まず驚いたのが画。
予告編でも十分驚いてたが、本編を観るとなおさら。

少し昔の良質の絵本の見開きページがそのまま動くような。
一人の画家が人物と背景を描いたような。
柔らかな鉛筆もしくは筆が描いたような描線。
それらがそのまま動くのだ。
アニメーション制作現場は知らないが、長年アニオタやってるから、これらが多人数で作るアニメーションにおいて非常に大変なことは想像がつく。
決まった太さでトレスするのではなく、一本の線にも強弱があって、それらを多人数のアニメーターが出来なくてはならないのだから、技術の高いアニメーターが集まったと思われる。
時間がかかったのも分かるなぁ、贅沢な映画だなぁ。

野山の背景と姫達の一体感が一番驚いた。


友人達と野山を駆け回ってた頃の姫が一番幸せそうだった。
成長が早い姫を「ヘンだ」と言いながらも、ありのまま受け入れてくれる友人達が頼もしい。

ワタシは「かぐや姫」(もしくは竹取物語)は絵本か児童書に書かれた物しか読んでいない。
その範囲で覚えている姫は翁達と別れることを泣く姫か、求婚者達に無理難題をふっかけて振る姫しか知らない。
高畑監督の「かぐや姫」は生まれてから都へ上がるまでを描いて、姫が我が身を嘆くだけの女性ではなく感受性の高い本来は伸びやかな女性として描いている。

それでも姫の明確な反抗は名付けの宴の時の家出くらいで、あとは我が儘言ったり嫌がったりしながらも与えられる状況に流され(求婚者は無理難題ふっかけた時点で諦めると思ってた)てしまうから、帝に言い寄られてついに月へ帰還しなければならないことになってしまう。

この物語はおそらくはその時代における各々の価値観の違いやズレが姫の帰還という結末を迎えたのじゃないだろうか?
帝と貴族が権勢を誇る時代。
帝や貴族と庶民の感覚の違い。
翁とおうなに見る感覚の違い。

自分には手に入らないモノはないと思ってる帝、女は自分に嫁ぐことが最上の幸せと自信たっぷり。
姫を知りもせず噂の美女を手に入れることで自身を誇示しようとする貴族、女達を不幸にすることなど考えてもいない。
貴族に嫁がせることこそ姫の幸せと信じて疑わない翁、貴族社会への憧れと野心。
「かぐや姫の物語」では貴族の男達には否定的で割と姫に寄り添ったフリーダムな心を持ってたおうな、しかし翁に対して少しばかりの異は唱えても強硬手段にはでない。


「竹取物語」の作者は不明だが、貴族社会に反感を持った人じゃないだろうか?
だから大貴族も帝さえ姫に振らせ、更に帝すら手の出ない月の世界へ帰らせた。
平安時代って疫病が流行った時代だったから、辛苦のない不死の世界は憧れだったのかもしれない。

でも「かぐや姫の物語」は違う。
ワタシ上映中は泣かなかったが、後でパンフ読んだ時に不覚にもウルッとした
故・地井武男さんと高畑監督の会話。
地「これは地球を否定する映画ですか?」
高「逆です、地球を肯定する映画です」

月の世界は清らかで心穏やかで不老不死の世界。
地上の世界は喜怒哀楽に振り回され生老病死に苦しむ世界。
しかし変化もなく感情の動くこともない月の世界と、彩りと季節に満ち感情豊かな地上と比べてどちらが生きてる実感を得られるだろう?

「かぐや姫の物語」の姫は生きてる実感が欲しくて地上に降りたようなものだ。しかし記憶を操作されることによって目的を忘れてまっさらで地上で生きることになり、目的を思い出した頃にはタイムリミットが迫るという事態
しかも月へ帰る時は地上の記憶は全て忘れるという。

感情豊かに生きていた姫が月の衣を羽織った途端、無表情になったのは哀れに思えた。