五章§21

通された客間は、白と黒の世界だった。
床から壁、天井に至るまでチェス盤のようになっている。
必要最低限の物しか室内にはなくて、特に飾りたてられたものはなかった。
何となく、アンソニーらしさがなくて、ユリアは違和感を覚えざるを得なかった。

客間に通された後、初めはアンソニーも席に着いていたのだが、暫くしてしまったという顔つきになった。
そして、少し待っているよう言い残して、奥へ続く扉へ大股で歩いていった。
それから数分の後、再び現れたアンソニーは、やはりモノクロの盆の上にカップを三つ乗せて現れた。

「すまない、ダイナがいないことを忘れていた。久方振りに淹れたものだから、多少自信はないが……」

そう言い訳しつつ、僅かに気恥ずかしそうに、二人の前にソーサーに乗ったカップを置く。
漆黒に茶を滲ませたそれからゆらゆら立ち上る蒸気は、珈琲独特の香りを放った。

「味は大丈夫だろう。本当は、ダイナの淹れた物を振る舞いたかったのだがな」
「ダイナさん、そんなに淹れるのお上手なんですか?」
「勿論だとも。ダイナは何事においても完璧な女性だ」

細い目を弧に描き、酷く穏やかな口調で告げた。
ヤスは唖然として目を見開いた。
この男が誉め言葉を口から出すのは、大体が美術品だとか珍しい物だとか、とにかく人以外と相場が決まっている。
だのに誉めたということは、それほどまでにダイナが彼の信頼を受けているという証である。
この男にも、そうした感情があったのだなと感心し、出された珈琲を口に付けた。
途端に、ヤスはカップを思い切りソーサーへ戻した。

「熱っ!!」
「気を付けたまえ、カップが割れたらどうしてくれる」
「……あーそりゃすみませんっすね!!」

ただし、自分が認めた相手にのみ、ということだ。
ヤスの舌の火傷より、酷い音を立てたカップの方を気にした男を、そう評価し直した。
珈琲の味よりも苦い顔をしたヤスに、ユリアは曖昧に笑ってからアンソニーへ向き直った。

「ダイナさんのこと、とても信じてらっしゃるんですね」
「無論、その通りだ。出会いは最悪だったのだがね」

多少、苦笑いを含んで彼は答えた。
開かれたライトグリーンは、何処か遠くへと思いを馳せているようだった。

「分かっているだろうが、ダイナは吸血鬼だ。私は彼女に、襲われたのだよ」
「え……えぇ!?じゃあ、今のお二人って……」
「ああ、違う、違う。そうじゃないよ、お嬢さん」

ユリアの言わんとしたことが分かったのか、少女が言い切る前にアンソニーは否定した。

「ダイナに襲われたから契約した訳じゃない。彼女は、私を襲ったものの、その時には何もしなかったんだ。血が足りなくて、飢えていた癖に、彼女は何もしなかった。普通、主人のいない吸血鬼がそうすることは珍しいといっていい。その忍耐強さに惹かれて、私は契約したのだよ」
「うへぇ……変わってるっすねぇ」

ダイナとの経緯を聞き終えたヤスは、何ともいえない、といった表情でそう漏らした。
自分なら、襲った相手をわざわざ手元に置こうなど考えられない。
そう茶髪の彼の言葉に、一瞬にしてアンソニーの眉間に皺が寄る。
些か先程より口調を強めて。

「この世界を生きる者全て、変わっていない者などいない。私から言わせてもらえば、君ほど変わった者はいないがね」
「うっ……」

痛いところを突かれたのか、ヤスは小さく呻いた。
その様に満足したように、アンソニーは珈琲を啜った。
僅かに世界が沈黙した後、低い振動音が部屋中に満ちた。
何の音か、と辺りを探せば、ユリアの隣でヤスがポケットから原因の物を取り出した。
青年の手に握られたそれは、どうやら携帯電話のようだ。
館の主の非難がましい視線に耐えられず、ヤスは慌てて席を立つと部屋の隅へ向かった。
数分間、ヤスは小声で電話口へ呟いたり、頷いたりを繰り返した。
そして終了したらしい彼が、申し訳なさそうにして此方へ戻ってきた。

五章§22

「何か……あったんですか?」

いつもの元気な顔が浮かないのは、何かあったということに他ならない。
ユリアは眉を寄せて、心配そうにヤスの様子を窺った。
少女の問い掛けに、彼は声には出さず、ただ頷きを返した。
それが余計に不安を駆り立て、益々ユリアの顔色を暗くさせた。

「電話の主は誰だったんだ」
「アキさんからっすよ」
「アキだと……?」

彼ら二人の対岸にいるアンソニーも内容が気になるのか、早く話せと眼光を鋭くした。
ヤスは一呼吸置くと、ゆっくり電話での内容を告げた。

「その……アキさんが、一人じゃ寂しいから来て欲しいそうっす」
「…………は?」

思い切り深刻そうな顔をして、ヤスはそう言い切った。
身構えていた分、その内容の馬鹿らしさにアンソニーは一気に気が抜け落ちた。
隣で聞いていたユリアも、同じような反応をしている。
その二人を余所に、ヤスは益々真剣そうな表情を作って。

「そういうわけで、アキさん心配なんで、俺行ってくるっすね。珈琲ご馳走様っす!」
「あ、おい、待ちたまえ!!」

アンソニーの制止も聞かず、ヤスはカップに残っていた液体を飲み干すと、いい笑顔を残して去っていった。
引き止めようとして伸ばされたアンソニーの手は、重力に従ってテーブルの上に乗せられた。


廊下を大股で渡りながら、ヤスは先程掛かってきた電話での内容を反芻していた。
着信した相手は、アキでありアキでない彼からだった。
何故、今、彼が居るのかの理由は問わなかったが、大方変わらざるを得ない状況だったのだろう。
それより問題なのは、聞かされた内容だった。
アンソニーに言ったように、アキが寂しいから、だなんて馬鹿げた内容なわけない。
いや、あながち間違いとは言い切れないかもしれない。
こんな楽しいことを一人だけでするのは“寂しい”、と言っても正しいはずだ。
ただヤスにとっては、楽しいことだと到底思えない話だったわけだが。
それでも行くのは、アンソニーとユリアの安全を確保するためだ。

(だったらやるっきゃないっすよ)

自分に言い聞かせて、ヤスはアキから指定された場所へと向かうため、更に力強く踏み込んだ。



「あの男も、大変だな」

独り言にも似たそれは、のっぽの彼が部屋を飛び出してから少ししてのことだった。
チェス盤模様の椅子に深く腰掛け、珈琲カップを傾ける男の発言である。

「あの男……って、ヤスさんのことですか?」

何となく気になって、零れたその言葉をユリアは拾い上げた。
几帳面な髪を後ろへ撫でつけた男は、左右に首を振ってみせた。

「いや、儀式屋のことだ。昔から思っていたが、よくもまぁ、ああも滅茶苦茶な輩ばかり手元におき、尚且つ手綱を握れるものだ」
「……確かに性格はちょっと個性的かもですけど」
「性格もそうだが、それ以上に奴らの能力面がだ」
「……能力?」

少女は不思議そうにその単語を繰り返した。
能力と言われて真っ先にユリアが思いついたのは、Jの吸血鬼としての能力だった。
だが、ダイナにもそれは備わっているのだから、特別というわけではないだろう。
知らないのかね?とアンソニーは言葉を置いてから語り出す。

「この精神世界をヒトが生きるためには、誰しもが何かを失う代わりに新たな力を得る……お嬢さんも、精神体になった代わりに、失ったものがあるのではないかね」
「──────」
「奴らもそうだ。だが、奴らはあまりにも強大な力を得た。それを御し、あまつさえ使いこなしてみせる儀式屋は、本当に恐ろしい男だ」

元から細い目を更に細めて、彼は件の男と似た色をした液体を睨んだ。
その彼を見つめて少女は暫く黙っていたが、ふと考えついたことを尋ねてみた。

「じゃあ……アンソニーさんも?」
「私?勿論、そうだとも」

この部屋では浮いた色合いの少女に、男は鷹揚に頷いて見せた。
それから、何故か哀しげに口角を緩めてみせれば。

「聞くかね?小さな美術館を誇りとした、男の話を」

そう前置きをして、アンソニーはとつとつと言葉を紡ぎ出した。

五章§23

──男は物心ついた時から、美しいものが好きだった。
だがそれは、宝石のように光によって人を魅了させる物でも、オーケストラにより奏でられる音楽に対して、でもなかった。
男の興味を惹いたのは、過去の巨匠たちが遺した、世界に溢れる美術品の数々だった。
人物や風景の一つ一つが、繊細に、時には大胆に描かれる絵画。
なだらかで力強い曲線が、生命を吹き込む彫刻。
最高の技術が駆使された美しい建造物、光に煌めきより美を顕わにするステンドグラス、有らん限りの装飾を施された仮面……それらが彼の心を捉えて離さなかった。
街にあった美術館へは、顔が覚えられる程に足を運んだ。
それだけでは飽きたらず、自分が行ける範囲の美術館には全て赴いた。
そんな彼自身が、それらを創造する立場になるのは、自然な流れだった。
彼の作品はそれなりの評価を得て、芸術家になっても成功するだろうと言われていた。
だが、彼自身はそのつもりがなかった。
彼は、生まれ故郷の美術館に就職したのである。
誰もが驚いたが、本人だけは満足だった。
自身の作品も好きだったが、それ以上に他者が遺す美を彼は愛していたのだ。
やがて彼は、その美術館の館長となる。
愛すべき宝箱を手に入れた彼だったが、しかし瞬く間に絶望が襲った。

「──私の愛した全ては、戦火に消えてしまった……たった一瞬で、儚く、灰へと帰したのだよ…」

哀しみを押し殺したように、掠れた声が答えた。
それまで自信に満ち満ちた声音だったのに、急激に萎んで覇気がない。
彼の中の喪失感が浮き彫りにされ、アンソニーが全く異なる誰かのようにユリアには見えた。
淡い色を宿した彼の目は、ユリアを通り越して背後の壁を見つめていた。

「それから気が狂ったような生活を送った……誰に何を言われても、頭を過ぎるは消えた私の美術品たち。何故だ…何故私の愛したものが、下らぬ人間共の争いのせいで犠牲にならねばならない!?何故よりにもよって、私のなのだ!私が何をしたという?私はただ、溢れる彼らの才能の結晶を、守ってきただけじゃないか……なのに何故、こんな仕打ちを受けなければならないのだ!!」

白と黒の世界を叱責するかの如く、腹の底から、彼の怒りが吐き出される。
その様が“彼女”と重なった。

(この人も、リベラルさんと同じなんだ……)

赤をその身に纏い、毅然として振る舞うルールである女王。
美術品をこよなく愛し、鋭く目を光らせる神経質な彼。
その双方の根底に流れるのは、庇護せねばならぬという義務感。
それが二人を突き動かし、支えているのだ。

「そして暫くすると、今度は酷い妄想が私を蝕みだした…私の愛した全ては、灰になったのではなく、“違う世界へと消えてしまった”と、考えるようになった」
「…………」
「そこに何としても行きたいと願って、願って願って行く方法を探し求めていたら……あの男が、現れたのだ。私が望むものを寄越せば、願いを叶えてやろう、とな」
「………?」

そのフレーズに、ユリアは小首を傾げた。
いつか聞いたそれは、何処で聞いたのだったろう?
思い出せない程の、昔のことではなかったように思うのに。

「あの男は、私のヒトとしての感覚を奪い、狂わせたよ……全ての美に対する感情が、過剰なまでに外へと放出させられる…醜い程に、剥き出された執着心は、その一部だ」

己の両手を開き、そこに汚い物があるように凝視すると、思い切り握り締めた。
それからすっと顔を上げ、ユリアを真っ直ぐに見つめる。

「引き換えに得たのは、モノの価値を見抜ける真実の目だ。このおかげで、私は精神世界に散らばった価値ある美を見付けることが出来るようになった……欠点すらも、それを探し出し得る為には、使える手段ともなったな」
「……それで、アンソニーさんがこの世界に消えたと思ったものは、見付かったんですか?」
「失った物は、二度と戻らないと痛感したよ……だが、私は今、今日までに集めたもの全てを愛している……それで、十分なのだよ」

満足したように口元を三日月にして、彼はゆっくりと頷いた。
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