七章§29

時間にして彼女が黙り込んでいたのは、僅かに数秒のことだったろう。
不意に、彼女はルイたちをもう一度だけ見やった、その一瞬だった。
ルイの見えないはずの目と、視線が絡み合ったのである。
ぎょっとして彼女は、目を瞬いた。
その時には、いつも通りにアイマスクで覆われた彼がいるだけで、間違っても目が合うような形ではなかった。
だがそれで、ボニーの気持ちは定まった。
一度深呼吸をして、電話の向こうで待つ部下に答える。

「分かったわ、応援を送りましょう。ただし、全異端管理局からの方にも手伝っていただきます」
『し、しかしボニー局長……』
「これは決定事項よ。不服があるなら、応援は諦めてちょうだい」
『分かり、ました。ではお願いします』

戸惑い気味のまま、彼の応答はそれで終わった。
彼の気持ちは、ボニーにも痛いほど伝わっている。
申し訳ない気持ちと、致し方ない状況に、彼女はもやもやとした気分だった。
だが、こうするしかなかったのだ。
溜息を吐くと、待ち構える二人に向き直った。

「お聞きになっていたでしょうが、ご協力をお願いできますか」
「それはもちろんです。やはり貴方は、お話が分かる方ですね」

ルイが弾んだ声でそう返してきた。
ボニーはそんな男をまじまじと見つめた。
覆い隠された目、普段は決して覗くことのない、その目。
それと確実に彼女は視線が絡んだ。
目が合った、ただそれだけなのに、一瞬で彼女は毛穴という毛穴から冷水を注ぎ込まれたように感じたのだ。
それを平たくいうのなら、恐怖という一言が適切だろう。
そう、彼女はあのとき、見えない視線に恐怖を感じたのだ。
そのせいで、迷っていた判断にも、決着が着いたのではある。
だが、何だか彼に自分の思考を操作されたかのようで、気味が悪い。
まるで、自分が何で決断を渋っているのかを看破し、強制的に諾とするよう仕向けられたかのようだ。
そんなことおくびにも出さないが、代わりに思い切り睨みつけた。

「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「そちらの協力者ですが、一名のみならば許可します。それでいかがですか」

睨んだまま、彼女はルイに条件を突き付けた。
許可したからといって、何もかも許可したわけではない。
彼の思惑通りにさせるつもりはないのだ。

「分かりました、いいでしょう」
「局長、」
「なんです、アンリ。やっとボニー局長が許可してくれたのですよ」
「しかし、」
「アンリ、往生際が悪いですよ。こんなところで対立してどうするのです」

静かにルイに諭され、アンリはぐっと押し黙った。
意外にも副局長は、気持ちだけで動いてしまうような面もあるらしい。
少しボニーが呆気に取られていると、ルイが話の矛先をいきなり彼女に戻した。

「それで受けましょう。ですが、派遣する者はこちらで決めます」
「構いません、仕事をして下さる方なら」
「では決まりです、一時間以内に、二区に向かわせます」
「お願いします」

ボニーが頭を下げると、空気の流れを読み取ったのか、ルイも軽く会釈を返した。
そしてゆっくりとした所作で、彼女の部屋を後にした。
出て行ったあと、彼女は忌々しげに拳を机に叩き付けた。



「アンリ、貴方は何故いつもそう真っ直ぐすぎるのです?」

ボニーの部屋を出た後、ルイは背後のアンリに問い掛けた。
彼が見かけによらず直情的で、怒りの沸点も低いようだと知ったのは、随分昔だ。
今もなおそうなのは、最早直しようもない性格だと、ルイも諦めている。
それでも一言、小言を付け加えずにはいられない。

「私はいつも貴方のためにしか動いていません」
「知っていますよ。ただ、貴方はもう少しでも忍耐力をつけるべきです」
「ですが、あの女の態度は問題です」

淡々と述べる彼は、聞く者は音声ガイダンスか何かと変わらないくらい、平坦な声に聞こえただろう。
だが、彼と長くコミュニケーションを取ってきたルイは、彼が未だに怒っているのが分かった。
それも、全てルイのための怒りであることもだ。
ルイは角を曲がり自局の執務室まで、黙って歩き続けた。
彼が何も言わない間、アンリもまた、口を閉ざして黙々と廊下を進む。

七章§30

やがて部屋の前に辿り着くと、アンリがルイを追い越して扉を押し開けた。
全異端管理局長の執務室は、館内を彩る翡翠・銀・白の三色と同じ配色で、全ての調度品は統一されていた。
隅々まで見てもその色しかないこの部屋は、統一感はあるものの、色そのものに気圧されてしまいそうだった。
ルイはその部屋を真っ直ぐ突き進み、慣れた感覚で机の角を曲がって椅子に腰掛けた。
彼は視覚をなくしてはいるが、代わりに僅かな色の違いを直感的な部分で認識しているらしい。
この部屋がその三色だけなのは、彼なりに空間認識をしやすくするためでもあるのだ。
椅子に座って落ち着いた彼は、机を挟んだ向こうに立つアンリを見上げた。

「彼女が虚勢を張っていられるのも、今のうちです。彼女は大きな間違いを犯しました。何だか分かりますか」
「……、聖裁を止めなかったことですか」
「そうです。条件を出すのなら、彼女は私に聖裁は止めて協力のみせよと言うべきだったのです」

そう言って、ルイは口元を三日月に描いた。
分かっていて彼は、何も言わなかったのである。
ボニーが止めよといえば止めるつもりではいたが、そうでなければ聖裁を決行するつもりだったのだ。
彼女の命令通りに動くつもりなど、最初からなかったのである。
実に楽しそうに笑うルイに対して、アンリは相変わらずの仏頂面だった。
だが、次に口から零れ落ちた声には、怒りは含まれていなかった。

「誰を向かわせますか」
「さて、ボニー局長の電話の内容を聞くに、悪魔以外の闖入者がいるようです。どなたかは分かりませんが、ミュステリオン職員を手こずらせるのですから、それなりに強いのでしょう。空いているのは、誰でしたか?」

にこにこ笑う彼の頭の中を覗くことが出来たのなら、恐らく力付くで誰もが止めただろう。
だが覗くことなど出来ないし、それが出来たとしても、この場に止める者は誰もいなかった。
唯一この場にいるアンリはといえば、彼は覗くことが出来る人間でありながら、止めることをしない。
彼もまた、ルイと同じ思考回路の持ち主なのだ。
二人の男が推し進める計画は、今この時から静かに加速度を増していった。

そんなことは露ほども知らない二人組は、今まさに貴族の屋敷に再突入せんとしていた。

禍々しい雰囲気を醸し出す館、そこを真っ正面からJとマルコスの二人は突入することに決めた。
どうせ襲い掛かってくるのなら、正面から受けて立つことにしたのだ。
砂利道を踏み締める度に、小石がこすれ合う高い音が耳につく。
ざりざりと、悪魔が待ち受ける館へ、黙々と歩みを進める。
門から玄関までそんな距離もないが、一歩踏み出すだけでも心臓が張り裂けそうなほどに誇張する。
こんな風に他の同族の領域に踏み込む真似など、生まれてから一度もマルコスは経験がなかった。
当主となってからも、他の領地のことなど知る由もなかったし、そもそも自分の領地さえまともに統治できていない。
そんなだったから、あの反乱は起きてしまったと、今になってマルコスは思う。
あれを機に、自分の領地は滅茶苦茶だ。
だから、何が起きているかを確かめるために、今ここに自分は立っている。
だが自分のちっぽけな勇気とやらだけでは、立っているだけで精一杯だった。
まるで体と意識が分離したようで、現実感を伴っていないのだ。
なのに、目の前の屋敷はどんどん近付き、とうとう玄関扉にまで辿り着いてしまった。
マルコスの今の心境では、この玄関扉さえ巨大に思えた。

「坊ちゃん、もう一度聞くけど」

扉に手をかけたJが、開く前にマルコスを振り返った。
片方だけ覗く金の目は、先程まであったふざけた雰囲気を消し去っていた。
それが余計に、マルコスの全身に緊張を走らせる。

「後悔しないね?」
「しません、僕が決めたことです」
「……のわりにはかなりガチガチだけど」

こつんとマルコスの頭を指先で小突き、Jは犬歯を零して笑ってみせた。
緊張してしまっていることを見抜かれ、マルコスの心は羞恥に染まった。
もごもごと口の中で呟いていると、吸血鬼は少年の肩に手をおいて琥珀の目を覗き込んだ。
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