リヒャルトの朝の日課は、庭園の手入れである。
といっても、刈り込んだり水やりをするのではなく、庭園内を隅々まで見て歩き、その日一番美しい花を摘み取り彼の主君の部屋に飾るのだ。
だから今朝も、日々の習慣通りに歩いては、花を摘み取っていたのだ。
すると、そこに見慣れぬ誰かが立っていて、リヒャルトは暫し見つめてから声を掛けた。

「おはようございます、ユリア様」

名を呼べば、まだ寝間着姿のユリアが、あっ、というようにこちらを振り向いた。

「おはようございます、リヒャルトさん」
「珍しいですね、このような時間帯にお出会いするとは」
「ちょっと……目が覚めてしまって」

そう答えるユリアの表情は、あまり冴えてはいない。
こちらに来てから、ずっとそんな面差しの少女に、リヒャルトは琥珀の瞳に僅かに哀れみを滲ませる。
早く目覚めたというより、寝付けなかったのが正しいのだろう。
そうリヒャルトは見当をつけたが、優しい唇からその事実は告げなかった。

「……この庭園は、お気に召されましたか?」
「えぇ、とっても。リベラルさんの、優しい気持ちが満ちてる気がします」

微かにユリアは、目元を和らげて答えた。
何日も過ごす中で、この庭園にいるときだけは、ユリアも少し心が休まるのだ。
その返答に、徐に執事は頷いた。

「この庭園は、陛下が愛されたあの頃の精神世界。陛下の慈しみ、愛しさ、優しさ…そうしたもの、全てを注いでおられます。私も、ここにいると懐かしさが胸に込み上げます」

琥珀の瞳が、庭園を通して此処ではない何処かを見つめている。
その静謐な横顔は、この庭園に相応しいとさえ感じられる。

「……あの、リヒャルトさんは、いつからリベラルさんのお側に?」

不意に、ユリアはそう尋ねた。
いつだったか、リヒャルトが昔は粗暴だったと聞いてから、聞いてみたかったのだ。
……それに、同じように誰かに仕える立場としても。
リヒャルトは摘み取った花を水につけてから、ユリアの問いに答えた。

「もう陛下とお出会いしてから、500年は過ぎたでしょうか」
「500年……」
「……あまりいうことではないのですが、私が陛下に初めてお目にかかったのは、あの方のお命を絶たんがために、この庭園に侵入したことからでした」
「えっ!」

思わず大きな声を少女は上げた。
当然だろう、リヒャルトの普段のイメージからは考えられないのだから。
当の白い執事は、困ったように肩を竦めた。

「私は悪魔ですから、ミュステリオンの次に、陛下の存在が憎くて仕方がなかったのです」
「リベラルさんが、ルールだから、ですか?」
「そうですね。陛下がルールだったがために、それを壊さなくてはならないと、当時の私は……いいえ、私たち悪魔は、思っていたのです」

この世界に閉じ込められた直後、必死に抵抗しようとして、この庭園を襲撃した。
何とかミュステリオンの追手をかわし、辿り着いたのは自分一人だったが、高々女一人ならば容易いと考えた。
だが、“彼女”に出逢ったその時、リヒャルトは誤りに気付いた。

「陛下をこの卑しい目に映した時、私はその刹那、理解してしまったのです。“彼女”は、手を掛けるべき存在ではない、と」

──それは、決して忘れられない真紅の記憶。
夥しい量の花が狂い咲く中で、誰よりも紅いその人が、刃を向けるリヒャルトに問いかける。

“どうした悪魔。わたくしの命を、奪いに来たのであろう”

氷柱よりもなお鋭く冷たい瞳が、リヒャルトを試すように見つめる。
そうだ、自分は“彼女”を殺しに来たのだ。
ミュステリオンは、今や潰すにはあまりに困難な組織となってしまった。
なんせ、あの白い魔法使いがいるのだ、無駄死にする訳にもいくまい。
だから、もうひとつの壁を今のうちに壊さなくてはならない。
ならないのに、紅いその人を前にして、動けない。

“名も知らぬ悪魔よ、怖じ気ついたか”
“……違、う”

やっと出た声も、掠れていて何処かに消えてしまいそうだ。
どうしてだ、どうしてこんなことになっているのだ。
手の届く距離に“彼女”はいる。
その白く細い喉を、掻き切ればいいだけだ。
なのに、いくら力を込めても、腕が動くことはない。
それどころか、足に力が入らず、ゆっくりと膝をついてしまう。
そして琥珀の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていく。

“……俺は、貴女を、殺せない”

「……私は、陛下の御心に激しく感化されてしまったのです。陛下がこの世界をどうしたいのか、その想いが私の頭に直接流れ込んで来て、動けなくなってしまいました」
「それは、どういった…?」
「陛下は、本気でこの世界を愛しておられます。己の全てを犠牲にしてでも、かつての精神世界を守ろうとされている……私たちが思っていたような、単なる独裁者とは違う。陛下を喪うことは、ミュステリオンを更に助長させ、この世界そのものを破壊してしまうことになります」

その説明に、ユリアはかつて女王から聞かされたことを思い出す。
精神世界は、非常にデリケートな世界で、脆く傷つきやすい。
だから、ミュステリオン台頭後すぐに、荒廃した世界へと変わってしまった。
それを見過ごせなかった女王が、己が自由と引き換えに、ルールとして君臨したのだ。

「世界を壊してまで我々悪魔が手に入れるべきものはあるのか、……いいえ、そんなものはありません。壊してしまえば、何も残らない。いつまでも満たされない、ただ空虚な心だけが残るのだと…私はそれを、あの日、思い知らされました」
「それから…ずっと?」
「そうですね。二度と、私のような愚かな悪魔が陛下を傷付けぬように、この命が続く限りお仕えしようと思い、あっという間に500年が過ぎてしまいました」

初老の執事は、僅かに頬を緩ませた。
彼はあっという間にと言ったが、ユリアからすれば途方もなく永遠に近い時間だ。
そんなに時間があったら、逆に死にたくなってしまう。
少なくとも、今の自分からすればそう思う。
ふと、そこでユリアは気になったことを尋ねた。

「あの…皆さんの生きている時間って……」

リヒャルトは今、「命が続く限り」と言った。
それは、いつかは終わりが来るということである。
人として当たり前のことなのだが、この世界にいると、その概念が覆されてしまう。
リヒャルトはさらりと口にしたが、500年なんて、常識的に考えてとても生きられる時間ではない。
『儀式屋』の面々も、よくよく聞けばとんでもなく長い時間を生きている。
それに、Jやらアキは、何度かボロボロになって帰ってきているが、死ぬことがなさそうにも見える。
だが、それでもリヒャルトは、『終わり』が来ると言ったのだ。