五章§37

微かな煙の臭いが玄関ホールを漂っている。
敏感にその臭いに気付き、警戒しつつ階段を駆け下りる。
最後の一段に足を伸ばしたところで、ヤスは素早くその身を石像の裏へ隠した。
直後、空気を裂くような音がホール中に轟いた。

「よぉ、遅かったじゃないか」

にたり、あまりいいとは言えない笑みを顔に広げると、神父は紫煙と共にそう吐き出した。
ぶわっと独特の臭いが、濃厚さを増す。
その臭いの濃さに顔をしかめて、ヤスは嫌そうに石像を盾にして尋ねる。

「何のつもりっすか」
「何の?そりゃ、あの女から貰ったものを返して欲しいからさ」
「……お断りするっすよ」
「そうだろうなぁ……」

依然としてそこから動かぬヤスに、エドが一歩ずつ近付く。
迫り来る神父の足音に、ヤスは耳を研ぎ澄ました。
右手は常に、柄の上に乗せて待ち受ける。

「ヤス、だったな……お前はあの女に騙されているとは思わないのか?」
「何すか急に……」
「考えてもみろ。お前はあの女が裏切ったと思ってたはずだ。だのに、指輪を渡されただけで、簡単に考えを変えるってのか?」
「…………」
「あの女は思いの外狡猾だぜ?お前に指輪を渡して、お前に罪を被せて陥れようって魂胆だ。その証拠に、あの女は俺にとどめを刺さずに逃げて行った……飼い主に密告しに行くため、にっ!?」

咄嗟にエドは身を引いた。
目と鼻の先で、飛び出してきたヤスの白刃が煌めいたためだ。
ひゅうっと口笛を吹き、神父は手に持て余していた銃を構えた。

「おいおい、気が早いお兄さんだな本当に……俺は別にお前とやりたいわけじゃない。ただ、あの女について警告してるだけだ」
「……その口を閉じるっす」
「ははっ、真実を告げられて耳が痛いってか?」
「真実?勘違いも甚だしいっすね。俺が怒ってんのはそんなデタラメな話にじゃないっす」
「じゃあ何に怒ってんだ?」
「あんたがダイナさんを侮辱したってことにっすよ!」

断言した後、ヤスは弾丸の如く剣を突き出した。
流石の彼も驚いたのか、応戦せずにその攻撃を受け流した。
ヤスはその勢いを殺さぬようにして、さっとしゃがみ込むと体を半回転させながら、神父の足を薙ぎ払う。
まともに打撃を食らわぬように、一瞬で判断を下すとエドは飛び下がった。
着地したと同時に空を斬る音が鼓膜を震わせ、彼は銜えた嗜好品を強く噛んだ。
このままでは、自分がシミュレートした内容から誤差が生じて、計画が崩れてしまう。
更に追い討ちをかけてこようとした相手を威嚇するように、動こうとしたヤスの足元目掛けて銃撃。
正に走り出そうとしていた彼の体は、その位置で立ち止まった。
それを確認してから一呼吸置くと、銃は構えたままにして口を開いた。

「そこまで怒ることないだろ?元々あの女は、裏切り者として生きてきたようなもんだ」
「まだそんなことを言うっすか」
「本当だぜこれは。あの女が飼われるまで、何をして生きてきたと思う?」
「知らないっすよ、そんなこと」
「今の俺と同じようなことさ」
「………、は?」

青年の表情が硬く引き締められたものから、僅かに疑問を滲ませるものになった。
エドはにやりと嗤った。

「悪魔にあの女は味方してやがったんだぜ?しかも、ミュステリオンに忍び込んで情報を盗むとんでもない奴だった!そして奴は十六区がなくなったと同時に姿を消し……自分だけ生き延びるっていう、最低な選択肢を選びやがった。分かるか?あの女は、都合が悪くなれば、簡単に何だって裏切る女なんだよ」
「……何であんたが、そんなことを言えるんすか」
「ああ、それは簡単な答えだ」

漆黒の瞳が、何としても真実を見極めようと、細かく揺らいでいる。
その迷いを方向付けるように、あるいはより混乱させるために、神父は紛れもない事実を口にした。

「俺があの女にミュステリオンの秘密を流していたからに、決まってんだろ?」

口元を歪めて、唖然とした彼に紫煙と絶望を吹きかけた。

五章§38

吹きかけられた紫煙と情報を拒絶するかのように、ヤスは顔を横に振った。
今し方聞かされたそれは、自分の中で処理するには些か大きすぎた。
正しいのかどうかを、考えれば考えるほど混乱してくる。
混乱し出すと──そんな思考が、煩わしく愚かに感じてくる。
悩む程の価値あることじゃないだろうと、元々考えるのを苦手としている性分も手伝ってか、ヤスはふと開き直った。
迷った時は、自分の直感を信じる。

「……そうだったとしても、俺はダイナさんを信じるっすよ」

短く息を吐き出し、ヤスは思い定める。
本当か否かなど、分かるわけがない。
だが信じるか否かであれば答えは簡単だ。
そんな彼を愚か者でも見るかのように、エドは鼻を鳴らした。

「どうしてそんなことが言える?あの女はたった今、俺を裏切り、これからお前も裏切ろうとしているのに?」
「ダイナさんは裏切ってない…ただ最初っから、あんたなんかに協力する気がなかっただけっすよ」
「はっ!馬鹿をいえ、そんなわけあるか!」

哄笑を彼は漏らした。
ダイナが最初から協力する気がなかった?
そんな馬鹿げた話、有り得ないのだ。

「俺はあの女に言った。協力しねぇと、アンソニー共々ミュステリオンの地獄にぶち込んでやるってな。あの女は、それはそれはアンソニーが大切だ。最初から協力する気がない?あの女一人で、一体何が出来たというんだ」

そのために、何度もこの館の周りに悪魔たちを送り、妙な気を起こさせないようにしたのだ。
少しでも不審な動きがあれば、彼女の大切なものを奪えるように。
だからたとえ不本意だったとしても、協力せざるを得ない環境に彼女はあったのである。

「あいつはただ、自分にいい方へいい方へ渡り歩き、都合が悪くなりゃお得意の逃走。それの繰り返しだ。しかし馬鹿な女め……逃げたってもう今度は道はねぇ、俺が何もかもバラして終わりだ!」
「……あんた、それでも元諜報員なんすか?」
「……なんだと?」

弧を描いていたエドの目が、凶悪な程につり上がった。
裏切ったとはいえ、自分の仕事を貶されたのに腹が立ったのだろう。
逆にヤスは、迷いを振り切ったような真っ直ぐの瞳を向ける。

「ダイナさん、言ったっすよね?アキさんのこと、殺してないって」
「それが何だ、俺の背後にでも潜んでるってか?」
「アキさん、多分今頃は悪魔を捕まえてると思うっすよ」
「……っ、どういう意味だっ?」

一瞬、顔に驚きが出そうになったが、意識してそれを押さえ込んだ。
こんな男に、心情を悟られるわけにはいかない。
努めてただ不愉快そうな雰囲気を出して、こちらを見てくる男を睨み返す。
だがその努力も虚しく、ヤスの言葉を前に徐々に崩れていく。

「だから、アキさんはあんたが呼んだ悪魔を捕まえて、ミュステリオンに引き渡すって意味っすよ」
「何を馬鹿な……捕まえるなど、あんな人間にっ」
「……ああ、あんた、あっちのアキさんを見てないんすね?」

不可解そうな神父に、ヤスはふと今気が付いたかのように呟いた。
そして、およそ普段の彼には似合わないような、不敵な笑みを顔に刻んだ。

「アキさんが、悪魔如きに負けるわけないじゃないっすか。余裕で勝って、おしまいっすよ」
「そんなふざけた話、あってたまるか!」

勢い良くヤスの話を否定しようとしたが、エドの顔色は僅かに青くなっていた。
口を戦慄かせ、煙草を思わず落としそうになる。
彼の全身が、嘘だと叫んでいた。
だがそんな彼に、優しくそうだと言ってくれる者はいなかった。
ただ純粋に、それでいて残酷な真実を告げる、彼だけがいた。

「ふざけてないっすよ?というかあんた、ミュステリオンなのにアキさんの名前知らないんすか?」
「……は…何の話だ…?」
「だってアキさんは──」
「お前たち、いったい何をしている!」

ヤスが口にしようとしたところで、それはやたら怒りを孕んだ声によって妨げられた。
二人同時に振り向けば、階段の踊場にこの館の主と少女が、めいめいの表情を浮かべて立ち尽くしていた。

五章§39

低く、耐え忍ぶような呻き声が悪魔から聞こえる。
弾が弾けた肩口からは血液が溢れ、見る間に地面を赤色へ染め上げた。
ラズの背が反り返り、苦悶の表情が浮かび上がる。
この特別な弾丸は、体内に残らずただ掠っただけでも、激痛を引き起こすと言われている。
きっと燃え盛る炎がそこで灰となるまで焼き尽くすような痛みが、彼を襲っているのだろう。

(もっとも、俺様には分からないがな)

立ち上がり、アキは銃を仕舞った。
余裕で時間を残して、任務完了だ。
後はどうやって、この悪魔たちをミュステリオンに引き渡すかが問題だった。
未だ痛みの引かぬ左腕では、暫く無茶な動きは出来ないだろう。
とすれば、此処はヤスとダイナを呼ぶべきか。
そんなことを思いながら、切り裂かれ真っ赤な内部を晒す腕を見つめていたが、彼は急に背後を振り返った。
触れただけで切り裂かれそうな殺気が、背中に突き刺さったのだ。
反時計周りに半回転し、その勢いで拳を放とうとして、アキはぴたりと止まった。
そして、視界に入り込んだ風景に、小首を傾げたのだ。

「止めなさい、ミュリエル!!」
「離して、離しておっさん!!」

数メートル先に、それらはいた。
まず一番印象的なのは、今にもアキに飛びかからんばかりの金髪の少女だろう。
両目の下にある小さな星のタトゥーが、何とも印象的な少女だ。
背格好やら話し方やらがどうにも幼さが抜けきらないが、尼僧衣に身を包み、首からロザリオを下げている。
れっきとした、シスターらしい。
そんな少女を、必死に漆黒の僧衣を纏う男が背後から取り押さえていた。
長い髪を後ろで結わえた彼は、口髭の下で歯を食いしばりながら、少女の凶行を引き留めている。
そこまで観察してから、アキはあることに気が付いた。
とっておきの悪戯を思い付いたような、にんまり笑みを浮かべる。

「殲滅後に隠居したと聞いていたのに、まさかまだ現場に出張ってたなんてな……元気そうで何よりだよ、ベニー」
「なっ……何を悠長に…!」

ベニー、と呼ばれて反応したのは、少女を取り押さえる男だ。
この状況を全く無視したような、あまりのアキの暢気さに、怒りとも呆れともつかぬ声音で、神父は叫んだ。
それでもアキは我関せずといった具合で、闇よりの輝度を放つ目を少女に向けた。
今にも食ってかかろうとする少女の様が、アキの過去を懐古させた。

「君だな、俺様に殺気をぶつけたのは?……エリシアみたいな殺気だ」
「えっ?エリシア様みたいって本当に?」

アキがエリシアの名を口にした途端、尖鋭化された殺気は瞬く間に削ぎ落とされた。
アキが大きく頷いてやれば、年相応な笑顔を浮かべ、両手を頬に当ててくねくねと身を捩った。
余程、嬉しかったらしい。
少女を捕まえていた彼はゆっくりと腕を離したが、最早少女がアキに襲いかかることはなかった。
神父は多少疲労を浮かべ溜息を吐いた。

「……よくこいつの弱点が分かったな」
「勘だよ、勘。ベニーは隠居生活が長すぎたから、冴えてないんだろ」
「あのな、隠居、隠居ってさっきから煩いぞ。俺は教育係として表に出てきてないだけだ」
「ベンジャミンが教育係っ?」

にやけていた彼の表情が、一瞬のうちに変化する。
どうにも何とも言えない歯痒さを全面に押し出したような、それである。
依然幸せいっぱいな少女を、憐れみを込めた目で見つめた。

「可哀想に……こんな可愛い子が、こんなむさ苦しい野郎の教育を受けてるなんてっ」
「おい、アキ。いくらなんでも……」
「分かってくれるお兄さん!?ミュリエル、もう一人前なのにこのおっさんのせいで、いつまで経っても子供扱いされて……」
「ミュリエル!!」

アキの一言に激しく賛同したミュリエルに、ベンジャミンが垂れ気味の目を吊り上げた。
それに対してミュリエルは自らの教育係という男へ、べーっと舌を出して見せた。
そんな二人に笑いながら、アキは軽快にベンジャミンの肩を叩いた。

「まぁまぁ、そう怒るなって」
「あのな、そもそもお前が原因だろうが」
「だってベニー、そういうのするの、昔嫌がってたから似合わないなと……ところでだけどさ、お嬢ちゃんがここまでいうんだし、一回任せてみりゃどうだ?」
「は……何だと?」

突然の話の飛躍とアキの提案に、髭の神父は目を丸くした。
桜貝色をした髪の下、悪戯な光を称えるそれが、ウィンクを飛ばしてきた。
ベンジャミンには、それがまるで悪いことの前兆のように思えて、身震いを一つした。

五章§40

そんなベンジャミンの気など露ほど知らず、アキは自由の利く右腕を彼の肩に回した。
思い切り嫌そうな顔が視界に入ったが、あえて無視する。

「だからさ、君たちもあの悪魔を追ってたんだろ?手柄あげる代わりに、俺様の取引に応じてほしいってわけ」

確信したように告げてくる男に、ベンジャミンは何も言えなかった。
ただ渋面を作り、酷く面倒臭そうな声音で。

「……ろくでもないことなら断るぞ」
「こいつら全員、ミュステリオンまで生きたまま連れてって欲しい。あと、君には別件で俺様と行動を。それだけだ」
「……生きたまま、だと?」

ベンジャミンの眉間に皺が刻まれた。
脱走した悪魔は須く殺せ、が彼らミュステリオンにおける暗黙の了解である。
それなのに、生きたままとはいったいどういうつもりなのか。

「そ。君たちの今後のためになるはずだ」
「話が見えん、その取引には応じられない」
「何なら神父エド捕獲まで、でもいい」
「……神父エド?」
「おっさん、エドってまさかあいつじゃない?」

彼の名に、ミュステリオンの二人組は顔を見合わせた。
どうやら、エドについて何らかの情報を持ち合わせているらしい。
そこに関してアキは特に突っ込まず、話を続けた。

「そいつがアンソニーの美術館に潜伏中だ……十六区の手記を狙っている、君にはそれを阻止するため俺様と来てもらいたいんだがな」
「……ったく、仕方がないな」

観念したかのように彼は呟くと、爛々とした眼差しのミュリエルを振り返った。

「ミュリエル、此処はお前に任せる。早急に本部に連絡して」
「もう、言われなくても分かってるってばおっさん!!」
「……ミュリエル、おっさん呼ばわりはよしなさい」
「だってエリシア様もアレックスも、おっさんって呼んでいいって言ったもん!ほら、早く行きなよ」

むぅっと可愛らしい頬を栗鼠みたいに膨らませ、虫でも払うように手を払った。
その仕草とあんまりな暴言に、神父は両頬を引きつらせた。
アキは口角を持ち上げ、それはそれは楽しそうに。

「じゃ、このむさいおっさん借りてくよ?」
「うん、いいよ。なんなら返してくれなくても、ミュリエル困らないもん」
「ほらベニー、快く許可も下りたことだし、行くぞ」
「……どっちが上司なんだか…」

再び酷く落胆したベンジャミンを引きずるようにして、アキは小さなシスターに手を振ると美術館へと歩き出した。
……暫く二人とも口を利かず、やや足早に寂しい道を進む。

「いい新人ちゃんじゃないか、エリシアを手本にしてるのは、ちょっとあれだけど」

ミュリエルの姿が見えなくなった頃、唐突にアキが口を開いた。
ベンジャミンがちらりと横目で見れば、悪戯猫のように彼が笑いかけている。
突き抜けたような青空は、アキの昏い色を帯びた瞳さえ煌めかせるが、今はそれとは違う意味でも煌めいている。
その理由を読み取った神父は、ふんっと鼻を鳴らした。

「だったらお前が戻って来て指導してくれ。お前の分の席くらい、すぐ用意出来るぞ」
「俺様は神父を辞めて儀式屋と永遠を契約したんだぜ、戻れてもアンリ辺りがいい顔しないだろ」
「なら、アンリを追い出せば済むな」
「おいおい、内ゲバなんかはごめんだぞ?」

冗談とも本気とも取れぬ軽口の応酬をした後、ところで、とアキは声を潜めた。

「そっちはどういう了見だ?」
「……、二区からの脱走悪魔を追ってたら、局長が珍しく泳がせろって言ってな。で、今までずっと監視だ。ここ最近、二区からの脱走悪魔が多いから、警戒したんだろう」
「二区か……あそこは革命派だったな?」
「そうだ。ちなみに神父エドは、その区での諜報活動をしている」
「……なるほど、そりゃ簡単に入り込めるってわけか」

軽く頭を縦に振りながら、アキは自分の中に浮かんでいた疑問を解消していく。
どうやらエドが悪魔側に傾倒したのは、その活動が原因だろう。
そうしてアキ一人が納得していると、右隣から視線が突き刺さった。
ベンジャミンがお前も話せと、催促しているのだ。
桜貝色の髪を掻き上げ、悪戯っ子よろしくアキは笑う。

「……それは着いてからの、お楽しみさ」
「何っておい!!待て、アキ!!」

ふざけた返事を問い詰めようとする神父に追いつかれまいと、彼はケラケラ笑いながら複雑な路地を走り抜けた。

五章§41

今やアンソニーの額の血管は、これでもかとばかりに強調され、いつはち切れても不思議ではないくらいだった。
彼がそこまでいきり立つ理由は、次の三つがある。
まず、ヤスが美術品のすぐ側で刀を抜いているのが許せなかった。
次に、この館内で煙草の臭いが充満していることも許せなかった。
そして彼が断トツ許せないのは、その煙を吐き出している人間が、此処にいるということだった。

「ミュステリオン……!」

漆黒の僧衣、銀のロザリオ。
それが示す役職はこの世界にただ一つだ。
温度を持たぬ声音で告げた後、アンソニーは足早に階段を駆け下りるとそのままエドに掴みかかろうとした。
その彼を、ヤスが慌てて引き止めた。
自分の体を盾にしながら、勇立つ彼の両肩を押さえつける。

「アンソニーさん危ないっすよ!!」
「五月蝿い!!私は私の庵に招きもしないミュステリオンの人間がいるのは、耐えられないのだ!」

上等なスーツが皺になるのも構わず、体を捻ってでもアンソニーは進もうとする。
ヤスに比べて遥かに華奢なはずだが、纏う怒りのオーラがそれを補っているため、屈強な戦士にすら見える。
それほどまでに、彼の感情は昂ぶっているのである。

「……お前も大概、気が短いんだなぁ?」

そんな彼の神経を逆撫でるかのように、エドが口を開いた。
振り返ったヤスの目に映ったのは、いつの間にか自信を取り戻したらしい神父である。
唇に迫るほど短くなったそれを吐き捨てて、にたりと笑った。
その行為が、一層アンソニーの胸中は爆発しそうなエネルギーを膨れ上がらせる。

「よくもぬけぬけとそんなことを!」
「まぁまぁ待てよ。今からそんな怒ってたら、次の衝撃に耐えられないぜ?」
「黙れ!これ以上の衝撃なぞないわ!」
「いーや、それがあるんだなぁ……聞くか?お前の可愛い、ダイナちゃんの秘密だ」
「ダイナだと……?」

一瞬にして怒気が体中から抜けてしまったかのような顔で、アンソニーはその名を口にした。
ヤスの腕に掛かる力も弱まったことから、余程アンソニーにとっては予想外だったらしい。

「アンソニーさん、こんな奴の言うこと、構わないで下さいっすよ!!」

それを敏感に感じ取ったヤスは、アンソニーが流されてしまわないように挑発を繰り返すエドを遮ろうと、より大きな声で叫んだ。
だが、館の主の耳には入らなかったようだ。
ただ魅入られたように、エドに彼は視線を注ぐ。
その視線を受けたエドは下卑た笑みを濃厚にし、悪魔の言葉を吐き出した。

「ダイナは俺を此処に招き入れ、十六区の手記を俺に渡す手伝いをしてくれた……だが都合が悪くなったらしく、そこの男に指輪を渡した後どっかに逃げたのさ。お前のとこには……、戻ってなさそうだな。つまりお前も、俺同様に裏切られたんだ」
「………!」

エドの最後の単語に、アンソニーの糸目が見開かれた。
エメラルドよりなお淡い瞳は揺れ動き、彼の全身からは力が抜け落ちた。
咄嗟にヤスが素早く片腕をアンソニーの脇の下に入れて支えていなければ、華奢な体はその場で崩れていただろう。
目に見えて落胆した彼を、エドは嘲笑した。

「ショックだったか?だが悲しむことはないさ……あの女は昔からそうだ。裏切って裏切って、そうやって生きていく!あの女は十六区で生きていたあの頃から、何一つ変わっちゃいない。飼い主のお前すら平気で裏切る、薄汚い最低の生き物なんだよ!」
「…………」
「だがお前も同罪だ。知っていたか知らなかったかはどうだっていい。かつてミュステリオンを裏切った畜生の飼い主、それだけで重罪だ!」
「あんた、いい加減に……!」
「……その程度で、私を脅したつもりか?」

言いたい放題の男に対してぐわっと湧き上がった感情が、すぐ側で聞こえた冷徹な声により沈静化された。
エドに向けていた顔を抱えた人──否、今は自力で起立する彼へ視線を戻すと、表情を何もかも削ぎ落としたその人がいる。
最前まで激怒し、絶望していた面影など全くなく、感情をゼロになるまで締め出したような顔で、静かにエドを見つめていた。
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