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雨にきく

その日は朝から寒い一日だった。
一週間ほど前まではまだ半袖でも過ごせたのに、それから一日と過ぎるごとに最高気温が下がっていき、今日はついには十二月の気温とまで気象予報士に言わしめた。
まだ十月。町中にあって秋を感じられるものは金木犀と葉の落ちた桜の木、黄色くなりゆく銀杏の葉ぐらいだが、最後に染め上げるはずの銀杏を待たずに冬が来てしまった。テレビの向こうの紅葉の中継だってまだ本番には程遠いというのに。先日の休みに慌てて衣替えをしたのが功を奏したが、いきなりの冬にどの服を着たらいいのかわからず、それまでの秋の服装に保温効果のある下着を重ねて着るなど、急ごしらえの冬を装った。
朝はそれでかわせたが、仕事帰りの夕方ともなると気温はますます冷えている。朝から夕方まで間断なく振り続ける雨は気温の上昇を阻んでいた。
暖かかった職場から温まった体で外へ出て、その寒さを痛感する。正面にあるビルから吹き降ろす風が冷たい。傘を持った手にパーカーの袖を伸ばそうとするが、体にぴったりフィットするタイプのものなので伸びる袖もなかった。仕方なしに息を吹きかけるも、あまり効果は期待できない。歩き出せば体も温まるだろうと、大股で歩く。
職場から最寄りの駅までは徒歩15分ほどかかる。その間は商店街を抜けるか、住宅街を抜けるかの二つの道があるのだが、帰りはいつも後者の道を選んでいた。疲れた体と耳に商店街の喧騒は少し堪える。住宅街の静けさと金木犀の匂いが心地よい道であった。
傘に跳ねる雨音が段々と大きくなっていくのを聞きながら、コンビニの前を通り過ぎる。その先が本格的に住宅街の始まりになるのだが、道路の向かいにある保育所の外にせり出した屋根から聞こえる雨音がいいリズムを刻んでいた。出入り口の前がポーチのようになっており、その屋根に雨が当たっている。先だって簡単な工事をしていたのを見ていたので、屋根の材質が金属や木などよりもずっと簡単な造りであることは想像できた。片側一車線の道路を挟んでもよく聞こえる雨音は、まるで誰かがばちを持って叩いているかのようで、疲れた耳にも心地よかった。
またしばらく歩き、角を折れると車も入れない道になる。片側にはマンション、もう片側には今も使っているのかわからない、どこかの園芸屋さんの倉庫があり、人の通りも少ない。帰りが遅くなった時は少ない街灯を頼りに足早に駆けたい道であった。
この道を一緒になる人は少なく、今日もはるか先に一人、後ろにはいない。
その一人はベージュの傘を肩にかけ、後ろからその様相を窺い知ることはできなかった。背丈や歩き方からして老齢の女性か男性のようで、のんびりと歩いている。家に帰るところだろうか。
少しの間、遠くの一人とこちらとでの道行になったが、前方からどうにか入り込んできた車によってその静寂が破られる。歩行者に遠慮するようにして通り過ぎる車に、少しだけこちらも道の端に逃げていると、どこからともなく歌が聞こえた。雨の合間を縫うような、低い、男の人の声による歌である。
マンションの方からか、と顔を上げてみるが、車が通り過ぎて後、そうでないことにすぐに気が付いた。声は前を行く遠くの一人から聞こえる。それもこちらの歩き方が早い所為だろうか、いつの間にかその一人は遠くではなくなっていた。
ベージュの傘の向こうから聞こえるのは、老人の声による歌だった。
雨と静寂とわずかな喧騒の間を縫い、地面の上を滑るように遠くへ抜けていくそれは抑揚の少ないもので、どこかの民謡のようにも聞こえる。ただし、歌詞などはなく、ただ声を伸ばすだけの歌だった。
老人はその部分を息継ぎすることなく、もしくは息継ぎをしたとしてもそれとわかることなく、一本の糸を伸ばすように歌っていた。
練習かもしれず、もしかしたら何か心地よい気持ちで歌ってしまったのかもしれない。向かいから人がくるとぴたりと歌をやめ、通り過ぎるとまた始めた。
ここからは見えないはるか先へ飛ばすようなその歌をもう少し聞いていたかったが、生憎と途中で老人を追い越してしまった。老人はそこでも再び歌を途切れさせたが、こちらが通り過ぎ、少し距離が開くと再び歌い始めた。
遠く、細く、繋がって歌われているものの一端が、雨の日の夕方、こんな町中の住宅街に流れているということが面白く、少しだけ歩く速度を緩めた。しばらくの間、老人の歌を聞きながら、これはどこで歌われてどんな歌だったのだろうと想像するのは楽しく、疲れを忘れさせた。
ほどなくして、老人の声が聞こえなくなった。わずかに振り返るとその姿はない。途中の角で曲がってしまったようで、耳に残った歌の余韻を逃さないよう、残りの道を歩いた。



終わり
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