その日、その時、その出来事がなければ、確定はしなかった。
けれど、椿の本丸の審神者であり、刀剣男子達の主であり、緋翠という千年を生きる妖狐であった事。
根底にあったのは、水祈緋翠というヒトの為の只人であった事を思い出した時。
原因となったのは源氏の刀による魂の混入であったけれど。
人として、誰かを愛する心を思い出したから。
水祈緋翠は、人になった。
人として、女性として、母として、今を生きたいと思ったから。



――身体を巡る甘い痛みに昨晩まで愛しい刀達と愛し合った事を思い出しながら、ゆっくりと目を覚ました。
隣では寝顔を覗き込んでいたらしい藍色の愛しい月の人と、反対側に身体を抱き込んで未だ眠りについている真白の愛しい花の人。
声もなく、口の中で名前を呼ぶ。
むねちか、と。
それを覗き込んでいた月は慈愛に篭もった瞳を細め、首を傾げる。

「起きたか? 身体に痛みは……」
「ある。けれど、良い」
「……良い、か」

嬉しいな、と頬を上気させながら微笑む様は最上の美であり、昨晩その顔が雄の顔もするのだと知ってしまった。
これは存外、恥ずかしいと緋翠は心がむずがゆくなる面映ゆい気持ちになり、身じろぐ。
ふと、それで起こしてしまったらしく隣の真白の持つ睫が細かに震えて紅玉が顔を覗かせた。

「ん……ひすい……? むねちか、おはよう……?」

ぼんやりと、再び閉じてしまいそうなまろい瞳を何度も瞬く。
その瞼に口付けを落とし、抱き込む腕に手を重ねた。

「おはよう、国永。もう朝だぞ」
「ん……」
「はっはっは、国永は相変わらず眠りに弱いな。それに、昨晩はちと励みすぎたか」
「ん……はげみ……あ……――」

ほけほけと笑いながらしっかりと余韻を楽しもうとする宗近。
その言葉に、抱かれた側の緋翠よりも恥ずかしそうに耳や首までを一瞬で国永が赤く染め上げた。
生娘よりも生娘らしいとは、これもまた愛されてきた美しさの一つか、と納得してしまう。
そして何よりも、それを愛おしいと思うのだ。
とはいえ、国永の雄の顔も知ってしまった今となっては反応に困ってしまう。

「ずるいぞ、国永。先にそうされてしまっては俺の立つ瀬が無い」
「いや、その……すまん。昨日は、良かった」
「ふ、ふふ……お前達、二人共同じ事を言って居るぞ」

似たもの同士だな、とは二人を一身で抱く側に回った勝者の言葉だ。
一妻多夫。
人間と妖狐の血がさせたのか、その身の陰陽がさせたのか。
緋翠は三日月宗近と鶴丸国永を人として愛し、伴侶に求めた。
二人も刀として、刀剣男子として愛し、付喪神として伴侶に求めた。
魂にその真名を刻み、永劫を審神者という神嫁として共にある事を誓った。
何と嬉しく、愛おしいのか。
だからこそ、残る憂いが心を占める。
この時間が愛おしく美しい、幸せなものであればあるほど、哀しみが緋翠を襲う。

「どうした」
「……迎えに、行くんだろう?」

正しく哀しみを汲み取った宗近は頬に口吻を落として宥め、覚悟を汲み取った国永は後押しをする。
二人共、止める事はしないのだ。
緋翠の望みであれば、二人は率先して従ってくれる、尊重してくれる。
それが、嬉しい。

「ああ。俺達のもう一人の息子を、返して貰いに行こう」

痛みの引かない、快復のしない身体にわずかな違和感を感じながらも緋翠はその為に動こうと決めた。
人として生きると決めたから、諦める事をやめたのだ。
我関せずではなく、我が事だから動こうと決めた。
すでにそれだけの情報は手の中にあり、果たしても良いのか迷っていたけれど。
諦観をやめる覚悟を決めた。

「行き先は時の政府、カミシロ研究所だ。行こう」
「任せてくれ」
「ああ、出陣だな」

そこに、始まりの鍵が眠っている。



――研究所自体は怜悧と朱乃に関する特務で何度も足を運ぶ馴染みの場所だった。
問題は中身だが、それは自分の管理官であり監査官である政府の役人を通して知れている。
目的地は怜悧と朱乃を閉じ込めていた特別棟の更に奥、地下深くに在る独房だ。
カミシロ、名の通り神の依り代と言われるほど特殊な事情を持つ者達を封印する為の場所。
それぞれを封印する事情が違うため、利用者は少ない。
警護ではなく内の者を閉じ込める為の警護体勢である以上、外からの襲撃には弱い。
一人一人の実力はさながら、しかし最前線で斬り込み部隊として活躍していた本丸の刀剣達には敵ではなく。

奥深く、地下深く、寒々しく広大な空間の中央に、ソレは居た。

中空から垂れ下がる鎖に磔にされるような格好で。
流れる銀糸は白濁と汚れですっかり灰色に変わってしまい、長さもバラつきが目立っていた。
力なく開かれる紅玉の球体は濁りきり、元の芯の強さも失われて周りを映す事すら無くなっている。
一糸もまとわぬ格好で放置され、鎖を食い込まれた肌は赤褐色すら同化してしまっていたが。
病的な白さと骨の浮いた身体でなお、人としての形を、命を、保っていた。

「――……しゅり……」

暁の子が見付けた、たった一つの至宝。
鬼の子と呼ばれ恐れられた紫銀の子の魂の片割れ。
緋翠が500年前に迎え入れた、二番目の息子。

「朱璃、すまない……遅くなった。お前の事を知った時、真っ先に来るべきだったのに……迷って、諦めた」

言葉を掛けても反応はない。
当然だ。
一体どれだけの時を、モノとして過ごしたのか。
見た目は他の息子達と大差ないほど育っている。
けれど、彼と別れたのは彼が十にも満たない頃。
彼と過ごしたのは一年か、二年ほど。
それでも大事な息子である事には変わりなかったのに、怜鴉の事を思うならいの一番に来るべきだったのに。
見守るだけの時間が怠惰に、守るべきモノが多くなって臆病になった。
諦める事が最善だと、いつの間にか見誤っていた。

「何が良いとか、悪いとか……そんな事は、どうでも良かったんだ。俺は……私は、お前も、怜鴉も、手放したくない。それだけだったんだ」

物言わぬ朱璃に話しかけ、刀を一閃して鎖を断ち切る。
重力に従って腕の中に飛び込んできた身体の、あまりの軽さに涙が出た。
どれだけの時間、モノとして、独りにしてしまったのか。
朱璃の人として異常なまでの軽さは、反面、怜鴉の痛みの深さだ。
比喩ではない羽根のような軽さになってしまった身体を宗近と国永に預け、先行させる。
無事に本丸に届ける為には研究所を出て奥の院にある、管理者が使う鳥居から転移をしなければならない。
審神者ならば簡略化した転移門を作る事も出来るが、それで通れるのは自身と、同じ霊力から顕現する刀だけ。
だから、陽動が必要になってくる。

「あい、引き受けよう。主、先に帰って居るぞ」
「先鋒は任せてくれ、きっちり送り届けよう。……待っている」

最愛の二人の言葉を受け、緋翠はいつものように不敵な笑みで返した。
それは母として、一国一城を預かる主としてのもの。
常ならば頼もしいけれど、事が事であるだけに不安が残った。
だが実力と、何よりも緋翠の人となりを知っているからこそ止める事をしない。

「ああ、必ず帰る。もう一人の可愛い息子を、叱らなければいけないから」
「そこは俺達を紹介するからって言ってくれても良いんだぜ?」
「おお、そうだな!主の子ならば俺達の息子も同然。俺もな、父と呼んで貰いたいと思っていたのだ」
「それは良い考えだ、小烏丸だけの特権じゃなくなるな?怜悧達にも改めて話さないと、やる事が一杯だな」
「ああ……先がある。楽しみがあるというのは、良い」
「言ったろう? 人生には驚きが必要なのさ。なあ宗近?」
「そうだな、国永の言うとおりだ。これから息子達、何より自身の為に、忙しくなるぞ」

互いに不敵な笑みを交わしあい、宗近が朱璃を抱き上げて国永が先陣を切っていった。
残る気配は短刀の薬研藤四郎、打刀の加州清光、同じく打刀の大和守安定、脇差の堀川国広。
初期刀であり、最古参の精鋭だ。
太刀二人が去って行った事を察して索敵から主の元へと駆けつけてくる。

「システムは未だ山吹と情報屋が押さえてくれてるようだな。……さて、我々の目的は陽動だ。派手に暴れるのは得意だろう?」
「むしろ僕は結構邪道な方だから、そういうのは兼さん向きなんですけどね」
「まーた出たよ、堀川の兼さん癖。今居ない奴の事言われても、ね」
「良いじゃん、ようはいつも通りって事でしょ? 正念場に連れてきてくれて、俺が主に愛されてるって証拠じゃん」
「ああ、いつも通りで良いってこった。お嬢が待ってるんだ、きっちり柄まで通してみせるぜ」

お嬢、と薬研が慕わしげに呼ぶ言葉を聞いて緋翠は薄く笑みを深める。
式神であり友と呼べるほど慕わしく、長くを共にしてきた仙女。
薬研と彼女が結ばれたのも、緋翠の考えを変える良いきっかけになったのだ。
愛しいと思う心、それ自体に何の隔たりもいらないのだと。
刀だろうと仙女だろうと、かわした情が確かならば何の障害にもならない。
それを、思い出したのだ。

「では諸君、索敵後……各個撃破と洒落込もう。敵は時の政府、カミシロ研究所職員。遠慮はいらん、持てる限りを出し尽くせッ!!」

大将の号にそれぞれの言葉で応じながらの陽動戦が始まった。