夜中、鶴丸が寝静まった事を寝息で確認をし、近場に置いてあったウサギのぬいぐるみと入れ替わるようにベッドを出る。
安心しきった幼い表情で、ゆるやかに笑みを浮かべて眠っていた。
ウサギのぬいぐるみは下層では珍しい祭りの日に、景品で取ったモノだ。
真っ白で大人が胸に抱けるほど大きいそれに、ピンクのハンカチを首に巻いてくにちゃんと呼び可愛がっている。
こうやって夜中に抜け出す事は多くあり、

「国永さん、もう行くのか?」
「ああ、来て貰って悪いな貞坊。いつも通り、朝に戻らなかったら作業所に先に行ったと伝えてくれ」
「俺は鶴さんと遊べて良いけど……国永さん、ちゃんと寝てくれよ。みっちゃんが心配してる」
「遅かったら向こうで寝てるさ。光忠によろしく言っておいてくれ」

ウリに出る時には必ず鶴丸の傍に居てくれと頼んでいる貞宗の姿を見つけ、頭を撫でた。
詳しい事情は教えていないが、それでも何をしているのかは察しが付いているようで。
言及したり止めないのは信頼されている半面、弟分として許されている部分を弁えているからだ。
それを承知で利用し、鶴丸の安全を確保する。

「それじゃあ行ってくる」

止めようと漏らす声を背中に受けながら、顔を向けずに手だけを振って家を出た。
空は少しだけ晴れ間を見せていて、三日月が浮かんでいる。
明かりが無くとも夜目が利くのはありがたく、姿を隠すには絶好の条件だ。
上層へ行くには地下の枯れた下水道を通って中層に紛れ、何枚もの壁を潜ったり飛び越えたりを繰り返して上層の端に着く。
あっさりと来れるのはそれだけ身体能力に優れているからで、ありがたさで反吐が出た。
皮一枚しか違わない人間なのに、αが街を牛耳ってΩを追いやり、そのΩを奴隷のように飼うのだ。
その厚かましさが国永が他人を好きになれない理由の一つでもある。
上層の人間は何かと他人を見下し、自分たちだけが綺麗な生き物であるかのように振る舞う。

「……本当に、反吐が出る」
「おや、どうかしたかい? 随分綺麗な子だけれど、どこの子かな?」

掛けられた声に振り返れば、小太りの小綺麗な格好をした爺が好々爺然とした表情をしていた。
それに応えるように微笑んでみせれば、腕を伸ばして腰に手を回してくる。
年に似合わず随分と遊び好きだな、と思いながらカモにしな垂れるようにさり気なく接触を図った。

「一人暮らししてるんだが、ちょっと遊ぶ金と刺激が欲しくて。……親は馬鹿に育って欲しくないんだと」

耳元で囁くように吹き込めば、相手は勝手に良い所の放蕩息子だと勘違いをしてくれる。
後は秘密を共有する額を提示するのを待てば良い。
好々爺は笑みを深めて国永を値踏みし、額を提示しようとした所で、

「これは驚いた。いくら待たせたからといって、彼氏を放って身体を売ろうとするとは」
「はっ? おいおい、何の言いがかりだ――……」
「こ、これはこれは! まさか貴方のお身内の方だとは……失礼致しました!」

散々腰や尻を触ってきていた相手が逃げるように去って行く後ろ姿を目の当たりにし。
邪魔者を苛立たしげに睨もうと目を向けて驚愕に見開いた。
まさか上層で今一番話題の時の人に会う事になろうとは。
三条宗近、製薬会社の会長に就任し、モデルもかくやという美貌とスタイルで昔から話題を見ない事が無い。

「君ならもっと良い相手が居るだろうに、何のつもりだい?」

怖じ気づいた様子を見せない国永に、宗近はくすりと上品に微笑むと国永に近付いて正面から腰を抱いて見せた。
藍色に三日月の光りが浮かぶ瞳は神秘的で綺麗だと思ったが、その目が面白そうに歪められているのが気にくわない。
顎に手を添えられて、何も言わずに見上げて真っ正面から互いを見る。

「やはり好みだ。何、あのエロ親父にくれてやるには勿体ないと思ってな」
「だからと言って彼氏を騙る程かい? 上品な顔の割に随分と酔狂だな。顔は自信があるが、君には遠慮したい」
「何、今からの誘いに乗れば事実になろう。俺はお前の好みに合わぬか?」
「好きか嫌いかで言われれば極上だな。けれど抱くのは最愛の番だけと決めているんだ」

抱く、というキーワードを反芻した宗近は口元を抑えながら大きな声で笑った。
一体何事かと驚くと同時、衆目を思い出して両手で塞ぎに行く。
幸いと言うべきか最悪と言うべきか、宗近程の美丈夫ともなると周りが遠慮をして注目しなくなるらしい。
まるで気安い仲とでも思われそうな自分の行動に舌打ちをし、なんとか距離を空けようと奮闘する。

「安心しろ、俺が抱く。お前が感じぬ身体であろうと啼かせて見せよう」
「そいつはありがたい申し出だ……けれどタダで抱かれてやる程甘くはないぜ」
「ふむ……良いだろう。だがそうだな、一度ではつまらん。何度か相手をしておくれ」

何を考えての言い回しかは分からないが、ある意味では好都合とも言える展開だ。
有り難すぎて不穏な物を感じながら、頷いてみせる。
腰に添えられた手は外されなかったものの、それで連れ合いだと分かったのか周りが配慮を見せ始めた。
混雑する大通りでも周りの人間からは距離を置かれ、豪華なホテルではボーイに頭を下げられ。
部屋に着く頃には慣れない環境と距離に疲れていたが、未だ慎重にならざるを得ない。
ベッドに腰掛けて足を組み、上着を半端に脱いで宗近を誘い見る。

「やる前に説明させて貰う。薬の使用は禁止、痕を付けるのも禁止、個人情報は話さない、衣装替えは別途請求、オモチャの使用は応相談」
「嫌だと言ったら?」
「交渉不成立、俺は出て行く。ああ、中出しは遠慮させてくれ。αだから妊娠の可能性はないが、他人のを掻き出すなんて不快だ」
「ふむ、お前はαだったのか……育ちは?」
「ノーコメント。しかし変な事を聞くな? 普通は生まれを気にするのに」
「お前に興味がある」

ぎしり、とベッドに付く両手に顔を挟まれ、国永は無表情で宗近を見返した。
言葉の真意は分からないが、その場しのぎや戯れでは無い事は分かる。
ベッドに付いた手が両手を握り、恋人繋ぎのように指を絡められて縫い付けられた。

「ずっと傍に居られない奴はごめんだな」
「共に? ならば自信があるぞ?」
「どういう風に? 親だって平気で子を捨てる。信じられない」

淡く微笑んで見せる国永の表情に、儚くも美しい物を感じて宗近は衝動的に口付ける。
唇を食み、舌先を絡めて繋がりあい、熱い吐息を漏らす国永の呼吸すら惜しいと深くした。

「ん、あ、ちゅ……はぁ……」
「もっとお前の声を、話を聞きたい。お前を知りたい」

頬にちゅっ、と音を立ててキスをしながら、国永の様子を見てみる。
放された銀糸がそのまま唇を濡らしながら、子供をあやすような曖昧な笑みを浮かべられた。
沈黙と共に訪れたのは、明確な拒否だった。
心の底から惜しいと感じ、けれど今聞いた全てを忘れずに頭の片隅に置いた。

「ならば、キスは別料金か?」
「サービスしておく。それで旦那様、今日のご要望は?」
「動かなくても良い、好ければ喘ぎ、俺の形を覚えるまで一晩好きに抱かせてくれ」
「普通は奉仕をさせるんだが……物好きだな? なら……そうだな……」

きょとん、と幼い表情で国永は首を傾げる。
尺をしろ、騎乗しろと言われる事が多く、時には拘束したいという奴まで居た。
上層の人間はとにかく自分が気持ちよくなる事が優先で、そうする為にアナルを舐めろとまで要求もする。
言葉遣いも指摘されるようなアブノーマル性が多い中、宗近の要求は簡単だった。
この辺りで販売している抑制剤の相場を思い出し、それを提示しようと頭を使うために目線を外した先。
無骨なスーツケースを3つ見つけ、宗近もそれに気付く。

「ああ、お前には番が居るのだったな。とすると、Ωか……ならあの抑制剤を持って行くと良い」
「抑制剤? アレの中身が?」
「新薬という奴だ。本来なら人に預けておいたのだが、待ち合わせに来なくてな。邪魔だから放っていた」

新薬の抑制剤と言えば副作用も少ないと言うアレだ。
何故ここに、とは言うのもはばかられる。
彼、三条宗近は製薬会社の会長だ。
恐らくは何らかの商談に使おうとしたのだろう、国永にはただただラッキーだった。
交渉のテーブルにアレを載せられたのは幸い、しかし一度きりでは、足りない。

「おいおい、俺が抑制剤を欲しがるとは限らないだろう?」
「その時は売れば金になるだろう」
「こんな物、持っている方が怪しまれる」
「ふむ……では転売したい場合にはこちらが指定した先にすると良い。悪い話しでは無かろう?」

つまり運び屋になれ、と言っているも同然。
その位の危険があった方がむしろ信用出来ると考え、国永は笑みを浮かべた。
ルートを追えば宗近を脅す弱みの一つも握れるかも知れないと考えたのだ。
実際に脅迫をする気は無いが、手数は多い方が良い。

「商談成立だ。今回はアレを報酬に貰う」
「良かろう。ならば雑事は忘れ、俺に溺れろ。俺は宗近と言う」
「ああ、仰せの通りにしてみせよう。王様……いや、宗近か。俺は国永だ」

名を上げた瞬間、キスをしていた国永の手の平から顔を上げて宗近は目を見開いた。
満足のいく交渉とその報酬に上機嫌の国永は、真意が分からず微笑んで首を傾げる。

「他に良い相手の名でも?」
「いや、いや……そうではない。そうでは無いが……お前は、国永というのは、本当の名か?」

今までの会話で初めて垣間見せる真剣な表情に、国永は訝しげに首を傾げたまま。
源氏名だとしても、本名だとしてもそう珍しい名前ではない。
真剣な表情の中にある瞳は、迷子の子の様に揺れて彷徨っている。
その瞳が気になって顔に掛かる髪を、撫でる様に掻き上げてやった。

「君に教える必要は無い」

けれども口から出たのは拒否を示す言葉で。
それはまるで、自分に言い聞かせるようではないかと思う。
欲しいのは鶴丸だけ、愛しい弟で番のあの子が幸せに暮らせる世界。
あの真白の子と二人で居られれば、ずっと一緒に居られればそれで良い。
それ以外は、友人でもいらない。
友人じゃないなら、もっといらない。
宗近がどんなに悲しそうな顔をしても、顔や手つきが愛しいと思えても、外の人間だ。
外の人間の事は知らなくて良い、知る必要も無い。

「……そうだな。ああ、そうだった。では国永、今からお前を抱く」
「ああ、とっておきの驚きで魅せてくれ」

極上、とも言える甘い笑みを浮かべて国永は宗近の首に腕を回し。
宗近は国永に口付けるためにベッドに押し倒した。



ベッドに丸くなって眠りにつく国永と名乗った青年を見下ろし、宗近は桜色の髪を撫でた。
何度も染めたのか、劣悪な環境のせいなのか。
傷んでパサパサと張りも艶も無くなったそれは、後ろ髪だけを長く伸ばしていて女性的に見える。
華奢な身体は骨張っていて、筋肉が付いている所以外は細く栄養の足りなさを意味していた。
その中で勝ち気な紅い瞳だけは強く輝いていて、意思の強さを表す宝石のよう。
かつて、似たような少年と過ごした日を思い出す。
真っ白な容姿は生まれつきで、弟と二人孤児院にやってきた。
警戒心の強い子供は人と馴染もうとはしなかったが、泣きそうな時は必ず裏の大木の足下で膝を抱えていた。
近付いて抱き締め、頭を撫でると縋るようにしがみついて泣き出す。
何があった、どうだった、鶴丸がと弟の話をし、最後には必ず手を握ってきたものだ。

「ち、か……いっしょ……」

記憶の中のそれよりも低いが、確かに言われた覚えのある言葉を聞いて驚き目線を落とす。
限界まで抱かれた身体を休ませて眠りながら、国永は涙を流していた。
三条家御用達の孤児院に隠され、αだと分かった時には強制的に家に戻され。
最愛の人物との別れを突然突きつけられた。
きっと待っていてくれと、迎えに行くと願いを込めたまま会えずに居た。

「やはり、お前はくになのか? 愛しの俺の、妻よ……」

涙の痕をぬぐい、声を掛けるが返事は無い。
だが、どんなに変わっていても、どこに居ても見つけ出すと決めていた。
番を持った事、宗近を忘れている事、男に抱かれていた事。
正直信じられない事ばかりだったが、手放す気にはならなかった。

「お前が男を知っているのなら好都合。俺を教え込んで溺れさせ、俺無くては生きられぬ様にしてやろう。お前の番と一緒にな?」

だからこそ、焦る必要は無いと闇に笑う。
じっくりと一つずつ、快感を植え付けて虜にしてやろう。
快楽に敏感な身体はどこも開発はされておらず、宗近のを受け入れた時には予想以上の長さと太さに驚いた声を上げていた。
絶倫と涙ながらに言われた事を思い出し、口付けを落とす。
性格はより勝ち気、否、口が回るようになったが愛しさも増すという物。
今までどう生きてきたのか、自分を覚えているか、知りたい事はじっくりと知っていけば良い。
仮に違う人物だったというなら、本物が現れるまで代わりの人形とすれば良い。

「愛して居るぞ、国永」

一生手離しはしない、大切に大切に飼い殺してやろう。
幼い恋心が歪んだ愛になっているとは気付かずに、国永を胸に抱いて宗近もまた眠るのだった。