びりり、と肌に細かな振動を感じて、『儀式屋』一背の高い男は顔を上げた。
一瞬、蛍光灯が虚しく光る天井を見つめてから、彼は腰掛けたカウンターの上にある鏡へ。

「すげぇっすね、姐さん」
「分からないこともないわ。まぁ、私としては、あの人が近付かないから嬉しいけども」
「あぁ……そういうメリットもあるんすねー」

小さな鏡から覗く金髪の美女の言葉に、ヤスは納得して数回頷いた。
だが、その声はどうにも納得しきれていない色が含まれている。
それを巧みに汲み取ったアリアは、艶やかな唇を笑みの形にする。

「なぁに、楽しくなさそうね」
「楽しいとか楽しくないとか、そういうんじゃないっす」
「あら、本当にそうかしら?」
「……姐さん、分かっててそんなこと聞いてるんじゃないっすか…?」
「さぁ、どうかしら?」

ふふっ、と柔らかな声で笑ってみせれば、ヤスはその眉を八の字に描いた。
なんと返すべきかと困惑した好青年に追い打ちをかけるように、何とも言えない会話がその耳に飛び込んできた。

「ユリアちゃん、お菓子何がいい?」
「え、えっと……そのー」
「あ、これ美味しいんだよねー、俺のオススメなんだけど。食べない?」
「けど今、お仕事中ですし……」
「大丈夫大丈夫、儀式屋はこのくらい何も言わないし。お客さん来たら、ちゃんとすりゃ文句ないし。はい、あーん」
「──J!!何してるっすか!」

いよいよ耐えきれなくなって、ヤスは背を向けていた二人に向き直った。
黒い瞳に映り込んだ風景──それは、彼にとっては直視に堪えないものだった。
背を見せていたその反対側、椅子に腰掛けたJ。
彼は堂々とカウンターに「J専用」と書かれた菓子箱の蓋を開け、絶えずその手には何かしら菓子が握られている。
そして今、膝の上に座らせた少女─ちなみに今日は、赤いチェック柄のワンピースだ─を、巻き添えにしようとしていたところである。
ヤスが声を掛けた途端に、ユリアはそのまま今の心情を表した顔を彼に向けた。
その表情にヤスの良心は思いっきり同情して、心の中で激しく頷いた。

「何ってヤス君……お菓子タイムに決まってるじゃん?もう今年で21年目突入なのに、今更何を……」

よしよしとユリアの頭を撫でてやりたい衝動を抑えながら、詫びれもせずにそんなことを言う男を、ヤスは凄まじい眼力で睨み付けた。

「そういうこと言ってるんじゃないっすよ!!」
「じゃあどういうこと?ヤス君はお菓子嫌いだから、いらないだろ?」
「だからそれも違うっす!」
「……じゃあ何?」

本当に分からない、というように片側の金瞳を不思議な色に染める。
その様子に、ヤスの両頬は思い切り引き吊った。
一瞬、胸の内にどす黒い何かが生まれたが、それを心の内へしまい込む。
そして思い切り息を吸い込み、

「こないだから、ユリアちゃんとくっつき過ぎっす!!」

靄のように渦巻いていたそれを、怒声と共に吐き出した。
びりびりと室内の空気が震える。
ついでに、カウンターに置かれている鏡も多少影響を受けたらしかった。

「ヤスくん……注意は構わないけれど、もっと静かに注意してくれないかしら?」
「あ、す、すんません、姐さん」
「そうだぞ、ヤス君。アリアを困らすなんて、サイッテーだ」
「はい……って、J!!」
「分かってるったら、俺のせいだって言いたいんだろ?」

此処ぞとばかりに便乗して言ってみたが、直ぐ様ヤスが反応してまた声を張り上げる。
更に噛み付いて来そうな彼を宥めながら、Jは腕の中の少女の頭の上に顎を乗せる。
茶髪の彼の眼光がまた鋭くなって、吸血鬼は面倒そうに溜息を吐いた。
だからといって、ユリアから離れるつもりはないが。

「……こないだ言ったじゃん、ユリアちゃんに対する罪滅ぼしってか、穴埋めなんだって」

むっと口を尖らせて彼は呟くと、殊更その膝に乗る少女を強く抱き締めた。


──ユリアとJの距離が再び元に戻ってからの数日。
Jはずっとこの調子で、朝から晩までユリアにべったりなのである。
あの事件の前からJはユリアに甘かったが、今やそれに拍車をかけて甘くとろとろになってしまった。
普段であれば即刻引き離しに掛かるところだが、それをしなかったのはJが言った通りのことがあるためだ。
本人なりに大変反省しているらしく、彼にしては見たことないほどの態度だとは長年見てきたアリアの言葉だ。

……ただし、その方法はいかにも彼らしいとしかいいようのないものではあるが。