店内は、Jが出て行ったままの状態で残されていた。
煌々と明かりは点き、受け付け名簿はカウンターの上に出しっぱなし、椅子も彼が座っていた位置に置かれている。
とりあえず、室内には異常はなさそうだ。
そして、アリアは青い目を問題の扉へ向けた。
扉は、閉じられているように見える。
此処から見る限りは、何もないように思える。

(私の聞き間違い?)

本当にそうか?
だとしたら構わないのだが、何かこのまま引いてはいけない気がする。
何かを、見落としている。
アリアはそう直感した、だがそれが何かまでは分からない。
もやもやと霞掛かった頭で、扉を凝視する。
扉だ、何度見てもそれに変わりはない。
だが懲りずにじっと見つめて、彼女はそこで異変に気が付いた。

(……開いてる!?)

本当に僅かであるが、扉はきちんと閉まっておらず隙間がある。
その隙間からは、暗闇がこちらをじぃっと見つめている。
ざわっと、アリアは全身の鳥肌が立ったのを感じた。
この『儀式屋』は、Jが言ったように特殊な結界により守られている。
ただしそれは、全ての入口が閉じられていればの話だ。
僅かにでも綻びがあれば、結界は意味をなさない。
つまり、容易に侵入を許すことに他ならない。
いや、もしそうだったとしても、此処に儀式屋やJ、ヤスがいれば、気にしなかったろう。
今、此処にいるのはアリアと、眠り続けるアキしかいない。
その事実を理解した時、鏡の中の麗人は喉にナイフを突きつけられた気持ちだった。

だが、ただ開いているだけならば、まだ良かったかもしれない。
アリアは、その僅かな隙間から見てしまったのだ。

──白い塊が、蠢いているのを。

「!!」

危うく悲鳴を上げかけて、アリアは手で口を塞いだ。
なんということだ、あの人間のなれの果てが、すぐそこにいるなんて!
普段ならば絶対にこんなところまで来れないはずだ。
どうやら本当に結界が解かれてしまったようだ。

(……落ち着きなさい)

驚愕や恐怖とアドレナリンがない交ぜになって脳内を占拠しようとするのを、アリアは己の強靭な意思で抑えつける。
とにかく、儀式屋にコンタクトを取らなくてはならない。
彼の留守中に何か手に負えないことがあった場合に備えて、常に彼は手鏡を携帯しており、アリアと連絡を取れる状態にある。
儀式屋の手鏡に繋ごうとして、一瞬、邪魔をすべきでないと思ったが、それしか道はない。
すぐさま、アリアは儀式屋の手鏡へコンタクトを取る。

「儀式屋、聞こえる!?」

呼び掛け少し待ってみるが、返事はない。
もう一度アリアは彼を呼んだが、それでも反応は何も返ってこなかった。
ない、ということは、彼は今、迂闊に手を抜けない状態だということだ。
麗人は眉間に皺を寄せ、次の手を考える。
だが、そんな時間は与えられなかった。

ぎぃ……

はっとして店内の鏡に戻り扉を見やった。
隙間が、広がっている。
そして、そこから真っ白い指が一本、覗いている。

「!!」

侵入し始めている。
アリアはその存在を認めると、瞬きするより早く、スタッフルームへ飛び込んだ。
ありったけの空気を吸い込むと、鏡面に顔を近づけて。

「アキくん!起きて!!」

ソファで眠りに落ちた男へ、アリアは叫んだ。
だがアキは全く起きる気配がない。
当然だ、アリアも知っての通り、アキはあと数時間は眠らなければ起きられない。
それでもアリアは、叫ぶことを止めなかった。

「起きて、アキくん!お願い、お願いだから起きてちょうだいっ!!」

びりびり、鏡面が悲痛な叫びに震えて、部屋中に木霊する。
なんとしても起きて貰わなくてはならない。
でなければ、アキは、奴らの餌食となってしまう。

(そんなこと、駄目!)

アリアの胸の内から強く熱いものが慟哭し、それに突き動かされるまま、彼女は鏡面を拳で叩きつけた。
叩いた面に、硬い感触が伝わる。
嗚呼、出られない自分が、悔しい。
この中にいていいことなんて、何一つない。
今そこに助けたい人がいるのに、自分の手は届かない。
距離にしたらほんの数メートル、だがこの透明の檻に阻まれて、触れることが叶わない。

「アキくん……アキくん、早く、早く起きてよ……!!」

呼び掛けるしか術のない自分は、それを繰り返すほかない。
──アリアが必死にそう叫んでいる間にも、白い影は、少しずつ近づいていた。