「戻るって…何を、言って…」
「ねぇ、覚えてる?剣士クンが、“あの子”と引き換えに、この世界に残ることになったって知った時、速攻で僕を斬りに来たよね」
まるで幼い頃の我が子を思い出すかのような語り口に、ヤスの意識とは関係なく、かつての情景が思い起こされる。
“あの子は、帰してあげたよ。でも、君は帰さない。そういう約束だよ。”
魔術師がさらりと告げた宣告が、一瞬理解できなかった。
一拍おいて、自分は現実世界に帰れないのだと知って、そんな契約を突き付けたサンへ刃を向けた。
悔しくて、悲しくて、恨みがましくて。
そんな負の感情すべてがない交ぜになって、すべての根源たる魔術師を亡き者にして、現実世界に戻ろうとしたのだ。
…だが、実際に魔術師は未だ生きており、自分は不覚にもこの世界に留まっている。
見たくもない現実を直視させられた気がして、ヤスの心がざわつく。
「もう、あの剣士クンが僕ぁ面白くって!!とっても気に入ったから、側に置いてみたりもしたけど、君ってば意思を奪っても僕を殺そうとしてくるから、そこだけが欠点だったんだよねぇ」
「……だったら、戻る必要ないじゃないっすか」
ざわついた心を抑えるように、青年はゆっくりと言葉を紡いだ。
だが、白い魔法使いはそんな配慮にも気付かず、違うよと首を振った。
「欠点だったけど、今に比べたら桁違いに楽しかったなぁ、って思ってるのさ」
「…俺に、命を狙われるのが?」
「うん、そうだよ。言ったでしょ、いい暇潰しになったって」
ぶわっ、と一瞬にしてヤスは、体の芯から突き上げるような憤りを感じた。
この魔法使いは、人が命を賭けて戦ってきたことを、暇潰しになったのだという。
人の努力を、ただの遊びだ、と。
“元の世界に、帰せ!”
誰が好き好んで、こんな世界にいたいと思うのか。
“あの子”を現実世界に帰すために残れというのなら、きっと納得できた。
だけど、そんな約束、サンと結んだ覚えはない。
ただ、“あの子”を帰すために、一つ仕事を頼まれてほしいと、ただそれだけ言われたのだ。
それが、意思を剥奪され、魔法使いが思うままに操られるだなんて、夢にも思わない。
(……冷静に、なれ)
ぐらぐらとマグマのように煮えたぎる胸中を、深呼吸を繰り返して鎮める。
鯉口に掛けていた手を気付き、そっとそこから手を離す。
意識して、ヤスはサンを退けるための言葉を吐き出す。
「残念っすけど、サンさんが言ったように、今の俺は儀式屋の旦那と契約してるっすから」
「そんなもの、無視したらいいのさ。契約してても、物理的に“帰る場所”は自由なんだから」
「……は?」
「儀式屋クンの側にいればいるほど、キミの感覚はダメになるからさ。うん、それがいい!」
子どものように嬉しそうにサンは笑い、茫然としているヤスの手を取る。
だが、儀式屋への悪罵を認識すると、ヤスは目を吊り上げてサンの白い手を払い落とした。
「儀式屋の旦那が悪いなんて、あんた、いい加減にするっすよ」
「あれ?怒ってるの?」
「当たり前じゃないっすか!!」
「ふぅん?」
不思議そうにサンは首を傾げて、ヤスの言葉を吟味しているらしかった。
互いが黙り混んだことでしんと静まり返った室内には、奇妙な空気が占拠している。
歯車がずれて回っているような、そんな気持ちだ。
やがて、何か合点がいったのか、魔法使いが少し哀れんだような声を出した。
「可哀想に…君は、儀式屋クンを信じてるんだね」
「それこそ当たり前っす!!」
「だから、可哀想なんだ。儀式屋クンなんか信じたら、いけないんだよ」
「……、俺が喚んだのは悪かったっす。でも、あんた、本当にどうでもいい話しに来ただけなら、帰ってくださいっす」
でなくば、それこそ本当にサンを斬ってしまいそうだ。
言外にそう含めてみたが、魔術師はそんなことに気付いた様子もなく─あるいは気付いても無視して─言葉を続けた。
「僕なら、ユリアちゃんをあの女のとこになんか、送らないよ。雇い主である自分が守れないなんて言い訳だし」
「…違うっす、旦那がユリアちゃんをあの人のところに行かせたのは、危険から遠ざけるためで、」
「彼は自分の計画のためなら、邪魔者は排除するって考え方なんだよ。つまりは、あの子はいらないってことなのさ」
「違う、旦那はそんなこと思ってない」
「人のココロなんか、どうでもいいって考えてるんだよ」
「違う…違うっ」
どろどろとサンの言葉がまとわりつき、ヤスはそれを振り払うように頭を振って否定する。
これ以上サンの言葉を聞き続けてはいけないと、脳が強い警告を発する。
それなのに、耳を塞いでもつらつらと流れ込み、ヤスの心を揺さぶる。
「自分の願望さえ叶えば、それだけでいいんだよ」
「違う……」
「儀式屋クンにとって、君たちはみーんな、ただの駒、使い捨ての道具なのさ」
毒々しい紫の唇が紡ぐ呪文が、思考の自由を奪っていく。
駄目だ、冷静に考えなくては。
そう頭の片隅で思っていても、もうヤスの中で膨らんだ暗い感情は止められない。
あとほんの少し起爆剤を注がれたら、最悪の事態を迎える。
駄目だ、駄目だ、駄目だ!
「だからさ、儀式屋クンは、ユリアちゃんを捨てたんだよ」
「黙れ魔術師ぃいい!!!!」
鞘に収めたはずの剣を再び抜き去り、電光石火の早業でサンに斬りかかった。
心の器から溢れ出た感情が、大きなうねりとなって暴れる。
その感情に名を付けるならば、儀式屋への侮辱と胸の奥底に沈めていたサンへの憎悪が混ざりあった、どす黒い殺意だ。
冷静な判断が出来たなら、口端を歪め笑うサンに気付いたかもしれない。
しかし今のヤスの目には、その笑いがただの嘲笑として映るばかりで、意味を汲み取ることなど到底出来ない。
ただただ、白い魔法使いへの黒い感情だけがヤスを突き動かす。
その全てを白刃に込めて、サンへと叩き付けた。
「ヤス」
だが、渾身の想いを込めて振り降ろされた剣は、静かな声と共に妨害された。
誰か、と血走った眼で振り向き、茶髪の青年は目を見はった。