五章§29

ジェイミーの顔に緊張が走った。
自然と三人ともが背中合わせに立ち、それぞれの方角を凝視する。
ジェイミーの足元に残されたのは、銃痕である。
それが示すのは、狙撃されたということだ。
金髪の彼女相手に言ったことがその直後に起こるとは、運が良いというか悪いというか。

「ミュステリオン様のお出まし、ってかぁ?」
「違うと思うが」

ジェイミーの背後に立つラズが、口早に否定した。
痛んだ茶髪の持ち主は、振り返らずにその意味を問う。

「……あのミュステリオンが、わざわざご丁寧にお前の足を狙って撃つかって話だ」
「あー、なるほど!あいつらは俺たちへの愛が強すぎて、すぐに殺そうと頭とか心臓とか狙って来るしな。正にハートを狙い撃ち?みたいな」
「……まぁ愛かどうかは別だが、そういうことだ」

半ば茶化した彼への突っ込みはさて置き、ラズは彼の言葉に頷いた。
彼らミュステリオンに言わせれば、逃げ出した悪魔は殺すのが当然だ。
だとしたら、例え弾道が逸れたとしても、何処かしら体を掠めているはずだ。
だが、今の狙撃は明らかに足元の地面へと放たれた。
ということは、ミュステリオンの人間ではない、という結論に到る。

「じゃあこれは、恥ずかしがり屋なストーカーかな」
「気持ち悪いこと言ってんじゃないよ、あんたは」
「止めろ、ジル。ジェイミー、お前も馬鹿なことばかり言うな」
「俺は至極真面目さ!」

彼がそう断言した時、ジルが動いた。
男二人が反射的にそちらを見ると、ポニーテールの彼女はその場にいなかった。
目を凝らすと、彼女は一瞬のうちに道路を挟んだ向こうの建物へ移動していた。
そして、振り向きざまに大声で。

「行ったよ、そっち!!」

ジルの鋭い声が飛んできたと同時に、何者かの影が素早く近付いてきた。

「!」

その気配にラズがいち早く反応し、二振りのククリナイフを抜き去る。
そして、影が間近となった時、動きを阻止すべく右手のナイフを振り上げた。
即座に、右手に確かな重みを覚え、彼はその先へ視線を向けた。
ククリナイフの刃を、別の刃が押さえつけている。
そのナイフの持ち主を見れば、鮮やかな桜貝色をした頭が視界を覆った。
更にその下、にんまりと昏い瞳が笑う。
一瞬、そのアメジストの闇に、ラズは凍り付いた。

「うぉらあああ!!」

耳元で、ぶぅんと空を切る音がして、ラズの意識は引き戻された。
はっとして見れば、敵はジェイミーの攻撃を避けて後退したところだった。
地面が粉砕され、埃がその場所から立ち上った。
駆けつけたジルが小太刀を握り締め、警戒するように敵へにじり寄る。
ラズも両手の武器を構え直すが、先の感覚がまだ体に纏わりついて、思考の邪魔をする。

(何だ、この感覚は……?)

この自分が怖じ気づいたとでもいうのだろうか。

「……何者だ、お前は?」

気持ち悪い感覚を身体から締め出そうと、俯いている人物に訊ねた。
何処かさっぱりとしない空気の中、その人物はゆっくり顔を上げた。

「何だと思う?」

間違っても良い笑顔とは形容できない、悪戯な笑みがこちらを見た。
ラズはそれをじっと見つめ返すが、先刻感じたそれはなかった。
気のせいだったかと内心溜息を吐いて、このふざけた奴に再度問い掛ける。

「こっちが質問している、それに」
「ラズ、こんな野郎に構うこたぁねぇさ。邪魔くさいし、片付けようじゃねぇか」
「!よせ、この馬鹿っ!!」

ラズの言葉を遮り、ジェイミーは己の武器を振りかざして敵へと襲い掛かった。
モーニングスター最大の武器、それは鎖に繋がれた先の鋭利な突起を球体全体に生やしたヘッドである。
一思いに振り下ろせば、軽傷ではすまない。
だが、このモーニングスターの持ち主が人間であれば、まだ避けられたかもしれない。
操るジェイミーは、悪魔なのだ。
強力な脚力を誇る悪魔は、人間の目には捉えきれない速さを出せる。
つまり、勝敗は既に見えたも同然なのだ。

「──まずは、一匹目」

銃声が四発、男──アキの囁きと共に、ジェイミーの背後で轟いた。

五章§30

「っ、なん…だ…!?」

撃ち込まれたのは、両肩と両膝。
関節を狙って撃たれたため、そのままの体勢を保つことは難しかった。
ジェイミーは必死に体を引き留めようとするが、重力に引きずられるようにして崩れ落ちた。
通常、悪魔の体は再生が早いため、このくらいの傷であれば、一分と掛からず回復する。
だが今は回復するどころか、銃創がまるで発火しているかのような感覚にジェイミーは陥っていた。
ただの銃撃で、こんなことになるだろうか。
地面に滲み出した赤色に、悪魔二人の目が見開かれる。

「何って、悪魔さんたちが唯一この世界で弱い物質の銃弾?」

くるくると銃を回転させジャケットに仕舞うと、アキはさらりと答えた。
唯一弱い物質──即ち“聖水”のことである。
この物質は、その名の通りの水ではない。
精神世界にある特殊な鉱物ではあるが、銀とほぼ同じようなものである。
ただ違うのは、現実世界で採れる銀では依代の悪魔を払う効果しかなく、精神世界の銀は実体に対して効果があるということだ。
これに彼ら悪魔が触れると、火傷のように皮膚が爛れて、彼ら特有の再生能力を遅らせるのである。
この特殊銀を加工して対悪魔への武器が生成される。
今、ジェイミーに向かって撃ち込まれたのはそれの銃弾で、どうりで傷口が再生されないのである。

それだけでも脅威だが、更に有り得ない事態がもう一つあった。
悪魔であるジェイミーを上回る速さで、この男は移動し発砲したのだ。
唇から覗く歯は特に発達していないし、こちらを見る目はアメジスト。
吸血鬼でも悪魔でもない、ただの人間。
そのただの人間が、悪魔を出し抜くなど出来るはずがない。

(一体何者だ、こいつ……!?)

銃創への痛みに耐えるのが精一杯な彼は、ただ自分を地面に縫いつけた男を睨んだ。
その視線を受け、更にその奥の感情を汲み取ったかのように、

「ああ……それで俺様が誰かって話だっけ。答えは分かった?帽子の悪魔」

太い赤のフレームの奥にある双眼がジェイミーから外され、ラズに答えを要求した。
武器は握っておらず、あまつさえ腕組みをしてみせる。
それだけなのに、何か逆らえないものがこちらを威圧するように向かってくる。
不安げな視線を送るジルに、ラズは一度頷いた。
それから、同胞を動けなくした輩を見据える。

「お前は……、人間だ」
「うん、確かに俺様は人間だな」
「だが、ただの人間じゃない」
「じゃあ、なんだろうねー?」

琥珀色の瞳に写り込む彼は、謎掛けを楽しむ悪戯な猫のようだ。
遊ばれているような視線に嫌気がさして、ラズはわざとその問いに答えなかった。

「さぁな……それより、どうしてこんなことをする?」
「こんなこと?」
「何故、ミュステリオンでもない奴が俺たちを攻撃する?」
「んー、それは俺様がサディストだからかな」
「……話になんないよ、こいつ」

傍観していたジルが、呆れたように呟いた。
その彼女の言葉を、すかさずアキは拾い上げる。

「じゃあ殺り合うかい?もっとも、俺様に勝てる自信があればだが」
「あんたっ、あたいを」
「ジル、落ち着け」

今日何度目ともなる彼女を制止する言葉を、ラズは口にした。
ジルの本来の性格からか、こうした挑発に彼女は簡単に乗ってしまう傾向がある。
多少不服そうにしながらも、ジルはそれ以上何も言わなかった。
それを見てから、アキは再び口を開いた。

「君は冷静だなぁ。我を忘れて殺り合った方が、幸せだぞ」
「殺り合うのが幸せだと?笑わせるな、人間め」
「へぇ?なら残酷な真実のが好き?」

すぅっと、アキから表情が引いた。
否、まだ彼の口元は笑っている、笑っているが、あの謎掛け猫の笑みではない。
捕食動物が持つ、獲物をいたぶる時に見せる残酷な笑顔だ。
真正面からそれを受けたラズは、再び得も言われぬような怖気を感じた。
外の陽射しは眩しいくらいなのに、体に纏わりつく空気はいやに冷たい。

「マゾヒスト悪魔、でも俺様はそれすら教えてやらない。何故って俺様は、サディストだからさ」

仕舞い込んだ銃を素早く取り出すと、ジルへ向けて発砲した。

五章§31

銃口が向けられ引き金を引くまでの僅かな時間で、ジルは即座に判断して弾丸を避けた。
避けたその先には、未だ動けぬ状態のジェイミーがいた。
彼はジルと目が合うと、本当に聞こえぬ程の掠れた声で呟いた。

「にげろ」

唖然として、ジルは彼を見つめた。
ジェイミーの普段の性格からして、まずそんなことを口にするはずがないのだ。
何かしらジルは返そうとしたが、からんからん、と軽快な金属音に口を閉ざした。
見れば、ピンク頭の男が空薬莢を捨てた音だ。
次の弾を詰めようとしているが、ラズがそれを阻止するように、ナイフを男に振り下ろす。
男は装填を諦めると、ナイフから逃れるように身を翻した。
それを見ていたジルは、意を決したように閉ざした口を開いた。

「……あたいは、あんたの言うことなんか、大人しく聞いてやれないね」
「!」
「あたいはあたいのやりたいようにするだけだ。文句があるなら、さっさと起き上がってあたいを止めることだね」

ジルは鳩が豆鉄砲を食ったようなジェイミーに笑いかけると、右手に握ったままの小太刀を見下ろした。
ラズは少しでも男の正体を暴こうと対話を試みているが、男はさらさら明かす気はないだろう。
それならばいっそのこと、片付けてしまった方がいい気がする。
何者か吐かせるなら、それからでも遅くない。
この訳も分からぬ男なら、首をはねても話しそうだ。
我ながら残酷な想像に失笑すると、幾分リラックスした気分で小太刀を構えた。
男はラズに対抗すべく、ダガーナイフで応戦している。
ラズとの戦闘に夢中で、こちらに気は回っていない。

「すぱっと見せとくれよ、あんたの赤い血をさ」

ラズとの位置が入れ替わり、男の背がこちらに向く。
その瞬間、ジルは地を蹴ると男の背中をひと思いに切り裂いた。

「っ!?」

だが、刀身はアキの背中に届かなかった。
アキはその場で半回転すると、ラズに回し蹴りを脇腹へ見舞った後、ダガーで小太刀を受け止めた。

「もっと速く動け、じゃなきゃ俺様は斬れないぞ」
「この、馬鹿にして!」

軽く刀を押し付けて間合いを取ると、ジルは混乱する頭を必死に落ち着けようとする。
だがどうしても解せない──先程のスピードは、全力ではなかったにしろ、人間が肉眼で捉えるなど余程でないと無理だ。

「次はこっちから行かせてもらおっかな?」
「え……なにっ!?」

宣言、同時に彼の姿は掻き消えた。
混乱した頭では事態の把握にとてもではないが、追いつけない。
人間より発達した五官を兼ね備えているのに、相手を捉えられない。
ジルがその体を勘で右へ傾けたのは、正に奇跡がもたらした結果だった。
左側面を、身が切れそうなスピードで風と共に何かが掠った。
その正体を見た時、ジルは心臓が止まる思いだった。
ジルの体すれすれに、ダガーを握ったアキの腕が突き出されている。
避けていなければ、ジルの体は背中の肉を抉られていたろう。
だが安心したのも束の間、アキは手中でダガーを逆手に持つと、ジルの腹部目掛けてそれは引かれた。

「う、ぁ!!」

間一髪地に伏せ横転し避けたものの、脇腹を軽く刃先が触れた。
触れた瞬間、熱せられた火箸を柔肌へ直に押し付けられたような感覚が、その一点で爆ぜた。
一点とはいえ、ぶわっと全身の毛穴から汗が噴き出す。
触れただけなのに、こんな恐ろしい目に遭う理由は一つだけ。

「やっぱり聖水って、君たちには毒物なんだ?」

熱を発する箇所を押さえている彼女に、アキは近付きナイフをちらつかせる。
咄嗟に、ジルは痛みに耐えて体勢を立て直し、小太刀を薙ぎ払った。

「この野郎!!」
「やけくそにやったって当たらな……!!」

ジルの攻撃を易々と躱したところで、アキの表情が僅かに崩れた。
ばっと振り向けば、すぐそこにラズが凶器を振り下ろした形で立っていた。
その彼の顔には小さな笑みが浮かんでおり、アキの右肩に出来た裂傷をククリナイフの切っ先で指し示す。

「自分を過大評価しすぎだ」
「それは、やっと殺る気になってくれたってこと?」

浅いながらも確かに出来た傷口に指を這わせ、付着した赤いそれに、彼は口角を上げた。

五章§32

「話しても、通じなさそうだからな」
「俺様の性格だ、諦めろ」

赤く染まった指先を舐め、アキはくつくつと笑った。
アキの意識が完全にジルから逸れ、こちらに向けられたことにラズは安堵した。
あのまま放っておけば、間違いなくジルはジェイミーと同じ状態にされていたろう。
せめて彼女が少しでも回復出来るように、この男をこちらに引きつけておく必要がある。
アキの背後に見える金髪の同胞を盗み見ながら、ラズは解決策を探すべく素早く頭を回転させる。
たった今、アキに傷を負わすことに成功したが、はっきり言えば無茶な戦法を決行したにすぎない。
全力で加速して、斬りつけたのだ。
それでも肩への裂傷だけで、ダメージは決して大きくない。
一つ分かったことは、単身での攻撃は無意味ということだ。

(だとすれば、ジルと共に……)

そう考えを纏めて、如何にして実行に移すかまでを叩き出したところで、ラズは我が目を疑った。
アキの後ろで、小太刀を握り全力で走り来るジルが居たのだ。
止めろ!と声に出す前に、ジルの腕はアキを切り刻もうと振るわれていた。



鞘から白刃を抜き出し、漆黒の僧衣の男に刃を向ける。
出来る限り静かな声で、ヤスは警告した。

「もう一度だけっすよ。その手記を、今すぐ中に戻すっす」
「その警告に、俺は応じられねぇな」

エドのその回答を聞いた途端にヤスの体は動き、手記を持つ腕を斬りつけようと振られた。
ヤスが入口から離れたことにより、室内は再び暗闇に逆戻りする。
朧気な明かりしかない中、エドはにやりと笑い、手記を素早くダイナの方へ投げると白刃を躱した。
間を置かずに剣を握る手に蹴りを放った。
即座にヤスは反応して、その攻撃を受け止めた。

「おい、ダイナ。五分だけそれを仕舞っとけ」
「五分で勝負が着くと思ってるっすか」
「ああ、五分後、お前はこの世から消えなくちゃならねぇんだよ」

反動を付けて離れると、エドはそう未来を決め付けた。
当然、ヤスはその内容に顔をしかめる。

「あんた、あんまり大口叩くと後悔するっすよ」
「ははっ、天下のミュステリオン様にそんな口を利く人間がいるとはな。面白い……俺はエド。ミュステリオン諜報局員だ、冥土のみやげに覚えてけよ」
「……俺はヤスっすよ」

手短にヤスは名乗り、膝を曲げ伸ばした瞬間の力を使って、剣の切っ先を突き出した。
一瞬エドは驚いたように目を開いたが、すぐに卑しい笑みを浮かべる。
僅かに身を逸らし、剣の鍔へ拳を叩き落とした。
バランスを崩し、前につんのめるヤスの襟首を掴み、自分の方へ手繰り寄せる。

「見かけによらず、お前は熱いな?ミュステリオンに入るといいぜ。すぐに使ってもらえる」
「あんたから言われても、全く説得力ないっす、ね!」
「いっ……!!」

ヤスが踵でエドの足の甲を思い切り踏みつけると、襟首を掴む手が離れた。
その瞬間を逃さず、更にヤスは剣の柄を相手の鳩尾に叩き込んだ。
二重の苦痛にエドは意識を持って行かれそうになるが、気力で現実に繋ぎ止めた。
お陰で彼は、ヤスが横へ薙ぎ払った刃を避けることが出来た。

「まぁ、あんたの腕だけは確かみたいっすから、信じてもいいっすけど」
「あーいってぇ……容赦ない確認法だな」
「でも残念ながら、俺は儀式屋の旦那と契約してるっすから、無理っすね」
「……儀式屋だって?」

エドは懐疑的な声を上げた。
何食わぬ顔でヤスは頷く。
俄かに神父は険悪な顔付きになると、今までこの流れをずっと見ていたダイナを睨んだ。
つられてヤスもそちらを見て、えっと思わず声を出しそうになった。
常にクールであまり表情の動かない彼女が、今、狼狽えたように後退りエドから距離を置こうとしている。
その彼女へ大きく一歩を踏み出し、白い手首を強く掴み取った。

「どういうつもりだダイナ!!儀式屋の人間だなんて、聞いてないぞ!」
「………っ」
「俺たち、儀式屋の人間をさっき一人手に掛けたんだぞ、どうなるか分かってんのか!?」
「それは、」
「あんな奴を殺してしまうなんて……!」
「……大丈夫よ。彼は、死んでないわ」
「何が大丈夫だ!奴はお前が…………おい、今、何つった?」

焦燥感が見え隠れするが、それでもダイナはぎこちなく笑って繰り返した。

「彼は、死んでないわ」

五章§33

ダイナの言葉を聞いた途端、神父は彼女を壁に押しつけると、首を絞め上げた。
ダイナの麗貌に、苦悶が浮かび上がる。

「お前……よくも裏切ったな」
「私、は……っ」
「もういい!さっさとあれを開ける鍵を寄越せ。お前をいたぶるのはその後だ」

空いた片手が催促するように、差し出される。
だが、そう易々と渡すつもりはダイナになかった。
微かに涙が浮かぶターコイズブルーの瞳を目一杯吊り上げ、太く絡み付くエドの指を剥がそうと、自分の指を隙間へ差し込もうとする。
本来、彼女も吸血鬼であるから、人間以上の力を持っているのである。
それならば簡単に出来そうに思えるが、エドはミュステリオンの人間である。
悪魔や吸血鬼などと同等に戦えるよう訓練を受けているため、その力はダイナと互角なのだ。
故に、容易くダイナは彼の手から逃げ出せないのである。
それでもこじ開けようと躍起になる彼女へ、神父はより力を込めて絞める。
喉への圧迫が強くなる。
いよいよ呼吸が苦しくなり、脈がどくどくと激しく打つ。
脳へ送られる酸素が少なく、思考が多少霞がかって来た。
これ以上長く絞められては、身が持たない。
流石のダイナも観念したのか、彼女の指がエドの手から離れた。
細い指が指輪をポケットから取り出し、

「ヤス!」

様子を窺っていた長身の彼へと、なんと指輪を力一杯投げたのである。

「え、わわ、わっ!?」
「はや……く、いっ…て!」

呼び掛けられた彼は慌てふためきながらも、飛来物を受け取った。
それを確認する間もなく与えられた指示に、彼は一瞬戸惑ったように彼女を見た。
だが、絞り出すようにして叫ばれたダイナの声と必死な姿から、その意図が分かったのか強く頷き、彼は背を向け走り去った。
ヤスを見送ったあと彼女は、エドに向かって悠然と微笑んで見せた。
それをエドが、黙って許すわけもなかった。
腕に力を込めダイナを床に叩き落とすと、思い切り蹴りを入れた。
何度も何度も重たい音と苦痛の悲鳴が上がり、ダイナは震えながら腹を押さえてくの字に折れ曲がった。
自ら傷付けた彼女を、彼は汚物でも見るような眼差しで見下ろす。

「……次に会うのは、アンソニーと共にお前がミュステリオンの地獄にいる時だ」
「そうやって断言するの…止めた方がいいわよ、エド」
「黙れよ、この寄生虫がっ!」
「づぁ!」

もう一度、エドの爪先がダイナの顔を蹴り上げた。
蹴られたことで口の中が切れたのか、彼女の苺色の唇から真っ赤な血が零れた。
ふんっ、とエドは鼻を鳴らすと踵を返した。
まだまだ彼の中で彼女に対する怒りは収まらない。
もっと辱めを受けさせてやらねば、この腹の底で騒ぎ立てるものを鎮められそうにはない。
しかし、何時までもこうしているわけにもいかないのだ。
苛立ちを隠さず足早にかつかつと数歩進んだその背に、か細いダイナの声が掛かった。

「エド……忘れ物よ」
「あぁ?……くっ!?」

振り向き、彼の赤茶色をした目は恐ろしいものを捉えた。
ダイナの白い手が、見覚えのある銃を握っていたのだ。
そこから発砲された銃弾は、苛立ちで注意力を欠いていた神父の太腿を微かに抉り取った。
ぴりっとした痛みに顔を歪め、その箇所を手で押さえつける。
歯を食いしばり憤怒の形相をダイナへ向けたが、ものの数秒も経たずに不可解なものに変わる。
ダイナが居た場所には、ただエドの銃だけが取り残されている。
どういうことだと頭を捻り、彼女がこの美術館特有の“抜け道”とやらを使い逃げたのだと理解した。
にじり寄り銃を拾うと、エドはにやりと笑った。
ダイナを深追いするつもりはない、どうせ彼女の未来は分かり切っている。
そう思えば自然と彼女への怨恨は消え去り、彼の心を落ち着かせた。
撃たれたことで逆に冷静になり、彼を束縛していた怒りは霧散したのだ。

(それよりも、あの野郎が問題だな……)

出血が止まり次第、指輪と共に逃げた男を追い掛けねば。
ぼんやり光る暗闇に、うっすらとエドの笑顔が浮かんだ。
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