四章§29

「じゃあ帰ろっか」

うーんと伸びをして、スーツと同色の帽子を被り直すと、サンはそう儀式屋を促した。
ああ、と彼が返事をする前に、魔術師は指をぱちんと鳴らした。

「そうだ、名無しクンで思い出したけど……ユリアちゃん、どうしてるのかなぁ」
「おや……気になるのかい?」

手に持て余したマーガレットを見ながら、儀式屋が僅かに驚いたように言った。
此処へ来る前、その少女が本日出向いた先のことで、彼が憤慨していたからだ。
話題にしようものなら、きっと怒るに違いないと、やや避けていたのである。
しかしサンは怒りを露にすることはなく、ただ少し詰まらなそうな雰囲気で言った。

「そりゃあさ、一人で行ったんだもん。悪いことされてないかな?」
「気になるなら、見に行ったらどうかな?」
「冗談言わないでよ。あの女の庵になんて、世界が滅ばない限り行かないさ」

口をへの字に曲げたと思うと、即座に碧の唇は向きを逆さまにした。
その変化に、儀式屋は眉間に小さく皺を刻む。

「サン……貴方はまさか」
「儀式屋クン、キミが代わりに行ったらいいんだ!」
「……ああ…うん、予想はついていたがね」
「ふふっ、なら好都合。キミも気になるでしょ?行ってあの女とお茶でもしてきなよ」
「その必要はないよ」
「どうしてさ?」

あまりにきっぱりと断言した彼に、サンは不思議そうに首を傾げた。
儀式屋は、珍しく満足げに口角を持ち上げた。

「配置すべき駒は、最初から決まっているからだよ」

一面碧の世界で、儀式屋はただそう魔術師に告げた。




暫く空を見上げた後、女王はもう落ち着いたろう少女へ顔を向けた。

「……だからね、ユリア。わたくしは貴女の言葉を信じることが出来ますの……感謝していますわ、わたくしが知りたかった真実を、伝えてくれたこと」
「えっと……あの、どういたしまして?」

何となく語尾に疑問符が付いたのは、何となくまだ納得がいかないせいだろうか。
そんな反応を返した少女に、リベラルはただ笑みを向けた。
が、それは外部からの不協和音によって、崩れ去ってしまった。
まだ温かみのあった瞳は、それこそ氷柱よりも鋭く冷たい色で、そちらへと視線を向けた。
緩やかなカーブを描いていた口元は引き締められ、紅の麗人から発される雰囲気は、触れれば凍てついてしまいそうな程だった。

「全く……なんて粗暴な…」

艶やかな口唇から吐き出された言葉は、深く憎悪が込められたような響きがあった。
彼女の後方に立つリヒャルトも、女王同様険しい表情になっている。
ユリアはその二人をやや首を傾げて見ていると、それに気付いたリヒャルトが口を開いた。

「聖裁を、ユリア様はご存知でしょうか」
「……えっと、ミュステリオンが現実世界と精神世界の平和のために、悪魔とか吸血鬼の行動の監視…みたいな」

先日、例の事件の後に儀式屋たちから説明されたことを、端折ってそう答えた。
女王は短く頷くと。

「今、それの真っ最中ですわ…わたくしのこの庭園からそう遠くないところに、悪魔街がありますのよ…この時期になると、いつもこれが聞こえてきて、嫌になりますわ」

そう遠くないということに、一瞬にしてユリアは背筋を凍らせた。
話に聞いた聖裁、それが残酷なものだというのを思い出したからだ。
この美しい花々の垣根の向こうで、激しい抗争が繰り広げられているとは、想像出来なかった。
だからこそ、此処から一歩外へ出たそこに広がる光景への、恐ろしさがあった。

紅い麗人はより一層顔をしかめて、何かを破壊する音が聞こえる方を睨み付けた。
彼女にとって、この聖裁は精神世界を傷付ける要因でもあるのだろう。

「わたくしだって、ただミュステリオンが嫌いというわけではありませんわ。彼らは現実世界を守るためにしているのですもの…わたくしと、何も変わりませんわ。でも、その方法というものが、わたくしは許せない」

胸の内に広がる嫌悪感を体の外へ絞り出すように。

「……監視なんて生温いものではありませんわ。現実世界と精神世界の平和のために、なんて大嘘もいいところよ。聖裁は、ミュステリオン全異端管理局のストレス発散……悪魔や吸血鬼たちを、傷付けるだけ傷付けるための、いい口実に過ぎないのですわ」

リベラルはそう言葉を地へ吐いた。

四章§30

流れる音楽は、やや暗鬱な調子へといつの間にかすり変わっていた。
これは、リベラルの心境によって変化するのかもしれない。
そうユリアが調べに耳を傾けていると、幾分語調を緩めて女王が話し掛けた。

「……そういえば、貴女のところの吸血鬼…Jも、聖裁に遭ったそうね」
「!」

突如出たその名に、少女は黒曜石を目一杯広げ、次いで困惑したように視線を向日葵色のスカートへ向けた。
素直に、その名を真正面から受け止めるだけの心構えが、今の少女にはなかったのだ。
その全てを見透かすような力強い瞳から逃れたくて、ユリアは手を握り締めスカートに皺を作った。
周囲を包み込むように、小箱から溢れる不吉な音階に乗せて、リベラルは俯く少女へ。

「ユリアをそんな風にさせるのは、あの吸血鬼のせいね?」
「……、Jさんは、悪くないです」
「そうかしら?でも、ずっと気にしているでしょう?例えば……どうして、ユリアのことを避けるのか」
「……!」

心臓が、大きく跳ねた。
物凄い勢いで全身を駆け巡る流れが、直に伝わってくる。
核心を言い当てられたユリアは、だが何も言い返せず更に強く拳を握った。
うふふ、と女王はそれが分かるのか、笑ってみせた。

「あれは、酷く臆病な生き物よ。意地っ張りの頑固者で、その上嘘吐きで怖がりな臆病者。欠点だらけの彼だけど、それでも心に優しさを持っている……でもこの優しさも、ちょっと捻くれていますの」

ユリアから自らの庭園へと視線を移し、子供にお伽噺をするような調子でリベラルは語る。
テーブルに肘をつき、手の甲に顎を乗せて微かに頭を傾ける。
さらさらと、緋色をしたシルクの髪が下方へ流れ落ちる。

「ねぇ、避けられて貴女は、彼に嫌われたとは思わなかった?」
「……そんなことっ」
「悲しくて、どうして彼が避けるのかも分からなくて、でも誰にも言えなくて。そうじゃなかったのかしら?」

ユリアの隠してきた気持ちを、リベラルは容易に暴いていく。
徐々に核心に迫ってくる問い掛けに、ユリアは為す術がなかった。
今、女王が漫然の笑みで述べている内容が事実なだけに、否定が出来ないのだ。

「そしてユリア、貴女もそんな彼に何を言ったって、何をしたって意味がないと、距離を置き始めているでしょう?」
「それは……!」
「違わない、そうですわね?」
「…………」

答えられず、ユリアは口を固く閉ざした。
それが、無言のうちに肯定を示していることは、誰の目から見ても明らかだった。
リベラルはそんな様子のユリアを目に留めてから、ふとリヒャルトを振り返った。
彼は女王のサファイアよりも澄んだ瞳を見つめ返して、何やら彼女に言い聞かせるように一つ頷く。
それを受けた彼女は、彼に柔和な笑みを送ると、今にも泣きだしそうになっているユリアへ。

「……ユリア、でも悲しむことはありませんのよ。何故ならばこれは、あれがそうなるようにと仕組んだことですもの」
「………え?」

上げた顔は不思議そうで、それより先の説明を待ち構えていた。
それに応えるように、リベラルは口を開いた。

「貴女があれを避けるように、あれはわざとそうしているのよ……貴女は可哀相だけれど、騙されたのね」
「え……な、何で…」
「貴女をあれなりに守るため、かしら」
「守るため……?」

いよいよリベラルの言わんとするところが分からなくなり、ユリアは深く考え込んでしまった。
女王は短くリヒャルト、と名を呼ぶ。
彼女のその一言に含んだ意味を汲み取ると、リヒャルトは一歩前へ歩み出る。
それから思考の深みに沈む少女を引き上げ、答えへ導くように言葉をかけた。

「聖裁における吸血鬼の扱いとは、どのようなものかご存知ですか」
「……吸血鬼の血液を採取する?」
「その目的は?」
「契約者がいる場合、その契約者以外の血液を吸血していないかを確かめるため、でしたか?」
「そうです、では」

と、そこで彼は言葉を区切り。

「契約者以外の血液を吸血していた場合は?」

変わらぬ温かみを持つ琥珀の瞳が、静かに問いを投げ掛けた。

四章§31

──聖裁では、悪魔たちは悪魔街において危険行動をしていないか監察され、あればその場で罰される。
そんな彼らより個体数の低い吸血鬼は、生き残るために精神世界の誰かと契約を結んでいることが多い。
その契約者からの血液を吸血することで、何とか生き長らえているのが現状なのである。
ミュステリオン側は、それで騒ぎを起こさずおとなしくしているのであればと、彼らを生かしている。
吸血鬼は悪魔に比べれば数が少ないため、その気になればすぐ様片付けることも容易だからだ。
そして生かす代わりに、聖裁の際に血液を採取して規則を守っているか確認しているのである。
契約者の血液反応しかなければ、可。
だが、もしもそうでなかった場合は──

「……吸血鬼は、罰されてしまう」
「それから?」
「契約者と、その血液を提供した人も、同じ目に遭わされてしまう…」

罰される──それはつまり、死を意味しているに他ならない。
そしてまた、その吸血鬼の契約者、更にその血液を提供した者をも、同じ様に罰されるのである。
例えそれが、吸血鬼に襲われてしまったため無理矢理だとしても。

「……ユリアは賢い娘だから、もう気付いたでしょう?Jが、貴女を避けている理由」

至極穏やかな口調で、女王はそう切り出した。
吸血鬼の名に、ユリアの小さな肩が反応する。

「貴女を避け続ければ、いずれ貴女自身も彼を避けるようになる。そうしたら、ユリア、貴女を彼が誤って襲って、最悪の事態を引き起こすことはなくなるわ」
「…………」
「捻くれた優しさ…だけど、ユリアを守るためには最良の道ですわね」

彼がユリアを守るために選択した、彼なりの最大限の優しさ。

あの時、もしもユリアの血を飲んでいたら、ユリアも、Jも、そして儀式屋さえもが罪に問われていたのである。
それと同じ過ちを繰り返さないためにも、Jはわざとユリアを遠ざけている。
あまりにも不器用な、優しさ。

「……嫌です」
「何が、」
「そんな風に守られるのは、嫌です!」

きっ、と黒い瞳を真っ直ぐにリベラルへ向けると、ユリアはそう叫んだ。
女王とその後ろに控える執事は、目を見開いた。

「……分かってます、Jさんが私のことを守ろうと必死になってくれてること。それを拒絶したら、Jさんの気持ちを踏み躙ってしまうこと……だけど、一言欲しかったんです…私は、それが受けとめられない程、弱くないのに…」

堰を切ったように、今までひた隠し沈めてきた思いが溢れ出た。

Jは儀式屋に来る以前の記憶を、持ち合わせていない。
そのせいで、時折自分が分からなくなってしまい、酷く不安定になるという。
だから彼は、彼を支え彼の日常を作る今を無くさないために、必死にそれらを守り生きている。
だからミュステリオンと不必要に闘うのも、その不安を払拭してくれて、自分を認識させてくれる相手であるからだ。

“でもね、そんな生き方をするあの子が、私にはどうしても苦しんでるようにしか見えないの……”

鏡に住まう美女は、そんな彼を見てそう言っていた。
彼は“今あるもの”を守るためならば、どれだけ嫌われようが傷つけられようが、全く気に留めてない。
何かを無くすことが怖くて仕方がないのに、自分を壊してしまおうとする。
まるで──死に急ぐような行為。
だからこそ、より自分を生きていると実感出来るのかもしれない。

だがそんな生き方を、一体誰が望んでするのだろう。

「……ならユリア、あれが貴女を避けなくなるようにするには、どうしたら良いか分かるかしら?」
「………どうした、ら……?」
「そう。根本的な問題……だってあれは吸血鬼よ。吸血鬼は、主人の血液しか通常は摂取しない。極度の吸血衝動に陥ったら理性がなくなるけれど、それでも出来るだけ主人を求めて奔走する……この時、何を頼りにしているか、分かるかしら?」

女王が氷の瞳を細めて、尋ねた。

四章§32

リベラルの問いかけに、ユリアはもやもやした気持ちを抱えたまま考える。

吸血鬼が主人以外のを吸血することは、主人のいない吸血鬼を除けば実はあまりない。
彼らはこちらの世界に来てからは、実に慎重に生きるようになった。
不死身に近い生命力を持っていても、それは外部から他者の生命力を取り入れてこそなのである。
だがこの世界にいる人間は限り無く少なく、更に吸血鬼に自らの血液を提供する者は更にいない。
だから契約者が現れたら、その者に彼らは忠実に仕え、裏切ることはしないのである。
他の吸血鬼に自分の主人が襲われれば、結局は自らの首を絞めることとなる。
こうなると、ねずみ算式に自分たちの種を絶やしてしまうこととなる。
それだけはしてはならない、ということが吸血鬼たちの間での暗黙の了解となっている。
そのためにも、彼らは己の主人の血液だけを求めるのだが、この時に間違わないために頼るものは。

「……匂い?」

導きだした答えに、リベラルは満足そうに頷いた。

「そう、彼らは匂いを頼りにしていますわ。彼らは嗅覚がとても鋭いから覚えていて、間違わないようにしていますの。特にJは、あの人のなんていうちょっと変わったものだから、絶対に間違わない自信があったのですわ」

だけどね、と一度言葉を区切る。

「あれは、貴女とあの人の見分けがその時分からなかった。極限状態に陥った時、そこに主人以外の人間がいても彼らは吸血しようとはしない。してしまうのは、意思の弱い吸血鬼ね。じゃああれは意思が弱いのかといえば、そうじゃありませんの。寧ろ強い方ですわね。ならどうしてそうなったのかといえば、」
「私と儀式屋さんの匂いが、同じだったから?」
「その通りですわ」
「……でもリベラルさん、これを変えることは出来ないって、儀式屋さんが言ってたんです」

Jが何故ユリアを襲ったかの理由を聞いたときに教えられた、匂いが同じなのだ、と。
ならそれを変えたらいいとユリアは言ったが、儀式屋は左右に首を振った。

“私は実体を持たない。君も精神体で肉体がない。そうした者は、皆して赤色ではなく銀色の血液を……正確には血液ではないが、持つわけだ。通常の血液ならば、その人間の匂いがあるのだがね、私やユリアのような実体のない者のは、全て同じらしい。だが調べれば、違うらしいがね”
“残念だがユリア、私にはそれが出来ないのだよ。出来なくもないが、それはこの世界のルールに違反してしまうからね……”

(……ルールに、違反?)

儀式屋の言っていたことを思い出していて、ふと今引っ掛かった言葉。

ルールに違反する

その時はこの世界の法律みたいなものかと思っていたが、今は違う、きちんと知っている。
ルールとは、この目の前で優雅に笑う冷めた瞳の持ち主のことだ。
それに気付いたユリアに、女王はくすっと笑った。

「リベラルさん、」
「ねぇユリア、だけど貴女はもうその問題をとっくに解決してしまっていますのよ」
「……は?」

言おうとして、だがリベラルの急な言葉に、ユリアは名前を呼んだまでで発言を中断した。
というより、今、彼女は何と言った?

「あの……今、何と?」
「ユリアはもうその問題について、とっくに解決してしまっていますのよ」

律儀にもう一度繰り返されたが、ユリアの理解が追い付かなかった。
頭がくらくらする、というのが適切な表現だろうか。
つい先程までそれについて悩んでいたのに、もう解決したとは一体どういうことか。

「此処へ来て少ししてから、実はもう解決していましたの。驚きまして?」
「あ……はい…や、でも」
「ルール自らが手を出すことは、問題がないですもの。ね、リヒャルト?」
「陛下……」

白髪の執事に同意を求める女王を、ぼんやりとユリアは見つめながらこの突然の出来事を整理する。
分からないことだらけで、だが、一つだけ確かなことは。

「…もう、Jさんは避けない、の…?」

少女の小さな呟きに、リヒャルトから嗜められていた赤の麗人は、綺麗な微笑を浮かべてみせた。
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