あの日以降、ウィッカと会うのは最小限となった。
この頃では牢の中に入っても拘束される事は無い。
というよりも、いよいよもってシュノを拘束出来る手段が無くなったのだろう。
魔を抑えるという聖別された純銀も、束縛の呪いを掛けた魔縄もたやすく引きちぎってしまうのだから。
シュノもまた、聞きたいことは全て聞き終えたと思っているのでウィッカの所に行くことは無い。
結果的に本に囲まれた空間で大半を過ごすようになった。



「そういえば、ここはどこなんだ……?」

今更といえば今更な疑問をシュノが抱いたのは、持て余す時間を散策で潰すようになってしばらくしてからだった。
この場所はとにかく閉鎖的で窓の一つも存在せず、高い天井や壁、床の全てが石を組んで作られている。
食堂や浴場、書庫といった大勢の人が使用する事を前提とする部屋がある割に他の気配は無い。
誰もいない長い廊下を煌々と照らす明かりは途切れることがないのに、だ。
ウィッカがその全てを管理しやすいよう、人は隔離しているのだろう。
そうなるとこの施設の目的だが、ウィッカの実験場と言うよりは後にそうなったと考えられる。
そう思った理由は複数あるが、一つは書庫にある蔵書の類い。
あれだけ専門用語、ないし持論を口にしてはばからない彼女には似つかわしくない、絵本や初心者用と思われる言葉遊びの本があったからだ。
寒村育ちのシュノは文字に触れる機会が少なく、さすらい人としての年月でもとくに必要としていなかったので本を見るのは初めてだった。
そんな彼だから文字を読む、というのは最低限。
ほぼ初めての経験に等しかったので、これらの本は大いに役に立った。
無造作に引っ張り出しては隣に並べて比べ合い、教える者が居ないにも関わらず異常な速度で読破していく。
練習用のそれらから、徐々に歴史書、世界地図、図鑑と気になった物からとにかく読んだ。
腹が減れば大人数を収納できる広さの食堂へ行く。
収納には常に沢山の食材が詰められていて、それなりに使われているようだ。
シュノもまた適当に漁り、そうして減った分はいつの間にか足されている。
これもまた、ウィッカ一人が管理しているとは思えないマメさだ。
そうなると外部からの干渉が思いつくが、相変わらず人の気配はない。
閉じられた空間に居るせいか、他の気配には敏感になっているにも関わらず、だ。
明らかに隔離されている。
とはいえ、これについては魔憑きとやらの危険性を考えれば言わずもがな。

「こればかりは、ウィッカに聞くしか無いか……」

気は進まないが、いずれ出て行くのなら必要な情報だろう。
ため息を一つ吐いた後に、シュノは膨大な本がしまわれた書庫を後にした。



「なんじゃお前様、まだ斯様な所に居ったのか」

久方ぶりに顔を合わせたウィッカは、やはりというか何というか魔憑きの処置を施している所だった。
シュノが残っている可能性を考えていなかったことは、その言葉から読み取れる。
やはりこの施設を利用しているだけで管理はしていないのだと再認識しながら、シュノは近くの壁にもたれて口を開く。

「出て行きたいのはやまやまだが、ここがどこかも分からなくてな」
「んん、はて? ここがどこかとはおかしな話よな。ここは魔憑きを隔離ないしは管理する場じゃよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……施設の意味合いじゃない。地理的な話だ」
「地理? ああ、なんじゃ。お前様は知らなんだか。担いで来た時に随分と大人しいと思ったが……そういえばお前様、寝ておったな。いや、寝かしつけたのだったか……平然と受け入れて居るから知って居るのかと思ったが。些事を覚えておくのは苦手でな」

確かに施設の規模を考えても広く周知されていておかしくないとは思う。
思うが、人をさらうように無理矢理連れてきた人間が言うことでもないだろう。
今更だが、どうやってシュノの事を知ったのかすら不明な事に気付く。

「それで、ここはどこなんだ?」
「王都の地下じゃよ。いつだったか、時の王が魔憑きを収容するように申しつけてな。王都に地下のある邸宅がないのは水道設備の為と言って居るが、本質は地下にあるここを知られぬ為よ」
「人の気配が伝わらないのは……」
「それなりに深い位置にあるからであろう。時の王が何を考えこのようにしたのか、ワシは知らぬ。興味も無い。じゃが、魔憑きを人に戻す、という話は愉快であったのでな。以来、ワシはここに居る」

誰が、いつ、ウィッカにそんな話を持ちかけたのか。
恐らくは些事、とやらで済まされて記憶にもないのだろう。
そんな他人事よりも気になるのは、

「俺の事はどうやって知ったんだ」

抜け出した後も、ウィッカからの追跡があるのかどうか。
まだ居たのか、という発言と放置している現状、可能性は限りなく低いだろうが。

「魔王の気配や魔族の気配は熟知して居る。器の気配も似たものだから簡単じゃよ」
「……人の気配より、魔物に近いのか?」
「いいや? お前様のそれは人間の気配じゃよ。ワシが言っているのは魂の質、というもの。それらが分かるのは、壊れては居るがワシがエッダの巫女、世界樹の子だからじゃろうな」
「なら、俺が出て行っても問題はないんだな?」
「人間には興味が無いのでな。出て行くのなら、次に会うときはお前様が魔に堕ちた時、魔王と成った時であろうよ」
「そうか、それなら」

別れの言葉を告げようとした瞬間、ウィッカは両手をたたいて急に机を漁りだした。

「おお、そうだ! お前様、自身の縁を知って居るか? どこに居り、親はなんと言う名で、どういう者であったのか。いわゆる、来歴、という奴よな」
「……人間に興味が無いんじゃ無かったのか?」
「ないのぅ。だがお前様は特別じゃ。出て行くのなら、餞別として受け取るが良い」

何枚かの紙束を、無造作に放ってくるウィッカに驚きながら反射的に受け取った。
一枚目は、アレックス・ヴィラスという男の絵と身の上が弧状書きされている。
それで分かったのは騎兵隊の一員であり、騎士として爵位を受けてヴィラスの姓を賜った事。
彼は任務中に死亡し、母のアヤメ・ヴィラスは生まれ故郷の桜村付近の寒村へ戻った事。
シュノはアレックスとアヤメの実子だが、妹は異父妹。
母は、村中の男達の慰み者となることで生計を立てていたらしい。

「生まれ故郷の割に、扱いは酷かったんだな」

随分と無感情に文字の羅列だけを追い、認識を深めていく。
愛していると言いながら誰にも見られるなと周囲を恐れ、シュノを殺そうとした女。
その行動や言動の全てがシュノの為と言いながら、自分の為にしか動かなかった母という他人。

「うむ、そうなんじゃがな……その辺りは少し情報が混雑して子細が分からぬのよ。お前様の目から見た故郷はどうじゃった?」

故郷、というほど思い入れも感慨もない場所。
思い出したのは、

「白かった。寒くて、冷たくて、村を全部、家も飲み込む白が広がってた」

そして、妹の小さな身体を刺した後に残った赤い痕。
あれもすぐに、降り積もる白に埋まっていっただろう。

「はてはて、ふーむ? 白、か……。おかしいの。桜村は常春で温暖ゆえ、寒村が近くにあるとも聞かぬ。しかしお前様が居たのは白、雪景色かの。あちらは常冬と聞くし、なるほど、それで移動を始めるまでワシに分からなんだか」

一人納得したらしいウィッカは興味を失ったらしく、後片付けを始めてしまった。
こうなると実のある会話を続けることは難しく、そしてシュノもまたそれ以上は興味を持たなかったので部屋を後にする。
その足で食堂へ行き、日持ちのする食材を近くにあった鞄へ詰めて廊下の端へと歩いて行った。
向かうのはこの施設で唯一、上へと続く長い螺旋階段だ。
出口へはそれなりの距離がある事と、薄々感づいてはいたが確証が無かったために存在の確認だけに留めていた場所。
息切れを起こすことも無く最後の扉を開けば、久方ぶりに見る青空が見える。
周りには石造りの塀があり、地下への入り口は頑丈な小屋に隠されている事が分かった。
水道設備の為の施設に偽装しているのだろう。

「知らなければ気付かない、か」

そうやって、この都市の暗部は秘められてきたのだろう。
シュノが知らないだけで他にも色々な物が隠されているのかもしれない。
塀の外には森が広がっていて、一息で木々の枝へと乗り移りながら移動を開始する。
濃い緑の匂いが懐かしく、肩に掛けている羽織を枝に引っかけないようにと目を向け、

「そういえば、これは……」

それが、村を出る際に外套代わりにと持ってきた母の着物だと今更気付いた。
微かな綻びや傷みを丁寧に繕っているそれは、シュノの知らない花の柄が描かれている。
記憶にあるあの人はくたびれた顔をして、柄のない簡素な物をいつも着ていただけに、違和感があった。
大切に、していたのだろう。
思わぬ形見に一瞬眉をひそめ、頭を振って考えを止める。
これが何だろうと、シュノは嫌いではないから使う事をやめたりはしない。
それよりも騎兵隊の情報が必要だと思い直し、目前に広がる都市へと足を向けるのだった。



数年後、冒険者としての登録も済ませたシュノは眼下に広がる人の群れを見ていた。
それらは複数の魔物を相手取っていて、こちらに気付く気配はない。
まさか自分たちが樹上から見られてるとは思いもしないのだから、当然だろう。
たまたま逗留していた町の近くへ騎兵隊が遠征に来ると聞いたのは、ちょうど良い機会だった。
騎兵隊の隊長が代替わりをして、件のクライン家の者が着いたと聞いてから接触の機会を伺っていたのだ。
知りたいのは、シュノを殺せる腕前かどうか。
隊員に声を掛け指揮を飛ばす者がそれだろうかと、注視した。
後方で大人しくしていればいいのに、青年は誰よりも前へ出ようとしている。
汚れた頬に、金の髪が激しい動きに合わせて踊る。
瞳は青く、魔物を射貫く熱量と輝きに、悪くないと思った。

「隊長の名前は……レイリ、たっだか」

貴族として小綺麗に整え、後ろにふんぞり返るような奴なら論外だと思ったが。
期待は出来なくとも、様子を見るには足る人物のようだ。
目の前に立ちはだかる魔物を倒しきると、青年はすぐに背後の部下の様子をと目を走らせる。
ああ、それは悪手だな。
少し離れた場所から森の木々の合間を駆ける音が聞こえている。
更には山の麓に近いものだから、騒ぎを聞きつけたワイバーンが三体、飛翔してくる姿も見える。
最も、音も姿も人並み外れたシュノだから認識出来るだけでしかない。
けれど、それが魔物にとっては間違いなく好機だろう。
地上のそれに気が付いたところで青年が応戦すれば、ワイバーンの格好の餌食だ。
事実、今まさにその状況に陥っている。
部下の何人かは弓矢を、槍を使い隊長から引き剥がそうとするが、分が悪い。
このまま見ていても勝てはするだろう、かなりの負傷者を出した上で。
そしてその負傷者は、間違いなくあの青年なのだ。

「手を出すつもりは無かったが、……まあ良い」

興が乗ったシュノは枝の上で立ち上がり、手にした鞘から太刀の鯉口を浮かせて思案する。
手を出すのは良いが今、直接の援護ないし顔を合わすのはよろしくない。
そうなると考えなく斬りかかるのでは無く、人に知られづらい部位を攻めるほかない。
ワイバーンの飛膜は腰の付け根に繋がっているから、そこを薄く削るだけで風圧が膜の全てを剥がすだろう。
そうなれば、飛べないトカゲなどそう難しい相手でもない。
邪魔な尻尾は切り飛ばすので無く、殴りつければ中の骨だけ砕くなり折れるなりするだろう。
そう考えると同時に滑空し青年に目標を付けるワイバーン二匹を、枝のしなりを使って自身を跳ね上げながら先の考え通りに処し。
頂点に到達する頃、手の届く範囲に居た三匹目には小細工なしに、単純に地面へ向けて蹴飛ばすことにした。
自身の滑空速度と後追いとなる蹴りにより、激突したらしい地面は土煙が待っている。
急に落ちてきた魔物への対処で気は反らせているだろうが、流石に知られる可能性があるかと頭の片隅で考える。
けれどまさか、完全に気配を消しているのに闇夜で視線がかち合うとは思わなかった。
驚きに目を見開きながらも、真っ直ぐに射貫いてくる青色。
他の誰かに呼ばれたのだろう、次の瞬間にはそらされていたそれを、面白いと思った。
枝に着地したと同時にその場から離れながら、あの青年に殺されるのは悪くないと思う。
未だ人となりは分からないけれど、次の接触を楽しみにするのだった。