それに、だ。

『ヤス、もういいよ』

何度目かの逡巡を断ち切るようにできそこないを薙いだ時だった。
ヤスがこの世で一番聞きたくて、聞きたくない声が、背中から聞こえた。
振り返ってはならないと本能が警告するが、反射的に振り返らずにはいられなかった。
振り返り、その姿を目にして、ヤスは一瞬呼吸が止まったかのように思った。
そこには、できそこないのように真っ白な肌を持ちながらも、きちんと人として形を保っている少女がいた。
顔も体も全てあのできそこないとは違い、きちんとある。
ただし、頭のてっぺんから足の先までは真っ白で、この暗い世界にはあまりにも不気味だ。
だが、ヤスはそんなことは微塵も気にならないようで、構えていた剣を下ろした。

「……ユメ」
『ヤス。もう苦しまなくていいよ』
「ユメ、俺は大丈夫っすよ」
『こっちに来たら、幸せだよ。何も怖くない、苦しくない、悲しくないよ』

ユメ、と呼ばれた少女は、ヤスの話には耳を傾けず、ただただ、言いたいことを伝える。
表情もなく、感情もなく、淡々と。
そんな少女に怒鳴ることなく、ヤスは諭すように答える。

「ユメ。俺は大丈夫っすよ。だから、」
『私たちと一つになろう。大丈夫、痛くないよ』
「ダメっす。俺は一つにはならないっすよ」
『ヤス、お願い。もう私を一人にしないで…』

一瞬、ヤスの心が大きく揺らいだ。

「……ごめん、それはできないっす」
『ヤス、側にいてよ。此処は暗くて、怖いの。寒くて、私が私以外になっちゃうよ…ヤス、いかないで』

病的に白い手が、ゆらりとヤスへ伸ばされる。
ヤスは知っている、この手を取ったら、いけないのだ。
これは、惑わしだ。
できそこない共が、人を取り込むために見せる、幻惑なのだ。
だけど──こんなに自分を求めるユメを、無下には出来ない。
思わずヤスは、その手を取ろうとして腕を伸ばした。
途端に、ヤスの世界は暗転した。



──私は、なんと愚かな娘なのだろう。
そもそも私の好奇心からあれに近付いた。
だから、全ては私の責任なのだ。
だけど、優しいあの人は、私を助けに来てしまった。
代わりに、自らが囚われの身となってしまい、あれの操り人形だ。
嗚呼、自分を殺してしまいたい。
あの人は、この世界に来るべき人ではなかった。
なのに、あれのものとなってしまったら、こちらに帰ることはきっと出来ない。
どうして助けになんか、来てしまったのだろう。
こんな私のために、あの人の大切な人生を奪ってしまった。
嗚呼、全てが、恨めしい。

「これは珍しい、魔女が外にいるではないか」

何かが、私の背後から声を掛けた。
私は知っている、これは、闇の男だ。
あれに限りなく近いけど、その性質は全く違う。
これは、人智を越えた存在なのだ。
闇の男は、愉快そうに私に話し掛ける。

「君は、サンの所有物と思っていたが、最早その縁は切られたようだね」
「……そうね」
「その様子では、不本意なようだが、そうなのかな?」
「貴方に教える必要はないわ」
「そうかね。それは残念な限りだね。さて、魔女。ご挨拶はこのくらいにして、私を此処に呼び出した理由を、聞こうではないか」
「………」

嗚呼、そうか。
私が、この男を呼び出したのか。
生娘でもあるまいに、無意識に呼び出しただなんて。
私は、自嘲的な笑みを浮かべ、闇の男に目線を送った。

「何故かしら…私、貴方を呼び出した覚えはないわ」
「みな、真実の願いを思うときは、そのように言うよ」

死人のように白い顔に、薄ら笑いを浮かべながら、彼は宣う。
嗚呼、なんて、腹の立つ表情なのだ。
この男は、人の感情なんて、逆撫でするのが常識だと思っている。
でも、ここで、腹が立つからとはしたない行動は取らない。
そんなことしたら、それこそこの男の思う壺である。
だから、私は、とびきりの作り笑いを、彼のいうところの“真実の願い”と共に返してやる。

「…あの人を、救ってみせなさい」
「魔女よ、君は何のために、サンの所有物になったのかね?」
「言いたいことは分かるわ。でも、もういいの。私は、あれの正体に気付いてしまった」

そう。
私は、知ってしまった。
あれは、ただの魔術師ではない。
愚かな娘だった私には、あれの金メッキで出来た部分しか、見ていなかった。
剥がれ落ちた後に見えたそれは、とてもではないが、触れてはならないものだ。
だから、あれは──私を、殺す気だった。
否、それ以上に、生きながらにして自己を消失していく、“できそこない”にする気だったのだ。
闇の男は、そんな私の心を見透かしたように、薄ら笑いを拡げて、私の頬を掴む。
なんて温度のない、死人のような手なのだろう。

「魔女よ、私とて容赦はしないのだよ」
「えぇ、知ってるわ」
「彼を救うには、君の全てを対価にしなければならない」
「だから、貴方を呼び出したのでしょう?」

そう問えば、男はくくっと低く笑った。
だが、その血のように赤い瞳は、ちっとも笑わない。
私を見定めるように、冷たい輝きで見つめる。

「良かろう。ならば、君に今一度のチャンスを授けよう」
「チャンス?」
「最早彼には、君の言葉は届かない。だが、彼に会わせてあげよう。それで、もし、彼に言葉が届いたなら、君の願いは叶う。いかがかな?」
「…なんて、悪趣味なの」
「それは、誉め言葉かな?」

薄い唇が、三日月に歪む。
この闇の男が優しくないのは分かっているが、それにしても意地が悪い。
届かない声が届く方法なんて、どのくらいロマンス小説で書き散らかされただろう?
この男は、それを平然と言ってのけている。
嗚呼、だから私は嫌いなのだ。
だけど、断る理由なんて、どこにある?
それすら私には、与えられない。
私は、闇の男を鼻で笑った。

「貴方のこと、やっぱり来世まで呪ってやる」
「この私をかね?それは面白いね」
「嘘つき。そんなの、微塵も貴方の心にないくせに」
「嫌われたものだね。さぁ、魔女よ。そろそろ君の答えを聞こう」

低く囁くこの男に、私はたったひとつ残された答えを口にする。

「死ぬほど憎いけれど、いいわ。私の全てを対価に、あの人の魂を救い出しなさい」
「誰よりも気位の高い魔女よ。その願いを、聞き届けよう」

闇の男は、仰々しくそう私に告げた。
そして彼の手が近づき、私は───