「レイリ、良い子ね…
あなたは何も知らなくて良いの、無垢なまま、穢れを知らずに無垢なままで居れば良いの。」


「無理だよ、お母様。
世の中は汚いことだらけ、無垢なままじゃ生きていけない。」


「だから、貴方がレイリを守って上げて?
世界はレイリを必要としているの。
ねえ…お願いよ、イリア…
私の……可愛い……もう一人の息子……」



動かなくなった、大好きだったお母様。
何一つ自分のものにならないこの理不尽な世界の中でたったひとつ大切だった、無くしたくないもの。
でも、喪う恐怖に怯えることも、もうない。
「お母様が居ないなら、もうここにいる必要もない。」
炎の様なアカイ瞳が、ギラギラと殺意を込めて父親を見上げた。
「きゃぁぁぁ!!奥様っ!?
誰かぁぁ、奥様が、奥様がぁぁ!!」
偶然近くを通りかかったメイドが声を張り上げた。
「この悪魔が!!お前もすぐ母の元に送ってやろう。」
父親が血に染まった剣を振りかざす。
その、ほんの一瞬に風が動いた。
母親の亡骸を抱き締めながら、幼い少年が懐に忍ばせたシルバーのナイフ。
よく研ぎ澄まされたそれが的確に父親の心臓を貫いていた。
「レイリ様!!なんと言うことを…」
半狂乱なメイドが煩く喚く声を流して、少年は立ち上がった。
「煩いよ、俺はレイリじゃない。」
父親を殺したときと同じ、シルバーのナイフがメイドの胸を突き刺した。
「この家も、お前達も、クライン家も、みんな燃えてしまえば良いんだ!!」
少年はランプや燭台を次々に壊し、家に火を放った。
瞬く間に燃え広がった炎は屋敷をすぐに多い尽くしてしまう。
逃げ出す使用人は皆殺した。
気が付けばエントランスは血に染まり、死体が詰み上がっていた。
ごうごうと燃える炎、人間の焼ける臭い、血のこびりついた自分自身。
「レイリ、お前の大事なものは皆壊してやったぞ?
大好きな両親も、使用人も、みんなみんなお前が殺した!!」
狂ったように笑い声を上げて、少年はふっと床に倒れた。



あつい…熱さに体が焼かれているようで…


僕は目をさましたんだ。



「……ひっ…」

最初に目に飛び込んだのは赤。
火が真っ赤に燃えて音をたて、血にまみれた僕の両親と大切な人たちを燃やしていく。
皮膚は爛れ、赤黒い焼けた肉がジュクジュクしたケロイドみたく、表面を焦がしていく。
「ぅ……ぉえ…」
気持ち悪くて、床に手をついて空っぽの胃から込み上げてくるものを吐き出した。
「何で……こんな、いや……」
「……レイ、リ……ぼっ、ちゃま…」
微かに声がして、振り向くと見慣れた黒い燕尾服が飛び込んできた。
「じいや!!」
「……御無事、でしたか……さぁ、早く…お逃げ…くだ……い……」
ふらふらと歩み寄るその姿は既に炎に巻かれて助からないのだと子供心に理解した。
「や…だ…怖い……じいやも一緒に来てよ。」
「無理です…私は、もう……貴方はクライン家の唯一の希望……」
「意味が良く判らないよ…ねぇ、なんで皆燃えてるの?
なんで僕は何ともないの?」
「知らなくて良いのです。
逃げなさい…早く…ここから……」
そう言って、じいやは目の前で倒れて動かなくなった。
「お前が殺したんだよ、皆。」
ふと、頭の中に響く声。
彼はこうして時々僕に語りかける。
いつも、僕を助けてくれた兄の様に慕っていた声の主は冷たく嘲笑うように言い放った。
「これは皆、お前がやったこと。
お前が引き起こした、お前が全ての元凶だ。
良い気味だな、レイリ。」
始めは訳が判らなくて、ただじっと見慣れた人物が炎に巻かれて灰になる過程を見つめていた。
顔が爛れ、目玉が眼窩から零れ落ちたとき、反射的に叫びをあげた。
「ひぃっ……あ……う、うわあああああっ!!」
恐怖が、一瞬で脳を支配した。
走り出して、必死に走って、無我夢中で。
まとわり付くような熱気は、肌を溶かすように絡み付いてくる。

「レイシー……たす、けて……怖いよ…」

ぎゅっと、大切なぬいぐるみを抱き締めて辺りを見回した。
怖い、赤い炎が、血が僕を嘲笑う。
「レイシー…レイシー…助けて…」
足がしだいにすくんできて、動けなくなり、そのまま床に座り込んだ。
もう、死んだ方がましだった。
しかしながら、運命は死を許さないもの。
「坊っちゃん…ご無事で!!」
見慣れた白金の髪がふわりと身体を抱き締めて、安堵したのと同時に一気に恐怖が襲ってきた。
「レイシー、お母様達が…僕が、イリアが言ったんだ…全部、僕のせいだって…
僕がいたから…僕が生まれたから…みんな、僕の…せいで…」
頭が混乱しているせいか、なかなかうまく言葉が出てこない。
レイシーは何も言わないでただずっと僕を抱き締めてくれた。
「良いですか、よく聞いてください。
あなたはこれから一人で生きていかなくては行けません。」
「え…?」
突然言われた事が理解できず首を傾げた。
「坊っちゃんは強い子です、大丈夫。
貴方にはもう私は必要ないんです。
行きなさい、そして生きなさい。
貴方の運命に出会うために。」
レイシーは優しく笑って僕を突き飛ばした。
「レイ…」
「さようなら、レイリ坊っちゃん。」
突き飛ばされた間にがらがらと瓦礫が降ってきて、燃え盛る炎に遮られた。
みんな、居なくなった。

そこから先は、よく覚えてない。




「子供?」
「司祭様、どうかなされましたか?」
「…いえ、お屋敷の側に小さな子供が…」
消火活動に当たっていた町の男は司祭の腕に抱かれた幼い子供を見た。
「この子供はクライン家の御子息ですよ。
名前は…確かレイリ様…とか…。
今街の者で消火に当たってますが、難を逃れたのはこの御子息だけみたいですね。」
既に気を失っている子供は、暗がりの中で気が付かなかったが血塗れの服を着ていた。
「この子供…」
司祭が何か言いかけたときだ、抱き締めた小さな体がのやけ爛れた腕や手の火傷が急速に修復されているのに気が付いた。
もしやと思い、首元を確かめると赤い薔薇型のアザがくっきりと刻まれていた。
「女神の魂を持つもの…ですか…」
これは大変な拾い物をしたと、司祭は喉の奥で笑いを噛み殺した。
残された親族は分家に嫁いだ叔母一家のみだったが、彼女が独り遺されたレイリを気味悪がり引き取りを拒否したためレイリは教会の預かりとなった。
火傷の跡も数日のうちに綺麗に消えて跡も残らなかった。
ただ、余程ショックだったのか、暫くは声を出すこともできず、グッタリとベットの上から動かなかった。
「君、名前を言えるかね?」
司祭は毎日毎日そうレイリに問いただした。
レイリはぱくぱくと口を動かし何かを伝えようとするが、声がでない。
「無理しなくて良いんだ。」
そんな日が続いていき、この子は一生このままだろうかと思い始めた日、突然悲鳴が聞こえて、慌ててレイリの居る部屋に向かう。
ベットは血塗れて、レイリの両手から真っ赤な血が流れていた。
昼間に果物を剥いた時の小さなナイフが引き出しから出され、床に転がっていた。
「…あ…ぁ、ごめんなさい…ごめんなさい…」
初めて聞いたその声は、まだ幼く舌足らずなものだった。
涙を溢し、体をガタガタと震わせながら怯える小さな体がとても苦しそうに見えた。
司祭はレイリの体をぎゅっと抱き締めて頭を撫でた。
「落ち着いて、深呼吸してごらん。
ここには君を怖がらせるものは一切ないのだよ。」
「かは…っ、あう…ぐ…」
なかなか上手く対処できずに居るレイリを、司祭は決して甘やかさずに、しかし絶えず声をかける。
「…ぁ、は…はっ…」
次第に呼吸が落ち着けば、ベットに寝かせて塞がりかけたキズに包帯を巻いていく。
「何があったか、話せるなら話してごらん。」
レイリは、零れ落ちそうなほど涙をためた瞳で司祭を見上げた。
「僕が……殺した……皆……」
そして、レイリが小さな手をぎゅっと握り締める。
それはまるで痛いのを我慢する子供のかおだ。
彼の心はズタズタ引き裂かれ、傷みを伴っているのだろう。
その瞳には光は消えて絶望という闇が色濃く映っている。
「一緒に来なさい。」
司祭はふと何かを思い付いたみたいに、レイリの手を引いた。
レイリは虚ろな瞳のまま、ただ手を引かれるままに歩いていった。
「ノエル、ちょっといいかい。」
連れてこられたのは礼拝堂。
そこには、まだ年若い青年が昼寝をしていた。
「何ですか、俺は今忙しいんですけど。
面倒なことはお断りです。」
「まぁ、そう言わずに。
面白い子を見つけてね、君に頼もうと思って。」
そう言って司祭は隣にいたレイリをノエルの前に突き出した。
「ただのガキじゃないですか。」
「ただのガキじゃない、この子はいずれ世界を救う柱になるだろう。」
まだ幼い子供の瞳は、既に絶望に染まり、体の至るところには包帯が巻かれていた。
「こんなガキが世界を?馬鹿げてる。」
ノエルは鼻で笑い飛ばしたが、司祭はレイリの首筋に刻まれた赤い薔薇型のアザを見せた。
「これは、女神の魂を宿している証拠だ。
彼はいずれ偉業を成し遂げる、それだけの加護がある。
様々な人が、彼の周囲に集まってくるだろう。
良いものも、悪いものもだ。
ただ、今の彼は善悪の区別もつけられない幼子だ。」
「だからって俺に何でもかんでも押し付けないでください。」
「このまま、この子が陰謀渦巻く世界の渦中に身を投じていけというのかね。
随分と薄情に育ったものだ。」
「……判った、判りました、やれば良いんだろやれば!!」
「良かったねレイリ。
今日から彼が君の保護者だ。」
レイリは相変わらず聞こえていないのか興味が無いのか、俯いたままだ。
「可哀想に、まだこんなに小さいのにご両親を無惨に亡くされたんだ、無理もない。」
「知らねぇですよ。
俺に預けるなら俺なりのやり方で鍛えていきますんで。」
司祭は笑って、レイリの頭を撫でた。
「愛情をもって接すれば、それは必ず彼に伝わるし、答えてくれるだろう。
ノエル、君が彼を救う光になることを、私は望むよ。」
「冗談、生憎そんな安っぽいキャラ設定じゃないんで。」
ノエルはダルそうに体を起こして、レイリの手を引いた。
「女神の魂を持つものは世界に愛された者。
放っていても問題はないが…
ノエルなら、あの子を正しく光の方へ導いていけるだろう。」
司祭はひとつ、笑いを噛み殺して踵を返した。
此から彼らに訪れる運命が幸福なもので有るようにと、小さな祈りを込めながら。