四章§04

静寂──。

聞こえていた時計の音さえも、掻き消えた。
だが、ユリアはその事象を気に留めることが、出来なかった。
目の前の、闇の化身のようなその人に、意識がすべて持っていかれていたからだ。

「まだ喚くのかと、聞いたんだよ」

胸倉を掴まれ、凄まれているのは儀式屋のはずなのに、そうした威圧をものともしていない。
それどころか、それをJへと跳ね返してしまっている。
返された本人は、思い切り目を見開いたまま、微動だにしなかった。

「…君は、一度私の依頼を断っている。なのに、その後に異議を唱えるのは、どういう了見かな?」
「……それは、」
「どうせ答えられまい?特に、“今の君”ならば尚更にね」
「……っ」

それまで真っ直ぐに儀式屋に向いていたツートーンの頭が、やや下に傾いだ。
ユリアからは見えなかったが、Jが悔しそうな顔をしているのは、それで容易に想像できた。

(儀式屋さんを止めなきゃ…Jさんがまた、傷ついちゃう!)

でも──、

(私が、する必要があるの?)

ふと、頭の中を過る声に、ユリアは口籠もってしまった。

──自分が、何か言ったところで、何が変わるというのだろうか。

つい先日起きた“事故”は、少女の中で大きな塊として、未だに胸の中に居座っていた。
Jが吸血鬼だったことを目の当たりにし、そして拒絶の声も届かず襲われかけたあの日。
それは、確かにユリアの中で恐怖の塊だった。
だがこうなってしまったのは、自分の血液が原因であり、何よりJは瀕死の状態だったのだから、彼を責めるのはお門違いだ。
というよりも、そのくらいで責めるなど、ユリアには到底出来なかった。
Jが“J”である理由、そして正体を黙していた訳を聞かされ、ユリアはどうしようもなく悲しかったのだ。
だから、伝えようと思った──私は、決してJが思うほど弱くなんかないのだ。と。

だが、それをユリアは未だに言い出せてはいなかった。

事件のあった翌日、Jはいつもと変わらない、少しふざけた笑みを引っ提げて現れた。
それを見たユリアは、温かな感情に心を包まれた。
もしも彼が気に病んで来なかったら、どうしようと不安に思っていたのだ。
それが外れたことに、少女は密やかに喜んでいた。

だがその喜びはほんの束の間であり、ユリアの内に秘めた杞憂は更に悪化した形で現れた。

気付いたのは、Jと二人きりになった時だった。
流石に、人前で彼に伝えるのは、やや恥ずかしかった。
だからこの限られた時間のうちに、ユリアは伝えてしまおうと考えた。
ところが、ユリアが彼を呼ぼうとするより早く、Jはこちらへ背を向けたままアリアが呼んでいたと告げてきた。
そこでユリアは美女のもとへ行ったのだが、彼女は呼んでいない、と返してきたのだ。
ユリアは首を傾げながら、先に戻っていたヤスと談笑していたJにことの次第を告げた。
すると彼は、勘違いだった、と言ってきた。
その時はそれで丸く収まったのだが、それ以降、二三回立て続けに同じことが起きた。

そしてある時、ユリアは、それがJの細やかな拒絶なのだと理解した。
Jが、周りには分からない程度に、自分を遠ざけているのだ。
……胸が張り裂けそうだった。
どうして他のみんなには以前と変わらない態度なのに、自分だけを避けているのだろう。
まだ、あの時のことを引きずっているのだろうか?
だとしたら、今すぐにその誤解を解かなければならないのに!

誰かにこのことをユリアは言いたかったが、言えなかった。
言ってしまえば気持ちは楽になるだろう。
しかし同時に、二度とJが店に来なくなる予感があった。
何故ならこのことは店の雰囲気を壊し兼ねない──ひいては、儀式屋に迷惑をかけることとなる可能性があるからだ。
それは、全てを捧げた自分が決してしてはならないことだと、ユリアは悟っていた。
そしてまた、もし言ったなら、J自らが原因だと言っていなくなってしまいかねない。
だから、誰にも打ち明けなかった。

たとえ──Jがそれさえも考慮した上でやったのだとしても。

四章§05

そんな状態が一週間続き、今朝ミーティングが終わってすぐ、二人揃って儀式屋に引き止められた。
もしかして、とユリアは不安に思ったが、内容はまったく別のことだった。
むしろ、Jと今度こそ互いに向き合い話せる場を持てるような、内容だった。
ユリアはその話に胸を高鳴らせたが、自分まで行く理由がないと言い張る彼に、すぐさまその気持ちは重りを付けられ沈み込んだ。
表面上の理由はなんであれ、結局のところユリアと共にいたくない、という意思表示なのだ。

(だったら、私一人で行けばいい…なのに)

なのに何故、彼はユリアを一人で行かせることにも反対するのだろうか。
いっそ、潔く突き放してくれた方が、こちらも気持ちが固まるというものだ。
…ユリアはそれまで見つめていた背中から視線を外し、睫毛をそっと伏せた。


「…それにだね、君は自分のことで頭がいっぱいだろうから忘れたのかもしれないが、今は聖裁をどこもかしこもしてるように、私は記憶してるがね」

悲しそうな表情で顔を背けた少女を見ながら、儀式屋は覇気を無くした男に語り掛けた。
やや意表を突かれたのか、俯いていた男の頭が僅かに持ち上がった。

「悪魔がうろついていようものなら、ミュステリオンが黙っていないだろう。ユリアも傍目には普通の少女だ、誰も私のだと疑う者などいまい?」
「………そう、かもね」

漸く返事を寄越した彼の声は、ほんの少し安堵が交じっていた。
その理由を闇色の男は知っているから、いつもの薄ら笑いよりも濃い笑みを張りつけた。
じわり、と弱まった胸元を掴む手を、逆にこちらから強く掴む。

「っ……!」

歯を食い縛り悲鳴を抑えはしたが、相当な激痛がその腕に走ったに違いない。
そうと知って、わざと儀式屋は強く握り締めているのだ。

「では、君のために繰り返しておこう。君が、ユリアに同行して彼女の下へ行くことは許さない。いいね?」
「分かって、る…!」
「宜しい。まぁ君が、今更何をしようと、君の勝手だがね」

それだけ告げると、儀式屋はあっさりと腕を放し、更に軽くJを押しやった。
と、押された彼はそのまま二三歩後退し、自分をじっと見つめているようだった。
が、最早儀式屋にとって彼は、興味の対象から外れてしまった。
意識は次の対象であるユリアに、既に向いている。
だからJの方は一切向かず、少女の前へと歩みを進めた。
暗黙のうちに、それはJへの退室命令だ。

「さてユリア、Jとの話も折り合いがついたから、君に早速行き方を教えることとしようか……ユリア?」
「……あ…は、はい!すみませんっ」

ばっと勢い良く振り向き、次いで頭を下げ謝る人物を、真紅の瞳に映す。
少女の反応が遅く大袈裟なほど驚いたのは、意識が深いところへ潜っていたせいか。
あるいは──

ばたん、と静かな部屋に、扉が開閉される音が響いた。

──あるいは、今し方出ていった男を見ていたせいか。
はたまた、その両方か。

下らない、と思考の片隅で判断する。
それから、儀式屋はいつものような笑みを唇に乗せる。

「行き方をこれから見せるから、その場に立ってくれるかね?」
「はい……?」

と、ユリアは僅かに首を傾げながらその場に立った。
儀式屋の、微妙な言葉のニュアンスを汲み取りきれなかったためである。
教える、ではなく、見せるとは?

すぅっと、死者の色をした指先が伸びてきた。
伸ばされた人差し指だけが、ユリアの額に押しあてられる。

途端に、ユリアの中へ情報が大量に流れ込んだ。

「!」

そして儀式屋の指が離れた時、はっとしてユリアは息を呑んだ。
頭の中に流れ込んだのは、見たこともない景色だった。
しかし今、ユリアはそれを“知っている”のだ。
ずっと前から、何度もその道を通り、壊れてはまた作り出されるものを見てきた、という意識が刷り込まれている。
一度もこの足で歩いたことのない道、なのに知っている。

ユリアはその妙な感覚に戸惑いを覚え…そんな少女に、雇い主の男はくすりと笑った。

四章§06

「私の記憶をコピーして君に渡したのだよ」

馴れぬ感覚に首を傾げる少女に、儀式屋は真っ赤な唇を弧に描いて答えた。
そして、ユリアが何かを言う前に、昏い光を称える真紅の瞳を細めれば。

「さぁ、行きたまえ。“私”も私に戻らなければ、だからね」
「は……戻る?」

はい、と答え掛け、戻る、という単語が引っ掛かった。
そうだよ、と儀式屋は頷いてみせた。

「私自身は、既にサンの方に居てね…この、君の前にいる“私”は、私の影にすぎないのだよ……、ほら」

と、儀式屋がユリアに見えるよう、手を上に掲げてみせた。
つられるように、ユリアの目はそちらを見る。
すると、微かに黒曜石の瞳が見開かれた。

血の気のない手は、砂のようにさらさらと消えていっている。
しかしその部分は、砂塵の如く落ちていくのではなく、気化して黒煙のようになっているのだ。
儀式屋はぐるぐる渦巻くそれを、まだ残っている方の手で掴んでみせる。
が、するすると指の隙間を擦り抜けて、跡形もなくなった。

「影なのだよ、“私”は私のね」
「はぁ……」

言ってる間に腕は消えてしてしまい、次は反対側の腕が削れ始めた。

「“私”が付いていくという手段もあるのだが、生憎私が忙しくなると、形を保つのが難しくてね…」

さらさらさら
肩口まで消え、これで儀式屋の両腕はなくなってしまった。
次いで長い両足が、消える。

「さぁ、ユリア。惜しむ時間はない。すぐに彼女の下へ向かいたまえ…ああ、ヤスたちにはきちんと説明してあるから、何も気兼ねはいらないよ」

腰まで儀式屋は消えて、

「彼女に会ったら、必ず全て正直に言うこと。彼女は嘘を嫌うからね」

もう残りは胸から上だけで、

「それでは、失礼するよ」

……別れの言葉を口にすると、たちまちのうちに彼は気化して消えてしまった。

部屋にはただ、ユリアだけだ。

暫くぼんやりと儀式屋の影があった辺りを見つめていたが、やがて自分に科せられた用事を思い出し、ユリアは扉へと向かう。
“彼女”のことなど知らないに等しいが、ただ分かるのは、待っているのは事実だから早く行くべきということだ。
後ろ手にスタッフルームと廊下を繋ぐ扉を閉ざすと、ユリアは目的のために歩きだした。

そうしてとうとう、スタッフルームは、沈黙で満たされた。







ふっ、と儀式屋はその紅い瞳を瞼の向こうから覗かせた。
それから、ちらりと己の足元を見やり、既に唇を飾っていた笑みを深めた。

「どうしたの、儀式屋クン?」

その変化に気付いたらしい、ゆったりとソファに腰掛けている真っ白な魔術師が尋ねた。
ゆるく、尋ねられた男は首を振ってみせる。

「いや、もう一人の私が役目を終えたらしくてね」
「あ、そう」

さして興味が湧かなかったのか、サンはリディーの注いだ甘ったるい紅茶を口に運んだ。
──現在、儀式屋が居るのは、サンの屋敷だった。
相変わらず、意志なき少女たちがそこここで動き回り、サンと客人の儀式屋に尽くしていた。

「……ユリアのことなのに、やけに詰まらないようだね?」
「当然だよ」
「ああ、待って、貴方が不機嫌な理由を、当ててみせるから」

言いそうになったサンをすっと手で制し、わざとらしくえぇっと、などと呟いてみせる。
やがて、いつもと変わらぬ、だがやや楽しそうな声を作り出し。

「彼女が絡んだから、かな?」
「それ以外に理由があるなら、教えてほしいね!」

がちゃん!と乱暴にカップを置く彼は、珍しくかりかりしていた。
前髪に隠れた翡翠の瞳が苛立っているのを感じて、儀式屋は特に隠さず声を立てて笑った。

「ムカつくんだよ、あの女…大体、今回のお楽しみは、僕と儀式屋クンだけのはずだったのに、図々しく間に割って入って!これでユリアちゃんを誑かしたりしたら、僕は同盟を破ってでもあの女とやるからね」
「サン、物騒だよ」

やや嗜めると、わかってるよ、と唇を尖らせた。
儀式屋はもう一度だけ笑うと、時計を一瞥して。

「さて…私たちも、そろそろ始めようか?」
「…そうだね、そうしよう」

溜息を吐いた後──魔術師はほんの少し笑みを溢した。
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