四章§25

リベラルが静かに椅子に座すと、一斉にして辺りの空気が変化した。
目の前に座るその人が放つものが、強烈なほどに周囲に影響を及ぼしているのだ。
それに圧倒されたように呆然としているユリアに、女王はくすっと笑いを漏らした。
それで気付いたのか、ユリアは慌てて居住まいを正した。
それから、相手を労るように、おずおずといった調子で。

「あの……大丈夫、なんですか?」
「えぇ、大丈夫ですわ。わたくし、こんなでもそんな柔じゃないですのよ…リヒャルトが、やけに過保護なだけですわ」

麗人は涼やかな声で答え、背後に控える彼に笑ってみせた。
リヒャルトはほんの少し気まずそうな面持ちになるが、特に何も言わなかった。
リベラルは細く三日月形にした目を置くと、さっとユリアへ視線を返した。

「もうリヒャルトから聞いたでしょうけど……、わたくし、貴女となら大丈夫だと分かっていたの」
「……あの、そのことなんですが…」
「何故わたくしがそう思ったのか…と聞きたいのでしょうね。そうね、不思議でならないでしょう、ね」

リベラルは数回頷き、肩に落ちてきた緋色の髪を払い除けた。
それから、氷の輝きを凝縮した瞳を一度閉じて、ゆっくりとその答えを口にした。

「ユリアと会った理由はね、貴女がこの世界に近いからよ」
「‥‥‥‥‥は‥‥?」

女王から聞かされた答えに、ユリアは文字通り開いた口が塞がらなかった。
全く要領を得ない、のである。
リベラルは、しかし、そんなユリアを笑わなかった。
足りない言葉を、彼女は補っていく。

「言ったでしょう、この精神世界は、デリケートで傷つきやすい、そしてひどく不器用で強かな愛しい人間の内面と同じって。そしてユリア、貴女はその人間の内面そのものですわ」
「………!」

それは、ユリアがその話を聞いたときに頭を掠めた内容だった。
あの時は何も言及されなかったから、すぐに記憶の片隅へ追いやったのだ。

「でも、だからといって、貴女がこの世界そのものというわけじゃない。貴女は貴女、ユリアに他ならないわ。ただちょっと、この世界を他人より感じやすいだけなのですわ」

そこで一呼吸置くと、彼女は自らの庭園に目を遣った。
広く生い茂る、緑の世界。
そこに激しく自己主張する、様々な色の群れ。
それは、確かに彼女が数百年前から守り続けてきたものだ。
だがそれを見る目は、何処となく陰鬱で見下すかのような冷たさを含んでいた。

「わたくしはね、ユリア…この世界の痛みを受け取ることは出来るの。でも、喜びとか幸せとか…そうしたプラスのものは、全く分からない」
「…………」
「だからいつも怖かった…わたくしがしていることが、本当に正しいことなのか分からなかった。逆に世界を傷付けてしまってるんじゃないかとすら、思う時があったわ……」

やや下へと氷の眼差しを向け、はぁ、と重たい溜息をひとつ吐き出した。
その時ユリアは、先の目の意味を何となく理解した。
彼女が自分の全てと引き替えに護って来たこの世界。
世界の苦しみには気付けても、幸せは感じられない。
自分がしていることが、本当に世界のためなのかが、分からないのだ。
いくら愛でても、返ってくるのは悲痛な程に無反応。
そして時としてその身を襲う苦痛は、もしかしたら自分が元凶ではないのか。
だから自らが大切に護っているものも、疑いかかった目で見てしまうのだろう。

「何もなければそれがいい、と頭では理解できているのに、やはり何か形ある反応が欲しかったわ……そして、漸くわたくしは巡り合えたのです」
「……それが、私?」
「そう。貴女が泣いた時、わたくしは何故泣くのか聞いたわ。わたくし、覚悟していましたの。もしかしたらユリアから、恐ろしい言葉を聞かされるかもしれないって。でも違った…貴女は、ユリア、こう答えてくれましたわ。悲しくない、心が温かいと……」

リベラルは胸に手を当てて、ユリアの言葉を心に刻むように復唱した。
そしてあの昏い目ではなく、透き通った冬の空のような瞳で、彼女は笑みを作った。

四章§26

リベラルの凛とした顔の中に顕れた、密やかな喜びの感情。
ユリアは暫く何も言わなかったが、彼女の表情を見ているうちに、突然自分のしたことの重大性に思い至った。
途端に、体の底から震撼した。

彼女はユリアの言葉を、本気で信じ込んでいるのだ。
何故信じられるのかといえば、選択肢がそれしかない故にだ。
ユリアが例え嘘を吐いていたとしても、それを疑うことは出来ない。
彼女には、分からないから。

だから今、目の前で微笑んでいる麗人の表情は、自分の言葉ひとつで容易く絶望のものへと変貌させることも出来るのだ。

(そんなことを……私は…)
「ふふ、貴女は本当に聡い娘なのですわね」

何処かいたずらっ子のような響きで、リベラルは顔を俯かせた少女をそう評した。
え、と弾かれたように、ユリアはそちらを見た。
赤の女王は、テーブルに肘を突き手の甲へ顎を乗せると。

「貴女の言葉が、わたくし自身を左右してしまうと、そう思ったのでしょう?」
「え……あの、私」
「まぁ、正直にお答えになって?わたくし、寧ろ彼が称賛するに値する方だとわかって、嬉しいくらいなのですわ」

彼、とは恐らく儀式屋をさしてのことだ。
その儀式屋が、ユリアを称賛している、とは?

「彼、貴女をとても高く評価していましたわ…賢い娘なのだと。今日会ったのは、それを確かめたかったからでもあるのです……ユリアが予想通りの娘で、ほっとしましたわ」

儀式屋の意外な言葉に、ユリアは知らずのうちに頬を染めた。
リベラルは艶やかな唇の両端を持ち上げると、それでね、と言葉を続けた。

「左右してしまうかもということですけど、貴女に嘘を吐くことなど出来ませんわ」
「……何故ですか」

リベラルの言葉に少女の頬の赤みはすっと引き、代わりにほんの少し、不服そうな顔を作った。
嘘を吐くことは良くないことだが、そんなはっきり言われると、何だか無性に意地を張りたくなってしまったのだ。
それを見透かしたように、絶対零度の瞳がユリアを見つめた。

「此処はね、ユリア。わたくしの庵なのですわ……わたくしが、護り抜くと決めた庭園だから、決して傷つけさせない…例えば、」

言いながら、女王はおもむろに手近にあったティーカップを取り上げた。
それを無感動な眼差しで見つめると、いきなり勢いをつけて腕を後方へ振り上げた。
と、そのままカップは手から離れて宙を踊った。
ユリアは思わず立ち上がり、あっと口を開いているうちに、カップは緩やかな弧を描き、重力に従って下へと落ちていき──

「あ、れ…?」

庭園内の香が、濃密になる。
地面と衝突する直前で、花柄をあしらったカップは消えてしまった。
何処に行ったのか、と辺りをユリアが見回していると、リベラルが仄かに笑いを含んだ声で呼び掛けた。

「お座りなさい、ユリア。カップは此処ですわ」
「え……えぇ…?」

細い白磁器のような指先に、先程彼女が投げたはずのカップが引っ掛かっていた。
事の成り行きを上手く飲み込めていないユリアは、座りながらただただカップを凝視した。
確かに今、カップは女王の手を離れて飛んでいったはずである。
通常ならばそのまま、地にその身を叩きつけ、陶器の欠片に生まれ変わっていたところだ。
なのにその問題のカップは、女王の手中にきちんと存在している。

「この庭園は、破壊や虚偽を全て拒絶するのですわ。だから、このカップは割れないし、貴女は嘘をこの場で吐くことは出来ませんの」

縁をなぞりカップを元の位置へ戻すと、深紅を纏う彼女は言葉をそう締めた。
その彼女の対面にいる少女は、未だ目の前で起きた現象に戸惑いを隠せず、何一つ言わずに固まっていた。
その間に、隙間なく埋め尽くしていた香は、柔らかな風と共に無散していき、微かに漂うそれとなる。
女王は胸一杯にそろそろと香を吸い込むと、燦々と陽の影を落とす空を僅かに仰ぎ見た。

四章§27

「……あはっ、今回はとっても楽しかったな」

久方ぶりに目に入る大量の光に、翡翠の宝石を瞬かせる。
何度かそうしていると、すぐに世界とピントが合う。
一番に視界を支配したのは、瞳と同じ色、それよりなお濃い碧。
その群がる碧の隙間からは、精神世界と変わらない同じ空が現実世界を包んでいた。

「本当にね。珍しい人間だった」

無邪気な子供のように言う魔術師と相対する彼が、闇を引き連れてトンネルから姿を現した。
相変わらず白い能面のような顔には、薄い笑みが刻まれている。
サンは儀式屋を振り返ると、くすくす笑いを漏らした。

「張り切った甲斐があったよねぇ」
「そうだね」
「ねぇ儀式屋クン、彼はいつ、気付くかな?」

早くとっておきの悪戯にかかって欲しくて仕方がないのか、いつになく弾んだ調子でサンは問う。
そうだね、と儀式屋は言葉を繋ぎ、顎に手を当てる。

「賢い人間ならば、もう意味には気付いてるだろうね」
「あ、またそんな悪い答え方をするんだ、キミは」

言葉は非難めいたものだが、サンの表情は決して怒りを形成してはいない。
白いハットを被り直し、サンは翠瞳を弧に描いた。

「彼がそんな賢い人間に、見えるっていうの?」
「……賢ければ、元より貴方に頼ろうとはなかなかしないね」
「ほぅら、それが答えだよ。キミ、最初から彼に期待してなかったでしょ?」
「おやおや、まるで私に心がないみたいな言い方をするのだね」

指を差して確信したように言ってくる魔法使いに、儀式屋は苦笑を禁じえなかった。

「私は期待していなかった訳じゃないよ?……裏切られたがね」
「……つまり、彼が僕との約束を守らないって、思ってたんだね?」
「そうとも。そうであれば、彼はまだ賢い人間でいられたのだよ」
「そうかなぁ?」
「まぁ……、貴方はこういえば、私を人でなしと言うだろうがね、」

一度口を閉じると、彼は緋色の瞳をやや諦めに近い色へ変化させた。
白い魔術師は、その視線を不思議そうに受け止め、言葉の先を促す。

「自分の過去を捨ててまで、他人を生き返らせたいだなんて、正気の沙汰じゃないと私は思うのだよ」
「あはっ、なるほど。うーん、人でなしとは言わないけど、儀式屋クンは人間の情状に無関心すぎるなぁ」

儀式屋の回答に、白い魔術師は唸りながら答えた。
今回の願い──それはある青年が事故で亡くした友人を、生き返らせたいというものだった。
青年は藁にも縋る思いで、この願いを叶えてくれるという魔術師を召喚したのである。
だが、ただ単純に青年は生き返らせたいと願ったわけではなかった。
彼は“自分が過去に戻って、事故をなかったことにする”と言ったのだ。
サンはその願いを承諾し、代わりに彼の生きてきた記録全てを差し出すように命令したのである。

「でも、契約違反したらしたで、キミから罰を与えられるだけじゃないか」
「二度とこんな馬鹿げたことを思いつかなくなる、いい機会だと私は思うがね」
「キミ、普通に返す気ないくせに、よくそんなこと言うよね…やっぱり僕の方が、人間に優しいよ」

洗練された空気に溶けてしまいそうな銀髪を払い除けて、やや馬鹿にしたようなニュアンスを含めて言い返した。
それはどうかな、と儀式屋は元より刻んでいた笑みを広げる。
その嗤いは、この密やかな空間には全く似付かわしくないものだった。

「貴方が彼に渡したもの…彼がその意味に気付いたら、貴方は彼の救世主ではなく災厄になる。そして貴方は、そうなることを望んでいる……これでも貴方が、人間に優しいと断言出来るのかね」
「そうだよぉ?」

儀式屋の刺のある言い方に、サンは自信たっぷりに碧い唇を吊り上げた。
くすくす笑いを漏らし、ひどく愉快そうな声音を以てして、答える。

「ビスケットを一つ食べることで、彼の望む時間に戻れる…でも知ってる?事故をなくそうが、命の刻限は変わらないんだ。だから結局、その友人は別の形で死ぬ。そしてまた彼は時間を戻して、の繰り返し…それで遂に気付くんだ。友人を生き返らすたびに、同時に殺してもいること……可哀想だよね、何度も死の恐怖を味合わされて…そしたら彼は、どうするのかな?ねぇ、何回目で気付くのかな?」

くすくす、くすくす

魔術師の残酷なほど澄んだ笑いが、暗闇のトンネルへと吸い込まれた。

四章§28

ひとしきり笑ったあと、サンは相変わらず薄笑いの彼へ。

「これは、僕からあの子への優しさだよ?人は死ぬってことを、教えてあげただけだもの。でも、僕は彼と契約違反したわけでもないよ。だって彼は、過去に戻りたいだけだもの、ね」
「……やれやれ…まぁ間違いではないのだがね」

切れ長の目を数度瞬かせてから、木々の隙間から差し込む光を見遣った。
きっと、サンと契約を交わしたあの青年は今、それはそれは歓喜に満ちていることだろう。
だが、と儀式屋は光の跡を辿るように視線を下方へ。
その喜びも直ぐ様地に堕ち、手のひらを返して絶望へと変わるのだ。

青年はあの甘菓子の意味に、いつ気付くだろうか?
一度過去に戻るだけならば、そんな“大量にいらない”ことに。
そして気付いたとき、彼はもう一つの絶望に打ちのめされる。

「……過去を差し出すということが、どういうことか理解しているのだろうかね」

契約のために差し出したのは、彼の生きてきた、つまり過去の記録。
今のあの青年には、もうそれがない。
それが意味することは──

「あはっ、分かってないんじゃないかなぁ?」

呑気な声が、儀式屋の呟きに答える。
見れば陽気な魔術師は、何処から現れたのか、ひらひらと舞っている蝶と戯れていた。
指先を蝶の向かう方へと向けて、弾んだ声で続ける。

「僕を頼ってきたあの時、もの凄くやつれてたし。僕の言った意味、ちゃんと分かってなかったと思うよ」
「サン……」
「くすっ、あ、分かったぞぉ?儀式屋クンが、どうして今日はそんなにしつこいのか」

吸い寄せられるように指先へ止まった蝶に笑い掛けながら、白い魔法使いは確信めいた調子で言ってのけた。

「キミ……名無しクンとあの子、同一視してるでしょー?」
「……はて、何のことかな」
「惚けても無駄だよ、だって同じじゃないか……名無しクンもあの子も、過去がないんだもの!」

言われた儀式屋は、しかし何故か薄い笑みを深めた。
最初からそれに気付いてほしかったのか、サンの言葉の先をじっと待っている。

「だからキミは、あの子に裏切って欲しかった。名無しクンと同じことになって欲しくないから……違う?」
「さてね、貴方の推測にお任せするよ……ただし、彼らは同じでありながら異なっているよ」

銀色の髪の向こう、翡翠の瞳が笑う気配を感じながら、儀式屋はその問いかけに曖昧な答えをする。
それから、死人の色をした手で、サンの指に止まる蝶を摘み上げた。

「Jは過去の記憶がなくて、彼は過去の記録がない。つまり、JはJ自身が過去を覚えていないが、あの青年は周囲が彼のことを覚えていないんだ。これは大きな差だよ…きっと、気付いたら生きていられないだろうね」
「あはっ、そっか。そうだよねぇ……なら余計にキミは、あの子に裏切って欲しかったんだ。そんな顔してても、キミは無意味に生を奪うことが好きじゃないもんねぇ」
「そういうことだよ」
「でも、僕は別にどっちでもいいけどね」

ぱっと手を離し、儀式屋は蝶を空中へと解き放った。
解放された蝶はよろよろとしながらも、懸命に羽を羽ばたかせて飛んで行こうとした。
だが、羽ばたいたと同時に、蝶はそこで人生を終えることとなった。

「愉しければ、それで何もかも十分さ」

サンが強く握った手を開くと、もはや二度と飛び立つことのない、蝶だった脱け殻が虚しく地に落ちた。
儀式屋は紅の瞳にその姿を映したが、特に何も言わなかった。
と、その彼の視界に一輪のマーガレットが覆った。

「はい、今回はこれでおしまい。暇潰しに、あの子の動向を観察するのが楽しみだなぁ」
「良かったじゃないか、余興が付いてきて」
「うん、本当にね」

サンからその咲き誇る花を受け取ると、儀式屋はもう一度死骸となったそれを一瞥した。
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