七章§17

そんな美女の気持ちを知ってか知らずか、闇色の男はにやりと笑うだけで、何も言わなかった。
今そのことについては言うことはない、とでもいいたげだ。
アリアもそれを感じ取ったのか、じとっとした眼差しで儀式屋を見ていたが、不意にふぅと息を吐き出した。
この男が絶対に語ろうとしないことを語らせようとすれば、何年かけて説得しなくてはならないかを鏡の美女は知っているからだ。
諦めて彼女は、それで?と先を促すように儀式屋に尋ねる。
疑問符を投げ掛けられた彼は、漸く反応を返した。

「それで、とは何かな?」
「だから、私へのお小言はそれくらいなのかしら?」
「小言を私は言った覚えはないのだがね。……もう行くのであれば、くれぐれも見付からないようにしておくれ」
「大丈夫よ、誰も私を捕まえられっこないんだもの」

綺麗にアリアは笑ってみせると、儀式屋は観念したかのように肩を竦ませた。
それは言い換えれば、彼なりの許可の証だ。
有難う、と佳人が礼を述べた時、扉がノックされ、儀式屋が入室を許す言葉をかける前に誰かが入って来た。
この、ノックはすれども無断で入るような真似をするのは、この店に一人だ。

「アキ、もう少し君は礼節というものを学習すべきじゃないかな」
「……悪かった」

ぽつりと、相変わらず生気のない声で、相変わらず光のない目で、アキは謝った。
基本的にアキという男は、礼節だのマナーだのは気にしないため、ノックしただけでも及第点といえよう。
まだ午前中だというのに、既に疲れ切った風体の彼はゆっくり儀式屋に近付いた。
ふらふらと揺れるアキを見つめながら、儀式屋は口を開いた。

「私に用事かね」
「昨日、言ってた、こと」
「ああ、あのことだね」

と言いつつ、彼は背後の美女を振り返った。
途端に、美女は不満そうに儀式屋を見返した。

「何よ、私がいたらお話が進まないのかしら?」
「……いや、構わないのだよ。どうせいつかは君の耳にも入るのだからね。ただ──」

そこまで言って、彼は一度口を噤んだ。
そして、何やら意味ありげな怪しい笑みを浮かべるのである。
そんな儀式屋をアリアは睨み付けて、早く言えと脅す。

「──ただ、聞いたら君が大層怒るだろう、と思ってね」
「あら、怒るのは貴方のためよ」
「やれやれ、怖いお姫様だね。さて、アキ、そういうことだから気にせず話してくれたまえよ」
「分かった。ユリアを亡霊街に、連れてく、話だが、」
「ちょっと待って、ユリアちゃんを亡霊街に連れて行くですって!?」

儀式屋から許可が下りたことで漸くアキは話し始めたが、アリアの素っ頓狂な声に再度遮られてしまった。
アキは数回瞬きをして、不思議そうに首を傾げた。

「そうだが、ダメ、か?」
「アキ君、貴方分かってる?ユリアちゃんは今、あの奥様のところにいるのよ!?」
「うん」
「それを連れて行くだなんて、無謀にもほどがあるわ!しかも亡霊街!儀式屋、貴方も何でそんな悠長に構えちゃってるのよ?」
「おや、聡い君でも分からないこともあるのだね」
「どういう意味よっ」
「私がアキに命令したのだ、ユリアを連れて亡霊街に行くようにね」
「…………………」

さらりと儀式屋が述べた言葉に、アリアは目を回しそうになった。
この男は、まだ二日かそこら前の自分の言動を、もう忘れたとでも言うのか。
もしそうなら、世も末だ。
鏡の美女の顔色が一瞬にしてなくなったのを見て、彼女のそんな思考を儀式屋は読み取ったらしい。

「心配しなくても、私はちゃんと自分が命じたことは覚えているよ」
「ああそう……だったらわざわざ遠ざけたはずのユリアちゃんを連れて行くだなんて、どういうお考えなのかしら?ご教授いただける?」
「ユリアが来た頃に君に話したことを、覚えているかね?」

そう問われて、数ヶ月前の記憶をアリアは引っ張り出した。
ユリアが眠っている時に、儀式屋が話したこと。
俄かに、美女の顔が曇る。

「……ユリアちゃんが、いずれ必要になるって話かしら」
「ああ。つまりその時が、来ているのだよ」
「早すぎるわ、いくら何でも!」

もしアリアが鏡から出られたのなら、儀式屋に掴みかかって今の言葉を放ったに違いない。
そのくらい、彼女の今の声には凄みがかかっていた。

七章§18

深海色の瞳は、今や嵐の真っ只中のように激しい怒りに荒れている。
儀式屋は、決して優しくない。
そんなこと何十年、いや何百年前から知っている。
知っているけれど、それが許容できるかどうかは、別の次元だ。
大抵のことはアリアも許容しているが、今回の一件は見過ごせない。
ユリアがどんな思いでいるのかを、この男は全く考えていない。
それに加え、ユリアは何が起きているのかも知らないし、まだ此処に来て数ヶ月しか経っていないのだ。
そんな少女に、彼は容赦なく現実を突き付ける。
それがたまらなくアリアには許し難いことだった。
しかしどんなにアリアが怒っても、儀式屋は少しも表情を変えなかった。
そうアリアが反論してくるのは、目に見えていたのだろう。
まるで諭すかのような口調で、彼は怒り心頭の美女に答えた。

「これは然るべき未来なのだよ。私があの子を此処に引き留めた時から、決まっているのだ」
「だからって、……儀式屋、亡霊街よ?貴方、あそこのことは一番知っているじゃない」
「知っているからこそ、ユリアが最適なのだ。生身の人間にはあそこは毒だが、あの子は私と同じく実体を持たないから、ラビリンスで何かあっても生きていられる。アリア、君は理性的な思考が出来る女性だ、だから本当は解っているはずだよ」

死者のような顔の中で一際目立つルビーの瞳に見つめられて、アリアはぐっと押し黙った。
儀式屋の言う通り、本当は解っている。
実際アリアは、儀式屋がそう決めたことについては、何も異議を唱えるつもりはない。
異議があったなら、ユリアが連れてこられたあの日に彼女は反対していたはずだ。
それをしなかったということは、儀式屋の考えをアリアは理解したからである。
ただ彼女が気にしているのは、ユリアが理解するためだけの時間の猶予が与えられていないことなのだ。

「……連れて行くって、まさか今すぐじゃないわよね?」

不安げに揺らめく瞳を、今まで黙ったままだったアキに向ける。
昏いアメジストの目が、ふっとアリアの姿に焦点を合わせた。

「それは、まだ。だから、俺は、決めるために、来た」

そうアキは答えると、儀式屋に視線を向けた。
そうだったね、と儀式屋は頷いてみせた。

「“彼女”のところに、ミシェルという男がいるのは知っているね」
「Jの、知り合いか?」
「そうだ。彼がユリアを連れ出す手筈になっている。だが、そう簡単に“彼女”がユリアを手放してはくれないだろうからね。近いうちではあるが、今すぐではないよ」
「なら俺は、それまで、待機?」
「そうだね、代わりにヤスを手伝ってやってほしい。恐らく、厄介な輩が訪問してくると思うからね……どうかな?」
「わかった」

素直に彼は首を縦に振ると、あっさりと踵を返して部屋を出て行った。
残されたアリアは難しい顔をして、儀式屋を睨むように見ている。
それに気付いた儀式屋は、いつもと変わらぬ顔で振り返った。

「さて、何か言いたそうだね」
「……えぇ、そうよ。一言だけ言わせてもらうわ」

普段の彼女には似付かわしくない硬い声で、それでも儀式屋の表情は銅像のようにびくともしない。
そんな彼に、彼女は叩き付けるかのように言葉を告げた。

「行って来ます」

短く、たったそれだけの言葉を告げると、彼女はさっと鏡から消えてしまった。
何かしら文句の一つ二つを期待していた彼は、やや呆気にとられたらしかった。
しかし、それもほんの数秒だ。
口元を押さえると、くっくっと声を押し殺した笑いを零す。
今のはいくらなんでも分かりやすい、いや彼女がわざとそうしたと見るべきだろう。
大筋で認めてくれているのだろうが、何かが気に食わなかったらしい。
多分それは、普通の人間であれば自然と湧き上がるものなのだ。
が、残念ながら儀式屋にそれを求めるのは間違いである。
長年彼と共に過ごしてきた彼女は、それがわかっているのだ。
だから敢えて説明することは試みずに、ああして態度で示すに留まったのだろう。

七章§19

尤も、そうされたとしても、儀式屋の興味の針は少しも振れないのだが。

……笑いを収めた彼は、やがて静かに口を結んだ。
訪れた心地よい静寂に身も心も溶けていきそうな感覚に酔いながら、彼は進み始めた計画に思いを馳せる。
アリアに告げた通り、未来は然るべきように決まっている。
ただその未来が過去に変わるまでの過程は、いくらでも変化する。
その変化次第で、未来が過去になったときの受け止め方も、予想を上回ってくるだろう。

そして魔術師が同じような未来を視ているのなら、彼は必ず手を加えてねじ曲げようとしてくるはずだ。
何しろ自分が視た未来は、魔術師には大層都合が悪いのだ。
どこまで彼は、彼が神となる舞台へ未来を変化させるだろうか。
そしてその時、自分は如何にして神に倒される敵となるのだろう?

「……面白くなりそうだ」

既に自分の持ち駒は手配した、今はそれらがどこまで局面を進めてくれるのかをじっと待つのみだ。
何もない空間を見つめながら幾千ものパターンを思い描いて、儀式屋は静かに口角を持ち上げた。
世界がひっくり返るほど面白いものであればいい、そして願わくば束の間でもそんな夢を見られたらと、彼は背もたれにどっしりと体重を預けて紅い目を閉じた。






──ミュステリオン本部 発掘調査局執務室

ボニーは命令を下した二人が退室したのを見届けると、盛大に溜息をついた。
普段は狐のようにつんとした表情の彼女だが、今日は少し精彩を欠いている。
昨日の事件が起きてから、ほとんど睡眠を取っていないのだ。
現場から上がって来る情報処理に追われ、気が付けば一夜が明けていた。
だが解決の糸口は、一向に見つからないままだった。
机の上には走り書きしたメモや現場の写真があちこちに散乱している。
情報はたくさんあるのに、どれもが断片的で一点に集結することがない。
一見繋がりがあるようで、限りなく近くを通り過ぎるばかりなのだ。
こめかみを揉みほぐしながら、ぼんやりと彼女はそれらを眺め、そのうちの一枚を何とはなしに摘み上げて目を通す。
エド殺害現場を写した写真で、足元に残された文字をピックアップしたものだ。

“秘密を知りすぎた者に、罰を”

これを見つけた時、彼女はある一つの可能性に思い至っていた。
恐らくは、手記に関することだろう、と。
あれは公になるべき物ではない、だがこうなってしまった以上、いつまでも隠し通せるものでもなかろう。
既にエドの死は組織内に広まっているし、このメッセージも同時に尾鰭を付けて噂になりだしている。
そこまで知れ渡っていながら、これは単なる落書きでしたでは済ませられない。
特に、全異端管理局には、だ。
そこでボニーは、知れるのであればと、ある程度情報が集まった段階で、ミュステリオンの最高権力者である総統クロードを訪ねた。
先にクロードに話し、どうすべきかの判断を仰ぐのが無難だと考えたのだ。
そうしてボニーが行動に移せたのは、エドの死体発見から三時間ほどが経過し、日付が変わる頃だった。
あれだけの騒ぎがありながら、館内は静かなものだった。
大きく光を取り込むためにくり抜かれた窓からは、闇夜のベールが入り込もうとしていた。
この世界に、夜に明かりはない。
月が存在しない世界で、窓の外は真っ黒に塗りつぶされている。
目を凝らせば何となく見えるが、無様に出歩く愚か者はまずいない。
そんな世界に一瞥をくれてから、やや小走りになりながら、彼女は総統の部屋の近くまでやって来た。
そこまで来て、ふとボニーは自分が非常識な時間に訪問しようとしているのではないかと思った。
何せ今は真夜中で、規則正しい生活を送る人間ならば、夢の世界に旅立っている頃だ。
自分ですら、たまたま今は緊急事態であるから起きているに過ぎず、通常ならベッドに入っている。
きゅっと唇を引き結び自分のいたらなさに苛立ちながら、ならば明日の朝に出直すべきかと、ボニーが踵を返した時であった。

「ボニー局長、何か?」
「!」

振り返った先に、総統その人がこちらを見ていた。

七章§20

何という偶然だとボニーは跳ねた心臓を落ち着けながら、クロードの質問に答えた。

「閣下、申し訳ございません。火急の用件にて参上仕ったのですが、時間が時間でしたので明朝出直そうかと」
「いや、構わない。妙な時間に目が覚めてしまって散歩していたところだ、急ぎならば益々聞こう」

僅かに彼は猛禽類に似た目元を和らげると、ボニーを追い越して自室へ続く廊下を歩いていく。
一瞬呆けたように彼の真っ直ぐな背中を見つめていたボニーは、慌てて彼を追い掛けた。
そんなあっさりと許可が下りるとは思わなかったのである。
歩いて数分も経たぬうちに、廊下の突き当たりを左に折れた先、彼の部屋へ辿り着いた。
彼の部屋は、パスワードと網膜認証システムを導入した扉により頑丈に守られている。
彼に何かあってはならないための、特別措置だ。
警備を解除する様を見やりながら、ボニーは総統が一人であることに気付いた。
小姓も付けずに、夜間に一人で出歩くとは、一体どうしたことだろう。

「私の睡眠のせいで、わざわざ誰かを伴うわけにもいかないだろう」

ボニーの疑問を察したように、扉を押し開きながらクロードが呟いた。
一瞬、自分がそんな雰囲気か何かを醸し出してしまったかとひやりとするが、そうではないらしい。
彼女を中へ促しながら、彼は言ったのだ。

「だから火急の用件のために、こんな夜更けに女性が一人歩きをしていることは、目を瞑るとしよう」

暗にそれは、自分が本来ならばしてはならぬことをしているのを、見逃せと言っているのである。
クロードの声に、悪戯っ子のような響きが隠っているのが、その証拠だろう。
総統らしからぬ言い訳に、思わず吹き出しそうになるのを口角を持ち上げる程度に押さえ、彼女ははいと頷いた。
クロードも微笑を返すと、さて、と話を切り替えるための単語を口にした。

「用件が何か聞こう。ああ、ボニー局長、君もソファに座りたまえ」

立ったまま話そうとしていた彼女を、落ち着いたモスグリーンのソファに腰掛けるよう彼は告げる。
総統直々からの勧めを無下にもできず、ボニーは失礼しますと断ってから座した。
同じ目線になったことで、背筋をぴんと張ってボニーは話し出した。

「単刀直入に申し上げます。尋問にかけていた神父エド及び悪魔たちが殺害されてしまい、監視役の職員たちも同じく殺害されてしまったのです」
「なんと……」

流石に総統ともなると大袈裟なリアクションなどはなく、感嘆詞と共に目が少し見開かれた程度だ。
ボニーは更に言葉を重ね、状況説明をする。

「現在判明しているのは、犯人は不明であるが、ミュステリオンの地獄にその時居合わせた者ではないこと、またその全てが死んでいることと、謎のメッセージだけです」
「メッセージ?」
「“秘密を知りすぎた者に、罰を”と…」

エドが事切れて椅子に縛り付けられている写真を、綺麗に磨き上げられたテーブルの上に置いた。
それをクロードは手に取ると、真剣な眼差しで見詰める。
彼はどう思うのだろうか、ボニーは丹念に見詰める彼を見守りながら膝の上で拳を握った。
冷静に向き合ってはいるが、実は自分たちが話している内容は、とんでもないことなのだ。
この事件を巻き起こした犯人であるエドが死んだということは、この事件の背後にある“何か”の証人がいなくなったということである。
あの忌々しい全異端管理局長の言葉を信じるのならば、悪魔街には何らかの共通認識があるようで、ともかく何処かの区を潰すのだけは避けなくてはならないらしい。
それが意味するところが何かまでは、ボニーには判じかねた。
だが、その結果何に結び付くかだけは分かっていた。

「ボニー局長、秘密とは何だと思う?」

ふっと名を呼ばれ、いつの間にか自分の靴先を見つめていた彼女は顔を上げた。
次いで尋ねられた質問に、やはりか、と内心確信する。
秘密といわれ、それに興味を抱かない人間はそうそういない。
しかしボニーは、素直に答えることはなかった。
ほんの少し困惑したように眉を寄せてみせた。
総統がどんな考えを持ったのかを、探るためだ。

「……秘密、ですか」
「ああ。私は、手記に関する何か、ではないかと思うのだが」
「何故、でしょうか?」
「君は、紛失したという報告書に、少なくとも一度は目を通しているはず。その上でアンソニーの館に君は送った、何故なら彼の館ほど安全な場所はないからだ。つまり、君はあれが大勢の目に触れては危険だと、それほどの秘密が含まれていると分かっていたのだろう」

鷹のように獲物を狙う目が、彼女の胸中を見透かすかのように突き刺さる。
どうやら総統は、ボニーが考え事をしている間に、そこまで辿り着いたらしい。
この人に一度相談に訪れたことは間違いではなかったと、ボニーは得心した。
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