それからリヒャルトは女王の身支度を手伝いながら、今朝までに起きた事柄で彼女に伝えるべきことを諳んじた。

「アンソニー様がユリア様への面会を昨日から申し入れられています。如何致しましょうか」
「あら、情報の早い人だこと。……でも駄目よ、あの子が落ち着くまでは、この屋敷に常駐する者以外の接触は、あってはなりません」
「ではアンソニー様へは、お断りのお返事をしておきます……常駐する者のみといいますと、陛下を慕われる彼らも論外、でございますか?」

彼ら、とリヒャルトはワインレッドの軍服に身を包む者たちのことを尋ねる。
女王は首を縦に振った。

「もちろん、その通りですわよ。あれらはユリアにとっては刺激物以外の何物でもなくって?」
「間違いではない、とは思われますが」
「ではリヒャルト、貴方からそのように伝えておいてちょうだい。まだ今日までにあの子に接触した者はいないはずね、だからたった今から万が一、ユリアに彼らが接触した場合、その者には1ヶ月庭掃除を命じるということにしますわ」
「……承知いたしました」

女王の気品溢れる長い髪を梳きながら、リヒャルトはほんの少し彼らを憐れんだ。
だが、そう思いこそすれども、彼女に逆らうことはしない。
最後の一房に櫛を通し終えて、鏡越しにリヒャルトは少し厳しい顔で残りの事柄を伝えた。

「それから、陛下が仰られていた通り、悪魔街で良からぬことが起きているようで、午後から派遣していた者が報告に来るようです」
「そう……」

ふ、とアイスブルーの瞳がかげる。
この数週間、自分の預かり知らぬところで精神世界が乱れている、と女王たる彼女は感じていた。
どうにも、体が怠いのだ。
この感覚は、悪魔街で何かが起こっているに違いないと彼女は踏み、私兵を送り込んだ。
いつものあの野蛮なミュステリオンが執行する聖裁であれば、倦怠感よりも先に苛立ちが心を満たすからだ。
出来るなら外れていて欲しかったのだが、そうでもないらしい。
暗鬱な気持ちを吐息と共に吐き出し、少し心配そうに見つめるリヒャルトと目を合わせた。

「……いいわ、会いましょう。ただし、ユリアに気付かれてはだめ、いいわね」
「御意に」

少しほっとしたように彼は微笑んだ。
そして彼が次の言葉を口にしようとした瞬間、先読みをして女王は口を開いた。

「いらないわ」
「……陛下、まだ私は何も」
「食欲がないのよ、だからいらないの」
「なりません、せめてオートミールだけでも召し上がらないと」

するりとリヒャルトの脇をすり抜けてテラスに向かう女王を、彼にしては珍しく難しい顔で窘める。
が、彼女の耳には入らないようだ。
戸を開け放てば、陽光と朝露に濡れて濃厚な花の香りが、彼女の鼻孔をくすぐる。
それを胸一杯に満たせば、それだけでもう、何も口にしなくていい。
女王はそう思っていたが、白髪の執事は、そうはいかないらしい。
後ろからほんの少し呆れたような溜息が付いて来て、彼女の一歩後ろで立ち止まる。
だが、再度同じ言葉が紡がれるより早く、麗人が口を開いた。

「ねぇ、リヒャルト。貴方はどんな時に、生きていると感じますの?」
「……、私は、陛下のお側にこうしてお仕えしている時に、そう感じます」
「あら、なんていい子の解答ですのそれは。……わたくしはね、リヒャルト。こうしてわたくしの“庭”を眺めて、胸一杯に香りを満たすことがそうよ」

だからね、とビロードのような真紅の髪を靡かせて向き直った彼女の表情に、執事は些か驚いた。
氷のように冷たい彼女の瞳に、寂しい色が浮かび上がっていたからだ。

「あの子にも、そんな何かを見つけてほしいと思いますのよ……、此処にいる間にしっかりと自身と見つめ合って…」
「……、……」

何か言葉を掛けようとして、リヒャルトは上手く口が動かなかった。
この目の前の緋色の麗人の、なんと人を想う心の優しいことか。
その美しい心から生まれた言葉に、悪魔たる自分の卑しい口が何か言葉を重ねてよいはずがない。
暫しその場を沈黙が満たして、それからふっと女王が笑った。

「さぁリヒャルト、貴方、何かすることがあったのではなくて?」
「……、オートミールをお持ちしてよい、ということですね?」
「わたくしの気が変わらぬうちになさいな」
「御意に」

リヒャルトは穏やかに笑うと一礼して、部屋を後にする。
それを見送った女王は、再び自身の庭を見下ろして、ぽつり、と。

「……ユリア、貴女の心に、安寧な時間が訪れますように」

静かに彼女は呟き、長い睫を祈るように伏せた。