの友人になろうとしてくれたのだと。
宗近は三条家の人間であり、その顔の広さは良くも悪くも有名だ。
そして三条は製薬に重きを置いている家でもある。

「俺はな、製薬会社に勤めているのだ。此度、抑制剤の新薬が開発されてな。お鶴よ、その被験者になってはくれぬか?」
「……ひけ? なぁに、それ?」
「他の人に勧める前に、これは安全だと証明をする手助けをして欲しい。無論、既に試している者も居るでな、危険性はないぞ」
「えっと……それを使えば、他の人も安心? くににぃ……」
「鶴、きみが決めてくれ。宗近が言っているのは、抑制剤を使った後の副作用が軽い物らしい」
「お、れ……俺がそれ使ったら、国兄は、もう一緒にいてくれない?」
「何を言うんだ、ずっと一緒に居るに決まってるだろう!」
「……お鶴よ、その薬を使えばそなたの身を守ることにもなるのだ」
「え、と……代金、おれ……」
「試験的なものでな、構わぬよ。むしろ、こちらからお願いしているのだ。本当に必要なΩに使われる事が望ましい」

何より、悲しい事になって仕舞わぬよう出来る事はしてやりたい。
初めての、大事な友人達なのだ。
宗近に力があると知っていて、それに頼る事を良しとしない。
そんな誠実な友人のためならば、喜んで力を貸そう。
鶴丸が悩みに悩んだ末に頭を縦に振ったとき、国永は静かに頭を下げた。
そんな事はせずとも良いと言いたくて、けれど国永の為にも必要だろうと宗近は無言で受け取った。
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