黒く、昏く、長い廊下が続いている。
それは自分が住んでいる本丸のようであり、しかし知らない気配があちこちからしていた。
曲がり角、柱の陰、花瓶の隙間、掛け軸の中、襖の間、天井。
皆くすくすと笑っていたり泣いていたり、音を発している。
こわい、こわい、ぜんぶこわい。
小さな狐の少年は、しかして身に余る霊力を持っていた。
昔は狐の母が、その後に混じりの母が、今は鬼の青年が守ってくれている。
日々はそれで安心するものの、時折こうやって夢の中に入ってくる。
「ほんとうに? どうしてまもってくれるの、どうして?」
不安をあおる声をなるべく聞かないように、紅葉の手の平で耳を塞いだ。
そうなると不安定になる体勢で、転ばないように気を付けると足が遅くなる。
だめだ、だめだ、これじゃあだめだ。
追いつかれる、追いつかれてしまう。
「どうして? どうしておわれてるの、ねえやすもうよ」
いやだ、いやだ、ぜんぶこわい。
どうしてここには誰も居ないの。
安心出来る刀達も、朱乃も母様も。
どうしたら良いのか困り果て、落ちる涙に視界が歪んでとうとう転んでしまった。
膝小僧を擦りむいたのか、恐怖に竦んでしまったのか。
萎える足は立ち上がる事も、歩き出す事も許してはくれない。
「ふぇ……朱乃、母様……ひすいかあさま……!」
「うん、呼んだか?」
助けて、と必死に一心で願った瞬間だった。
怜悧に伸びた影の足が一本、手に弾かれて消え去った。
怜悧は驚きに声を上げながら頭を竦め、背後を腕の陰から覗き見る。
そこには白金の髪に紅い眼を光らせた、常とは違う女性らしい着物姿の母が居た。
色合いは違えど、霊気や雰囲気、何より相貌を見知っていた。
「かあさま!」
助けに来てくれた事が嬉しくて、早くその温かい腕で抱き締めて欲しくて怜悧は飛び付いた。
否、飛び付こうとした。
もふん、とふわふわの何かに全体を包まれて動きを止める。
不思議な事に、目の前の母には狐のような白い尻尾が九本あった。
「何だお前、母様とは私の事か」
「かあ、さま……?あの、しっぽ?」
「お前も狐のアヤカシだろう。名は?」
「え? 僕の事、分からないの?」
常とは違う、温かみの感じられない瞳で見下ろされる。
安心させる微笑みは浮かべているのに、何かがおかしい。
「分からない、とは何のことだか……けれどお前、愛し子に似ているな」
「いとし? かあさま……もしかして、きおくそーしつ?」
「記憶? それなら覚えているとも」
お前は知らない子だ、と言われて怜悧はまた泣きそうに表情を歪めた。
病気の一種ならまだ我慢は出来る……否、出来ない。
多分、そう言われてもショックだっただろう。
「ぼく、れいりだよ。怜悧……かあさま、忘れちゃったの?」
「れい、り? ふむ……ああ、なるほど、そういう事か。よし、分かった」
「わかったの? おもいだした?」
「ああ、いや……その記憶なんたらというのが分かっただけだ。行くぞ、怜悧」
思い出したわけではないと言われて再び落ち込んだが、いつもの母らしい態度に少し安心を覚えた。
手を引いて貰えると思って伸ばした腕は、しかし空をかすめる。
驚いて足を止めた怜悧を、母が気付いて足を止めた。
「腕か。そういえば今日は腕が無かったな……そら」
「かあさま?」
「どうした、助けて欲しいんだろう?」
そう言って首を傾げる様は愛らしく、おどけて笑って見せる姿に安心する。
色々とおかしい事があったせいで怜悧は母の言葉の意味にも気付かない。
それでも差し出された反対の手に嬉しく思って飛び付くように両手で絡みついた。
目的地は決まっているのか、足取りは軽い。
「かあさま、ここ知ってるの?」
「ユメだろう。そういったものは始まれば終わるものだ」
「どうしてかあさまの色が違うの?」
「夢に色はない。感覚の問題だろう」
「かあさま、なんで尻尾あるの?」
「お前だってあるだろう」
「かあさま、かあさま!」
「……怜悧、だったか。一つ問おう」
「え?なぁに??」
「何故、お前は守られて当然だと思っている? 私を助けだと言い、お前は何もしようとしない?」
紅い瞳が見下ろしていた。
普段は優しい母の瞳が、空虚な虚ろのように見下していた。
問いかけは突然で、怜悧には意味が理解出来なかった。
守ってくれたのも、助けてくれたのも母の方だと、何もしなくて良いと教えたのもそうだった。
けれど今は何故か、それが間違いだったと言いたげで。
針のむしろに座るかのように肌が痛くなる。
急激に感じるプレッシャーに、喉の奥からヒュッと掠れた音が出た。
冷や汗を感じて身体に震えが走る。
何か、何か言わなければ……。
「いや、答えなくて良い。そろそろ目覚めの時間だ。怜悧、一つお願いがある」
「……ぁ、……な、に?」
「そう緊張するな。私はお前を害しないよ。もしも夜、誰かに名を呼ばれたなら応えて欲しい」
「……??」
「それがその場には居ない者だとしても、一度で良い。応えてくれ。私はお前の応えに応じ、助けたろう?」
「たす、け……?」
「そうだ、助けただろう。一時的だが闇を払った。故に次は私が望む番だ」
「……ん、わかった。かあさまが、言うなら……何か意味、あるんだよね?」
「意味、か……。そうだなぁ」
怯え始めた少年と繋いだ手をゆっくりと手放しながら、白く染まっていく世界の中でそれはしっかりと微笑んで頷いた。
開かれた口が言葉を成した時、怜悧は布団から上半身を起こしていた。
見覚えのある寝室に、隣に眠る人の体温。
目を向ければ覚えのあるその人が眠っていて、安堵の息を吐く。
そうして自分が何故こんなに早く起きたのかと首を傾げ、夢を見たのだと思い付いた。
確か何かに追いかけられる夢を見て、
「あれ?」
どんな夢だったかを忘れてしまった。
まだ覚えていると思ったのだが、思い出そうとすればする程靄になり形を掴めずに消えていく。
夢とはそんなものか、と納得しかけた時。
「私はイタズラが好きなんだ」
楽しそうに笑う女性の声を耳元で聞いた気がして振り向いた。
そこにはただ、朝日を受けて白く輝く障子があるだけだった。