宗近の行動が功を奏したのは、それから直ぐの事だった。
会った時からいやに顔が赤く、呼吸も苦しそうにしていた国永は宗近の借り家へ辿り着くと限界が来たようで倒れ込んでしまったのだ。
聞けば、ここ数日無理をしていたようで調子が悪い事を自覚していたという。
けれど話すだけならば平気だろうと上層へ潜り込み、結果動けなくなってしまったらしい。
下層からゲートを通らずに潜り込めばそうもなろう、と宗近は胸中で深くため息を吐いた。
夜が更けたにも関わらず掛かり付けの医者を呼び出し、栄養剤の点滴のみで済んだのは幸い。
「何故、無理をしたのだ。一歩間違えれば大変な事になっていたぞ?」
「……ん」
思わず苦言を労する宗近を、ベッドの中から伺い見ていた国永は小さく頷きを返す。
どれだけ心配したと思う、と口を開きかけ、
「よるになって……」
とろり、と眠気を感じさせる回らぬ舌で国永が話し始めた。
声を張らなくて良いように顔を近付け、額に手を乗せれば熱は下がったようで少し汗ばんでいる。
その頭を撫でているうち、髪の根元の色が違うことに宗近は気付いた。
桜の色合いの下は真白。
染めていたのか、と初めて気付いた。
馴染み、似合っているものだから地毛だと思い込んでいたが、よく見れば傷んだ髪質をしている。
あまり質の良い染め粉ではないのだろう。
「つきをみたら、きみをおもいだして……」
「うん? だが、いつも会うのはもう少し日が空いていたろう」
「……そうじゃなくて。め、きみのめ……つきが」
「……ああ、そういえばそうだったな」
言われて思い出した、と空いている手で目元を探った。
宗近自身はあまり好ましいとは思わない、三日月の浮かぶ瞳。
苦々しい思いでそれを隠す。
国永は頭を撫でる手が気持ち好いようで、うっとりと眼を細めていたから気付かなかっただろう。
「つきが、きれいだから……すきだから、あいたくなって。ともだち、だから……」
ふわふわと、まるで国永の髪のように跳ねて軽く囁かれた言葉。
意味などないかも知れないそれを聞いた瞬間、宗近は耳まで熱くなったのが分かった。
周囲の者は皆、宗近の月を見ると神秘的だと言いはするが、それより話に出るのは月の瞳に関する逸話や父の事。
どこか嫌煙されるそれを、素直に褒められたのは記憶の少年以来。
素直に嬉しいと感じた。
何より友人が欲しいと何気なく言った一言を覚えてくれていたことが。
感謝を述べるべきか、言葉に詰まっていると安らかな寝息が聞こえてくる。
顔を隠していた手を除ければ、穏やかな寝顔があった。
会いたくなったから、予定もない、抱かれるつもりもないのに会いに来る。
それではまるで、本当に友人になれたようで、宗近は胸が熱くなった。
否、本当に友人だと思ってくれたから行動したのだろう。
ならば、そんな彼を家まで送ることも許されるのではないだろうか。
それが特別な事のように思えた宗近は、さっそく専属の運転手に連絡をして迎えを手配することにした。
行く場所は以前調べた国永の住む、下層だ。
家族の話を聞いたことはないが、番が居ると言っていた。
遅くなって心配をさせては申し訳無いという思いもあり、思い切った行動に踏み切った。
身体の熱い国永を抱き締めて車内から見るそこは、上層とは違って異世界のよう。
自分が過ごした離れは整えられていた方なのだと、改めて思い知る。
数年ぶりの下層は何の感慨もなく、車が止まったのは廃墟と見間違う建物だった。
人の気配がありそうなのは灯りの付いている二階の部屋。
運転手を待たせ、羽根のように軽い国永を抱き上げてその扉を叩いた。
「はーい!」
小気味良い返事の後、すぐに開かれた扉の向こうに居たのは、
「そ、なた……は……」
「ん? えっ、国兄!?」
雪のように白い肌、白銀に光る髪は柔らかく跳ね、蜜色の瞳が大きく見開かれている。
幼さを残した顔は驚きに、そして悲しそうに歪められていた。
宗近が抱き上げる国永へ縋るように手を伸ばし、傷ましげに目を伏せる。
「えっと、あんたが国兄をここまで?」
「あ、ああ……俺は国永の友人、でな……そなたは、国永の番か?」
「つが!? あ、えっと、俺は弟の鶴丸! その……番、に、なる予定……で……」
かあっと首元まで一気に赤く染め上がる様は、無垢な色気とでも言おうか。
遮断薬を飲んでいるため宗近には分からないが、恐らくこちらがΩなのだろう。
恥ずかしげにしながらも、番、という言葉を嬉しくて仕方ないと、はにかみ笑う。
愛らしい弟君だと思い、国永を連れてきて良かったと思った。
「そうか。すまぬが、国永をどこか休める場所へ……」
「あ!こっち、中入って!」
もう少しその愛らしい様子を見ていたかったが、国永の身体を気遣い中へと入れて貰う。
奥に行くと寝室があり、国永の部屋だという方へ入れて貰った。
あまり物の多くない、ベッドだけがあるような簡素な部屋だ。
暫く待つと鶴丸が濡らしたタオルを片手に現れ、国永の額にそれを置く。
「えっと、国兄の友人さん? 連れてきてくれてありがとう。俺、国兄が調子悪いなんて知らなくて……」
「うん、俺は宗近という。鶴丸、と呼んで良いか?」
「ああ、良いぜ! じゃあ俺は……えっと、年上みたいだし……むねちか、さん?」
「好いぞ好いぞ、好きに呼ぶと良い」
「うん、ありがとう。……国兄、出て行くとき、友達の誕生日なんだって言ってた。むねちかさんの?」
友達である、と傍目にも言われて思わず頬が緩んだ。
それに、誕生日とは……。
「俺の生まれた日ではないのだがな……俺が、初恋と出会って、生きる意味を見付けた。生まれ変わったような心地だったでな。毎年、その子と出会った日を俺の誕生日と思って生きてきたのだ……そうか、国永は……覚えていて……」
いつだったか、枕を並べて少し話しをした時に語ったそれを。
国永は誕生日なら、と、大事に思ってくれていたのだ。
まさかそんな事で自分の悪体調を押してでも来てくれたのかと思うと、申し訳無くなる。
そして悲しそうな顔をする鶴丸を見ると、記憶の少年も悲しんでいるように思えて。
負担を掛けてしまった、不甲斐ない己に自嘲の笑みがこぼれた。
「……あのさ、えっと……生きる意味を見付けた、って……つまりは嬉しかったんだろ?」
「うん?」
「じゃあさ、笑ってて欲しいと思うんだ。嬉しい日なら、俺なら笑って欲しい」
ふにゃり、と無邪気な笑みを浮かべる鶴丸に驚きで声を失った。
これほどまでに似ているものか、と。
そして、何よりもその純粋さに嬉しくなった。
大切な兄を危ない目に合わせたかも知れない己を許容してくれるその心に。
「そなたは、好い子だなぁ。ありがとうな」
「ううん。俺も、国兄連れてきてくれてありがとう」
「何、そなたを心配させる訳にはいかぬでな。そう言って貰えるならば良かった」
「……ふふ、むねちかさんって大人っぽいのにちょっと子供っぽい」
「はっはっは、そうか? そう言われたのは初めてだ。うんうん、子供らしいか。ならば鶴丸、いや……鶴よ、俺の友人になってはくれまいか?」
宗近の申し出にきょとり、と目を瞬かせる。
鶴丸にとっては得体の知れない人物とも言えるだけに、やはり突然過ぎただろうかと不安になった。
けれど鶴丸は喜色に表情を緩めると大きく頷く。
「友達! 良いぜ、むねちかさんは今日から俺の友達な!」
「お、おお! ……そんなに簡単に、良いのか?」
のんびりしていると言われる宗近ですら、少し不安になる程にあっさりと鶴丸は快諾した。
むしろ何故そんな事を聞くのかと不思議そうに首を傾げてすら居る。
「え、良いんじゃないか? だって、友達が増えるのって嬉しいだろう?」
「ううむ、確かに俺は嬉しいが……」
「それに、国兄の友達なら信用出来るし! あ、呼び方、ちか兄って呼んでも良い?」
兄の友人というのはこれほど信頼されるものだろうか。
もしや身体の成長以上に精神の成長が遅れているのだろうかと心配になる。
それとも国永がしっかりしている分、自由に育ったのだろうか。
後者の可能性が高く、きっと今まで国永は苦労をしただろう事が見受けられる。
だが、鶴丸の無垢さは同時にかけがえの無い物だと分かった。
きっと国永が大事に、下層の不便さを物ともしないで伸びやかに育てたのだろう。
「好いぞ好いぞ。では、俺はお鶴と呼ばせて貰おうか」
新しく結ばれた友情に、ほくほくと笑みがこぼれた。
そうやって二人で話していると、不意にベッドの中がもぞりと動く気配がする。
慌てて口を閉ざしたが本格的に覚醒したようで、ゆっくりと国永が身体を起こした。
「あ、俺水取ってくる!」
「うむ、頼んだ。……国永よ、調子はどうだ?」
虚ろな瞳に不安を呼び起こされながら頬に手を当て熱を測る。
平熱の低い宗近より少し高い程度か。
上層で出会った時より快復しているようで、まずは一安心と言った所か。
うっとりと目を閉じながら手に擦り寄り、ぼんやりと周囲を見渡した国永はやがて首を傾げ、
「ここ……俺のへや? どうして……」
「……それについては謝罪をしよう」
「いや……たすかった、ありがとう」
「国兄! これ、お水!」
明確な説明をするべきか迷っていたところ、鶴丸が元気よく部屋に飛び込んできた事で話しは終わりとなった。
微笑みを浮かべてコップを受け取り、口を付けて息を吐く。
もう大丈夫か、となった所で国永がちらりと目線を寄越した。
何か話しがあるのか、それとも鶴丸への説明を悩んでいるのか。
そのどちらもであり、恐らくは後者が優先されるのだろうと頷いて返す。
「鶴、出掛けに話したと思うけど……こいつは俺の友人で、宗近って言うんだ」
「ん、さっき聞いた! ちか兄の誕生日だったんだろ?」
「ああ、そうなん……ちかにぃ?」
「さっき話しして、友達になったんだ!」
嬉しそうに笑顔で語られると自分も存外嬉しく感じる物だ。
などと、二人の様子を見ながら宗近も笑みを浮かべた。
一瞬だけ国永が胡乱げにこちらを見たが、何か悪い事をしただろうかと首を傾げる。
もしやこちらの家では友人を作るときは家長の許しが必要なのか、と気付き慌てた。
「国永、お鶴には俺から友人になってくれと頼んだのだ! 無理強いはしておらぬが、勝手な事をしてすまなかった」
ぺこり、と頭を下げると慌てる気配と呆れのため息が聞こえてくる。
そうして頭にふわり、と手が置かれた事で顔をあげれば、国永が苦笑をしていた。
「いや、良い。いずれ紹介するつもりだったんだ……この子は弟の鶴丸。……Ωなんだ」
「む……いや、それは分かっておったが……国永よ、そういう事は無闇に口にしてはならんのだろう? それに、そなたの大切な番だ」
出会った当初、苦言を申されたことを覚えていた宗近は困り顔で返す。
遮断薬を飲んでいるお陰でフェロモンの匂いは感じないが、鶴丸の手にもレースの糸で編まれた指輪がある事を認めていた。
番だろう、と思ったのはそれが揃いの物だと見受けられた事と、一緒に暮らしている事からの想像だ。
けれど当たって居たようで、鶴丸は顔を赤くし国永から否定の言葉はない。
「察してくれて助かる。つまりは、そういう事だ」
「何故そなたらが番を結んで居らぬのかは分からぬが、そうであるなら俺は遮断薬を飲んでいるでな」
「そうか。いや、そうだよな……大変だな」
恐らくは他のΩからの誘惑を慮ってだろう言葉に、笑みで返す。
そういった事は慣れている、とは言わずとも理解出来ただろう。
色々と察しの良い相手なので必然、会話も最低限になる。
鶴丸が不思議そうに交互に見、ぷくりと頬を膨らませた。
そういった幼い動作は似合っているとも言えるが、同時に危うさを感じさせる。
と、不意にΩであり番が居ないのならば必要になるだろう物の事を思い出した。
「国永よ、お鶴に抑制剤は工面出来て居るのか?」
「……全く、君は鈍いんだか察しが良いんだか……言いづらいが、俺の薄給じゃあ難しい。ようやく首輪は用意出来たんだが……」
「む、それではそなた等の負担になろう。万が一、望まぬ事態になったならΩの負担は大きいと聞くぞ」
宗近自身が目にした事は無いが、死別や望まぬ番となった者の縁を絶つ事は可能と聞く。
しかしΩは大半がαへの強い依存から、発狂をする事もあるらしい。
せっかく知り合えたのなら、友人と言ってくれた相手をそんな目に合わせたくはない。
まして、心から望む相手が居るのならば。
「あの、俺……発情期は部屋に篭もってるし、大丈夫だよ? 国兄も一緒に居てくれるし」
「いや、鶴の為にそんな事しか出来ないんだ……」
「あいわかった、ここは俺が何とかしよう」
「え、ちか兄が??」
不思議そうに目を瞬く鶴丸と、目線を合わせないように深く項垂れる国永。
国永ほど頭の回る者が友人と言ってくれた時点で、裏がある事は分かって居る。
けれど彼がそれを最終手段として、自分から言いはしないだろうとも理解していた。
その程度には心を許し、本当にただの友人になろうとしてくれたのだと。
宗近は三条家の人間であり、その顔の広さは良くも悪くも有名だ。
そして三条は製薬に重きを置いている家でもある。
「俺はな、製薬会社に勤めているのだ。此度、抑制剤の新薬が開発されてな。お鶴よ、その被験者になってはくれぬか?」
「……ひけ? なぁに、それ?」
「他の人に勧める前に、これは安全だと証明をする手助けをして欲しい。無論、既に試している者も居るでな、危険性はないぞ」
「えっと……それを使えば、他の人も安心? くににぃ……」
「鶴、きみが決めてくれ。宗近が言っているのは、抑制剤を使った後の副作用が軽い物らしい」
「お、れ……俺がそれ使ったら、国兄は、もう一緒にいてくれない?」
「何を言うんだ、ずっと一緒に居るに決まってるだろう!」
「……お鶴よ、その薬を使えばそなたの身を守ることにもなるのだ」
「え、と……代金、おれ……」
「試験的なものでな、構わぬよ。むしろ、こちらからお願いしているのだ。本当に必要なΩに使われる事が望ましい」
何より、悲しい事になって仕舞わぬよう出来る事はしてやりたい。
初めての、大事な友人達なのだ。
宗近に力があると知っていて、それに頼る事を良しとしない。
そんな誠実な友人のためならば、喜んで力を貸そう。
鶴丸が悩みに悩んだ末に頭を縦に振ったとき、国永は静かに頭を下げた。
そんな事はせずとも良いと言いたくて、けれど国永の為にも必要だろうと宗近は無言で受け取った。