五章§44

銃口が向けられた瞬間、アンソニーは死を覚悟した。
此処で下手に避ければ、自分の背後にある美術品に傷が付いてしまう。
それだけは、アンソニーのプライドが決して許さなかった。
美術品が危険に晒されるくらいならば、自分の命が絶たれても構わなかった。
細い目を閉じ、彼はその瞬間を待った。


「絶対、死なせはしませんっ!」


銃声に被せて、耳慣れた声が聞こえた。
はっとしてエメラルドの瞳を開けば、眼前には薄い金髪を携えた彼女の背中が見えた。
その細い体を纏う衣服に、赤い染みが浮かび上がってきた。

「!ダイナ、何をしているっ!?」

銃声が鳴り止みベンジャミンによってエドが地にねじ伏せられた直後、アンソニーは頽れるダイナに駆け寄った。
薄い肩を抱き締め、痛みに震える彼女の顔を覗き込んだ。
自分の肩を力強く抱く人物が、主だと気付いたダイナは、真っ直ぐにアンソニーを見つめた。

「貴方が銃口を向けられたくらいで退かない人だってこと……、知っていましたから…」
「だからって何故自分を……」
「はっ、今更主人に対する評価をあげようって魂胆か?」

せせら笑うようにして、エドの声がホールに木霊した。
揺れ動くダイナの瞳が剣の切っ先のようになり、取り押さえられた神父を睨み付けた。
アンソニーの腕の中からこちらを睨む彼女に、エドは開き直ったかのように高らかな声で話し掛ける。

「何もかも遅い……お前が俺の共犯者として俺を此処に入れたって話したら、お前のご主人様は大層ショックを受けてらっしゃたぞ」
「!!」

ターコイズブルーの瞳から、力が失われた。
ぐらぐらと揺れる視界は、しかしアンソニーを決してそこへ収めることなく、きつく閉ざされた。

「……おい、どういう意味だ?」

それを聞いていたベンジャミンが、エドへ尋ねた。
エドは僅かに顔を横へ向け、割と近い位置にいる神父に答えて見せた。

「此処のセキュリティーの高さは知ってるだろ?部外者はまず入れない……俺が入れたのは、あの女が俺に協力したからだ。もしもあの女が主に俺のことを言っていれば、此処にはいなかった。だが此処にいるということは、あの女は主人を裏切り、俺に協力したということだ」
「ほう……だがそれだけでは、お前が脅したから言えなかっただけかもしれない」
「ああ確かに脅したさ……あの女が何より知られたくない事実でな。あの女は、ダイナは、あの十六区の悪魔どもと連み、ミュステリオンの情報を盗み──」
「もうやめてぇええ!!」

突如ダイナが絶叫して、エドを黙らせようと走りかけた。
だが、その彼女の腕をアンソニーが掴み、強引に抱き留めた。
彼女を抱き留めた相手がアンソニー以外の誰かならば、彼女は相手を殴ってでも行っただろう。
だから彼女は、それ以上力を持っての抵抗はしなかった。

「アンソニー様っ、お願いですから離して下さい!でなければ貴方が……!」
「ダイナ、何も心配することはない。全てもう、分かっていることなのだよ」
「ああそうさ、お前の主人は知った上でお前を飼っていることを認めた。もうこれで、どっちも終わりだ!」

哄笑。そして嘲笑。
手記奪還は失敗したが、最早どうでもいい。
この女さえ道連れに出来れば、エドは満足だった。
先刻、この女の飼い主はミュステリオンが存在を容認していると言ったが、吸血鬼が不安を顕わにしているあたり、はったりだったのだろう。
結局未来は、多少違えど自分の描いた通りだ。
巧くすれば、全てこの女に罪を被せられるかもしれない。
そう勝手な希望を未来へと見出したエドだったが、すぐさま未来はどす黒い口を開けて待ち構えるものとなった。

「一体、誰のことを言っているんだ君は?」
「……は、誰って…あの女、ダイナに決まってんじゃねえか」

何をとぼけたことを、とエドはベンジャミンを見上げた。
だがベンジャミンは至極真剣な顔をし、資料を読み上げるような平坦な声で。

「彼女はアンソニー・ラトゥールと契約を交わした、ただの吸血鬼。君の言う内容に関しては、全くの事実関係に欠ける。そもそもミュステリオン総務局によれば、十六区の残党はいないという報告が出ているが?」

聞かされた内容にあんぐりと口を開けるエドを、ふざけた要素など一切ない眼差しでベンジャミンは見やった。

五章§45

ショートした思考回路が再び戻った時、エドの口をついて出たのは否定する言葉だった。

「そんな馬鹿な!我々諜報局の報告書には確かにあの女が……!」
「十六区崩壊後、数年してその報告がなされた。俺も会議に出席していたから覚えている……ただ単に、そちらの情報が古いのではないか?」
「嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だぁああ!!」
「往生際が悪いぞ、エド。どちらにしろ証拠不十分だ……お前に関する数多の報告で、既に要注意人物として当局からマークされている。例えお前が目撃者だと名乗り出たとしても、そんな奴の証言を真実だと、誰が聞き入れる?」

ぎりっと、より腕を捻り体重をかけてそれ以上口答えさせないようにする。
黙ったところで、呆けたような吸血鬼と何処か安堵した主に、ベンジャミンは顔を向けた。
どうも吸血鬼の様子からして、自分の置かれた立場を理解していなかったらしい。
演技だとすれば、彼女は一流の女優だ。
だがそうではない、彼女はダイナという名のアンソニーと契約した吸血鬼。
──そして廃棄されたデータには、十六区関係者という肩書きもあった吸血鬼だ。
そんなものは、二十年近く前に処分されてしまったが。

「そうですね?」
「……君の言うとおりだ、神父ベンジャミン」

確認を取れば頷き返してきた。
もうこれで退散してもいい気がしたが、ベンジャミンはエドの目の前でもう一押ししておこうと考えた。

「貴方の吸血鬼は、」
「ダイナだ」
「失礼、ダイナはつまり共犯者ではなく、囮になったということで相違ないですね?」
「ああ」
「そうですか……我々に相談して頂ければ、すぐさま動いたというのに」
「……私のミュステリオン嫌いを考慮して、ダイナは自分一人で解決してくれようとしたのだ。ゆえに君たちに頼まず、儀式屋の面々の力を借りた」
「ほう……ダイナ、そうですか?」
「………えぇ、その通りです」

か細い声が、精一杯答えた。
足元のエドが何か言いたそうにしたが、頭を地面に押さえつけて阻止した。
事を荒立てれば、より収拾がつかなくなる。
此処でエドに色々蒸し返されては、面倒で仕方がない。
それに、アンソニーを敵に回す真似だけは避けたいのだ。

「……では結構。私はこれで」
「来たのが、君でよかったよ。神父ベンジャミン」

アンソニーの口元に微かな笑みが浮かぶ。
それを認めると、ベンジャミンはエドに手錠をかけて引っ張り上げた。
引っ張り上げられたエドは、物凄い形相でダイナたちを睨み付けた。
その眼力だけで、死に至らしめるような呪いでもかけられそうだ。
赤茶のその瞳からダイナも、アンソニーも視線を逸らさなかった。
ベンジャミンに急かされて歩き出すまでの間、エドはずっとそのままだった。
入口まで戻ってきた時、アキが腕を組んでそこに立っていた。
にんまり、悪戯猫の笑みを浮かべている。

「アキ、今回の件だが……」
「俺様のことは通りすがりの誰かさんにしといてくれ」
「分かった……感謝している」
「いやいや、こちらこそ。じゃあな、ベニー」
「ああ………、元気でな」

一瞬“またな”と言いかけて、ベンジャミンは思いとどまった。
自分たちミュステリオンと彼は、本来は会ってはいけない。
再会の言葉を口にしては、ならないのだ。
それを感じ取ったのか、アキの笑みが僅かに寂しそうになった。
だがほんの些細な変化で、至近距離にいても分かるか分からないか、そんなものだ。
そんな彼にふっと口角を持ち上げて笑えば、ベンジャミンは美術館から裏切り者と共に出て行った。

「やーっと全部終わったなぁ」

うーんと伸びをして、アキが呟いた。
ゆっくり首を回すと、骨が軋む音がする。
久しぶりにこの体で暴れたからか、そこかしこが何だか古い蝶番のようになってしまった。
まぁいいかと思い、アキはいつの間にかヤスの腕の中にすっぽり収まっている少女を見た。
じっと見つめてくる黒曜石の瞳は、やや警戒の色を宿している。
そういえば別れた時はまだ“アキ”だったから、似てはいるが何処か違う自分を観察しているらしい。
アキは努めて健康的な笑みを浮かべてみせた。

「ユリア、俺様の顔が何か?」
「え!?あ、あの…別に私は……」
「気になるんだろう?何ならもっと間近で」
「アキさん、ユリアちゃんに絡むの止めて下さいっすよ」

困り始めた少女を気遣って、ヤスがその間に割り込んだ。

五章§46

至極邪魔そうな雰囲気を醸しているが、あまり強気に出られないのか、彼の語調を曖昧なものにさせる。
それが分かっているから、アキはにやにやとしながら二人に近付き、ユリアの肩に腕を回した。
そして、俯くユリアの顔を覗き込む。
ユリアの両頬が、さっと林檎色に染まった。

「どう?」
「だーかーら、止めろって言ってるっす!!」
「何?ヤスも俺様の顔が見たいってか?」
「違うっすよ!アキさん、いい加減に……!」
「分かってる分かってるって。相変わらず血の気の多い坊やだなー」
「そんな傷をこさえてくる奴が、言えた台詞じゃないだろう」

悪戯猫のようにからかう男を、冷ややかな言葉が諌める。
重たい溜息を一つ吐いた、アンソニーである。
えー、と大層不満そうな声を上げながら、アキは体ごとそちらに向けた。

「これはアンソニーの言いつけを守ったら、出来ちゃったんだぞ」
「だから何だ?ガキの屁理屈にしか聞こえんな」

ふんっと鼻を鳴らして唖然とする男は無視して、ぱんっと両手を打ち鳴らした。

「ともかく、全て片付いたのだ。感謝はしているぞ」
「何か言い方むかつくなぁ……」
「礼は後日として……とりあえず、一休みしていってくれ。ささやかだが、少しばかりもてなそう」
「ほんとっすか!?やったっすねユリアちゃん!」
「え、えぇ……そうですね」

きらきらした笑顔で同意を求めてきたのっぽの彼に、ユリアは僅かに笑みが硬くなってしまった。
ヤスこそ困らせてるじゃないかとアキがぼやくが、都合よく本人はそれを聞き流した。
さぁ、とアンソニーは皆を階段を上るように促す。
と、そこで背後を彼は振り返った。

「ダイナ、何をしている?君も来なさい」

彼らのずっと後方、ホールのほぼ真ん中に立ち尽くす吸血鬼。
微動だにせず今までずっとその格好のままだったが、傷が痛む訳ではない。
既に銃創は跡形もないのだ。
確かに撃たれたその時は激痛が走ったが、吸血鬼であるため直ぐに傷口は再生されている。
所々裂かれた服だけが、撃たれた事実を物語っていた。
その箇所をじっと見つめていたダイナは、呼ばれたことで何か言いたげな顔を上げた。
アンソニー様とダイナが呼び掛けると、彼の淡いエメラルドの瞳が何だと聞く。
彼女は固唾を飲むと、細かく震える声を絞り出した。

「何故、私を罰されないのですか……?」

不可解そうに、そして何処か悲哀を帯びた声だ。
アンソニーの眉が、ぴくりと動く。
一度は弛んだ空間が、再びきつく張り詰められた。
背を捻っただけだった姿勢から、真っ正面から彼女を見るように体位を転換させた。

「何のことを言っている?」
「ミュステリオンに連行されなかったとはいえ、あの男を此処に招き入れたため貴方を危険な目に遭わせた事実は、消えません」
「……………」
「はっきり言って、貴方を裏切ったも同然の行為です。ですから主人である貴方には、私を罰する権利があります。だのにそんな優しい言葉を私に掛けるなど、主人として示しがつかないのではないですか」
「……やれやれ、君の徹底ぶりには恐れ入ったな」

硬質の声音が、そう呟いた。
半ば感心したようではあるが、それとは裏腹に表情は険しい。
腕組みをし、細い目を閉じると彼は思考を巡らせた。
そして分かった、と声に出すと暗い面持ちの吸血鬼を見据えた。
分かった、とは罰するということだろう。
不安げにユリアはヤスの顔を見たが、こればかりは何も言えないと、彼は見返してきた。
アキも同様に、難しい顔をして成り行きを見守っている。
その口から飛び出す言葉を、様々に予想しながら。
すぅっとアンソニーは息を吸い込み、吐き出すと同時に告げた。

「“ごめんなさい”の一言、それから君の淹れた珈琲を所望する!」

凄まじいまでの糾弾が身を貫くだろうと身構えていたのに、アンソニーはたった六文字の単語と珈琲を淹れるよう怒鳴ったのだ。
これにはダイナのみならず、此処にいた全員が目を丸くした。
そんな面々を余所に、アンソニーは威張るように背を反らせて続けた。

「ふんっ?あまりに恐ろしい罰で言葉も出ないか?」
「……いやそうじゃないだろうよ」

アキが呆然と言葉を零したが、それもまた都合よく流されてしまった。

五章§47

「……何故です、何故それだけでいいなどとおっしゃるんです?」

呆気にとられつつも、何とかそう問いかけた。
ダイナの頭の中は、大混乱だった。
情報があちこちへ飛び、処理が全く追い付かない。
後から後から疑問だけが湧き上がって、何一つ解決へと導かれない。
何故そんな簡単に、謝るだけでいいなどと言えるのだろう。
どうしてこんなに、優しく接してくれるのだろう。
自分はもっと厳しく罰されて、当然のはずなのに。
そんな彼女に、アンソニーはやや面倒そうな表情で、そこまで説明するのか?と呟いた。

「君を信じているからだ」

ターコイズブルーが、際限なく見張られた。
主人が述べたそれが、混乱した頭では素直に受け付けなかった。

“信じている”

何度も何度も、無意味にただそれが繰り返され、そこから先へと思考が進まない。
それに対して言うべきことがあるはずなのに、上手く何も出てきてはくれない。

「……確かに君があの男を此処へ入れてしまったことは残念だったが、それを裏切りとは少しも思っていない。むしろ……私の落ち度だ」
「な、何をおっしゃるのですかっ」
「君がその行動を取ったのは、十六区での過ちをミュステリオンに気付かれたら、私にまで被害が及ぶと考えた結果だろう?」
「………はい」
「ならば君に、その心配はないと伝えねばならなかったのだ、私は」
「?……どういう意味です?」

文章の中で何かが抜け落ちているせいで、全体像が見えてこない。
一部から内容を推し量るのは無理だと判断した彼女は、アンソニーにその意味を問うた。
アンソニーは線で描いたかのような目を、ダイナから逸らすことなく向けて。

「君の十六区に関するデータ全てを削除するようミュステリオンに指示したのは、この私なのだ」
「………え…?」
「君と契約してからすぐにそうしたのだが、完全抹消まで数年を要してしまってな……」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」

主人の発言に、ダイナが待ったをかけた。
どうぞ、とアンソニーが首を傾げてみせた。

「貴方が、指示したのですか?」
「そうだ」
「どうしてそんな……」
「君を、信じているからだ」

もう一度、彼はその言葉を繰り返した。
だがそれだけでダイナが納得できるはずもなかった。
アンソニーは和らいだ表情で、その続きを語る。

「会った日のことを、覚えているね」
「はい、もちろんです」
「ではあの時、どんな顔をしていたかは覚えているかい?」
「それは……いいえ」
「……泣いていたんだ、君は」

ぽつりと、静かにアンソニーの口から零れ落ちる。
訝しむように硬く纏わりついていたダイナの雰囲気が、その一言で剥がれ落ちた。
遠くで見守るユリアたちにも、その変化が感じられた。
館の主は、大切な物を愛おしむような眼差しでダイナを見つめる。

「君の目は獣のように獰猛だった、だがその凶暴さの奥で涙を流し、嫌だと叫んで苦しんでいた」
「…………」
「それを見た瞬間、信じていいと直観した」
「たった、それだけで……?」
「あの男のように、私は未来を視ることは出来ない。だがそんなものがなくとも、人は未来を生きていく。私もそれと同じだ……自分に従ったまでだ」

かつかつ靴音を鳴らし近付くと、ただただ迷子のようにアンソニーを見つめる彼女に微笑む。

「だから十六区での一件も抹消させた。君はもう過去の君ではない、私が全幅の信頼を置くただ一人の助手だ」
「アンソニー様……」
「それを伝え損ねたことが、君をこんなにも追い詰める結果になってしまったな……故に今回の一件は、君が裏切ったとは思わない。ただ、残念に思うだけだ」
「……っ、それは」
「君の完璧主義な性格を考慮すれば、私に黙って一人で遂行しようとするのは百も承知だ。だがもし、事前に私が伝えていたら?……残念だと思ったのは、君に私を信頼してもらう機会を一つなくしてしまったということだよ」

ふっとアンソニーの目が憂うように伏せられた。
反射的に、ダイナは彼の両手を掬うようにして握った。
そして驚いたように見てくる彼から視線を離さないように、強い眼光で。

「そんなことありません!!」

いつもの平静な声音ではなく、力強く明瞭なそれが湿った空気を跳ね飛ばした。

五章§48

霞が晴れるように、ダイナの心は一点の曇りもなくなっていた。
やっと分かったのだ、主の心の内に秘めたものが。
どうしてこうも、気付くのが遅いのだろう。

「私は貴方を心底信頼しています。どうしてたったそれだけで、私が貴方を信じられなくなるというのですか」
「なれば同じこと、君にそのまま同じ言葉を返そう。君だけだ、この館を任せられるのは」

柔らかな眼差しでダイナの視線を受け止めると、包み込まれていた自分の手を緩慢な動作で振り解く。
そして彼女の頭の上に、その手を乗せた。

「だから“ごめんなさい”の一言と、君の淹れた珈琲……それだけでいいと言ったんだ」

きっと間違いなく彼女の方がアンソニーより年上なはずなのに、頭を撫でさすられ言い聞かされるようにしている様は、幼子と変わりない。
ダイナはアンソニーの言葉に深く頷くと、きゅっと口を引き結んだ。

自分の主は、純粋なまでに感情を露わにしてくる。
時に頑なすぎて、融通が利かなくなることもままある。
それをマイナス面として見る輩が多く、アンソニーをただの偏屈なコレクターだと勘違いしてしまう。
だがそれだけでは、アンソニーの本質を理解したことにはならない。
彼は頑なすぎる程に感情をストレートにぶつけるから、その言葉が大きな力を持つ。
迷いのない彼の言葉はいつだって、ダイナを終わりのない暗闇から救い上げて、優しい世界を見せてくれるのだ。
何一つ疑念なく、信じているというアンソニーの想いに、彼女は胸の奥で温もりが広がるのを感じた。

引き結んでいた口を緩め、肺の奥まで息を吸い込んで。

「ごめんなさい、アンソニー様」
「ああ、もうとっくに許しているよ。だから、」
「珈琲ですね、分かっています」
「流石、私の最高の助手だ」

ダイナの頬を一筋の滴が零れ、笑顔と共に弾けた。
それにアンソニーは、満足そうにダイナの頭をもう一度だけ撫でた。


「ホント、変わり者っているもんなんだな」
「……あの二人が、ですか?」

階段に腰を下ろし、成り行きを見守っていたアキが呟いた。
それを拾い上げ問い掛けてきた少女を、眼鏡の奥のアメジストが見つめた。

「そ。普通、飼い主と吸血鬼ってのは、血をやるから言うこと聞け、言うこと聞いてやるから血を寄越せ、っていうような関係なわけさ」
「……確かにあの二人は、そんなじゃないですよね。もっとこう、お互いを大事にしてるっていうか」
「だから変わってるのさ。主従関係じゃなくて、信頼関係で結ばれてるってのがな」
「でも私は、そっちの方がいいです」

アキより下段に居るユリアが笑顔でそう告げると、彼は僅かに目を見開いた。
それから急に、悪戯猫のように両眼を弧に描いた。

「ふぅん……じゃあ、俺様も君と信頼関係を結んだら、もっと近い距離」
「アキさん、傷口抉るっすよ?」

鯉口に手をかけるヤスを見て、おー怖い怖いとアキはおどけた。
それから、何か思い出したのかあっと声を上げると、アキはヤスににんまり笑顔を向けた。

「そうだヤス!騙されてくれて有難うな」
「は……?」
「ダイナちゃんが裏切ったって、ちゃんと騙されたんだろ?」
「………あ、えぇえ!?」

素っ頓狂な声を上げ驚愕した男に、アキはますます卑しい笑顔を深めていく。

「ダイナちゃんから貰ったリング、あれも偽物だぞ」
「え!?って何でアキさんがそんなこと知ってんすか!?」
「俺様が全て指示したからに決まってんだろ?」

さらりとそう言い放ち、更にアキは言葉を続ける。

「ヤスは嘘が苦手だろ?だから計画を伝えるときに、演技しろなんて言ったって出来っこないから、嘘の情報を流させてもらったのさ」
「な……っ!」
「まぁ単純だからやりやすかったぜ。あまりにもタイミングよく動いてくれてたから、俺様の登場も格好良く決められたし」
「あれ、たまたまじゃなかったんすか!?」
「保管室から出たあと、ダイナちゃんは何処に行ったと思う?エドが逃げ出す瞬間を俺様に伝えるべく、監視室とお友達さ。ま、そこまでは俺様の計画通りだったわけだが、エドがアンソニーを撃つのは予想外だったな……」
「アキさん、あんたって人は……!」
「いつまでやってるつもりだ、置いていくぞ」

激昂しかけたところで、アンソニーの冷静な声と視線が二人に突き刺さった。
見れば、アンソニーとダイナ、それにユリアは階段を上りきったところの角を曲がろうとしていた。
それを見たアキはさっと立ち上がると、ヤスに向かってあかんべーをしてから、その集団の後列に加わるべく背を翻した。
一瞬、呆気にとられてそれを見ていたが、すぐさまヤスは文句を口にしながら追い掛けた。

賑やかな一団が遠ざかるにつれ、ホールから少しずつ音が消えていく。
やがて、静かに美術品が眠る吐息のように、閑寂な空間がそこへと横たわった。



To be continued...
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