微かな煙の臭いが玄関ホールを漂っている。
敏感にその臭いに気付き、警戒しつつ階段を駆け下りる。
最後の一段に足を伸ばしたところで、ヤスは素早くその身を石像の裏へ隠した。
直後、空気を裂くような音がホール中に轟いた。
「よぉ、遅かったじゃないか」
にたり、あまりいいとは言えない笑みを顔に広げると、神父は紫煙と共にそう吐き出した。
ぶわっと独特の臭いが、濃厚さを増す。
その臭いの濃さに顔をしかめて、ヤスは嫌そうに石像を盾にして尋ねる。
「何のつもりっすか」
「何の?そりゃ、あの女から貰ったものを返して欲しいからさ」
「……お断りするっすよ」
「そうだろうなぁ……」
依然としてそこから動かぬヤスに、エドが一歩ずつ近付く。
迫り来る神父の足音に、ヤスは耳を研ぎ澄ました。
右手は常に、柄の上に乗せて待ち受ける。
「ヤス、だったな……お前はあの女に騙されているとは思わないのか?」
「何すか急に……」
「考えてもみろ。お前はあの女が裏切ったと思ってたはずだ。だのに、指輪を渡されただけで、簡単に考えを変えるってのか?」
「…………」
「あの女は思いの外狡猾だぜ?お前に指輪を渡して、お前に罪を被せて陥れようって魂胆だ。その証拠に、あの女は俺にとどめを刺さずに逃げて行った……飼い主に密告しに行くため、にっ!?」
咄嗟にエドは身を引いた。
目と鼻の先で、飛び出してきたヤスの白刃が煌めいたためだ。
ひゅうっと口笛を吹き、神父は手に持て余していた銃を構えた。
「おいおい、気が早いお兄さんだな本当に……俺は別にお前とやりたいわけじゃない。ただ、あの女について警告してるだけだ」
「……その口を閉じるっす」
「ははっ、真実を告げられて耳が痛いってか?」
「真実?勘違いも甚だしいっすね。俺が怒ってんのはそんなデタラメな話にじゃないっす」
「じゃあ何に怒ってんだ?」
「あんたがダイナさんを侮辱したってことにっすよ!」
断言した後、ヤスは弾丸の如く剣を突き出した。
流石の彼も驚いたのか、応戦せずにその攻撃を受け流した。
ヤスはその勢いを殺さぬようにして、さっとしゃがみ込むと体を半回転させながら、神父の足を薙ぎ払う。
まともに打撃を食らわぬように、一瞬で判断を下すとエドは飛び下がった。
着地したと同時に空を斬る音が鼓膜を震わせ、彼は銜えた嗜好品を強く噛んだ。
このままでは、自分がシミュレートした内容から誤差が生じて、計画が崩れてしまう。
更に追い討ちをかけてこようとした相手を威嚇するように、動こうとしたヤスの足元目掛けて銃撃。
正に走り出そうとしていた彼の体は、その位置で立ち止まった。
それを確認してから一呼吸置くと、銃は構えたままにして口を開いた。
「そこまで怒ることないだろ?元々あの女は、裏切り者として生きてきたようなもんだ」
「まだそんなことを言うっすか」
「本当だぜこれは。あの女が飼われるまで、何をして生きてきたと思う?」
「知らないっすよ、そんなこと」
「今の俺と同じようなことさ」
「………、は?」
青年の表情が硬く引き締められたものから、僅かに疑問を滲ませるものになった。
エドはにやりと嗤った。
「悪魔にあの女は味方してやがったんだぜ?しかも、ミュステリオンに忍び込んで情報を盗むとんでもない奴だった!そして奴は十六区がなくなったと同時に姿を消し……自分だけ生き延びるっていう、最低な選択肢を選びやがった。分かるか?あの女は、都合が悪くなれば、簡単に何だって裏切る女なんだよ」
「……何であんたが、そんなことを言えるんすか」
「ああ、それは簡単な答えだ」
漆黒の瞳が、何としても真実を見極めようと、細かく揺らいでいる。
その迷いを方向付けるように、あるいはより混乱させるために、神父は紛れもない事実を口にした。
「俺があの女にミュステリオンの秘密を流していたからに、決まってんだろ?」
口元を歪めて、唖然とした彼に紫煙と絶望を吹きかけた。