六章§04

精神世界にも季節がある。
柔らかなベールが世界を包み込むような陽光が射す、麗らかな春の気候。
地を焼き尽くすかの如く燃えるような熱さと、突き抜ける青が眩しい夏。
この二つの季節が、延々と繰り返されるのだ。

穏やかな春が終わり爽やかな風と共に夏が訪れる。
真夏という程ではないが、外に出れば春の空気ではないそれが肌を刺激する。
だが室内となれば話は別で、それらを感じることはない。

「やれやれ、嫌な季節に移り変わったものだね」

執務机に向かい愚痴を零したのは、死者のような白い顔の儀式屋だ。
眉間に小さく皺を刻むその顔は、珍しく不愉快さを滲ませている。
それに対して、まぁ、と鏡の中の美女。

「滅多に外出しない人が、言う台詞じゃないわ」
「アリア、私は別にそのことを言っているわけではないよ」
「あら、じゃあ何かしら?」
「暑い暑いと煩く喚き立てる輩が、現れる頃だということだよ」
「……ああ、そういうこと?てっきり私、貴方が暑いのが嫌だって言うと思ったわ。それなら坊主にしたら?って提言したかったのに」

ころころと鈴を転がすように彼女が笑うと、咎めるように彼は彼女の名を口にした。
佳人が口元に微笑を残して謝罪した直後、

「で、俺様はもう話させてもらえるのかな?」

いい加減待ちくたびれたような声が、二人に問い掛けた。
儀式屋は不満そうだった顔を、いつもの薄ら笑いに変えた。

「おやおや、不服そうな顔だね」

相変わらず濃い隈が塗りたくられた目は、指摘通り不満そうに細められて、儀式屋を睨んでいる。
執務机から数メートルの距離をもったところで腕組みをする彼より先に、儀式屋が口を開いた。

「私は、君の帰りを気遣ったまでだよ」
「……だったらさっさと済ましてくれ。無駄話をされちゃ、連れ戻された意味がないってもんだろ?」

……アンソニーの美術館での事件が一段落し、今からもてなしを受けようとしたところで、アキは急遽儀式屋に呼び出されたのである。
正しくは儀式屋の“影”が、アキを飲み込み連れ戻したのであるが。
それゆえアキは不機嫌なのだが、実際そこまで大きく文句も言えない。
あと半時間もすれば意識が途絶えて、数時間は起きないのだ。
その自分をヤスに任せて連れ帰ってもらうのも気が引けていたため、儀式屋の召喚は有り難かったのである。
ちなみに、ユリアとヤスはまだアンソニーの屋敷だ。

「あらあら、ごめんなさいねアキ君。腕も怪我してるのに、お待たせしすぎたわね」
「女神様の謝罪はいいのさ、全然。それに、怪我はとっくに治ったさ」

ほら、とアキは羽織っていたジャケットから左腕を抜き、シャツの袖をたくし上げた。
先刻、悪魔との戦闘において切り裂かれた彼の左腕は、今や何処が切られたか分からない状態だ。
アリアだけでなく、ルビーを嵌めた主人の両目が細められたのを確認すると、アキは袖を下ろした。

「綺麗に治るわね、毎回毎回」
「まぁな、汚いのよかいいだろ?」
「そうね。ボロボロのアキ君は、私は嫌だわ」
「そりゃ有り難いぜ」

鏡の中の女神の言葉に、アキの表情は若干和らいだ。
それを敏感に察知した彼女は、我が子を見るような眼差しを彼に注いだ。
長年彼と接しているアリアだからこそ、些細なアキの変化に気付けるのだ。
几帳面に袖を直しジャケットに腕を通すと、若干機嫌がよくなったアキは、儀式屋をその昏い瞳に映した。

「で、何から報告が必要?」
「ふむ……君に任せよう」

薄ら笑いの口元を組み合わせた手で隠しながら、儀式屋は答えた。
そうかい、とアキは呟くと数秒間黙した後で口を開いた。

六章§05

「……まずは悪魔街の報告からした方が、いいか」
「ならそうしたまえ」

儀式屋からの許可を得ると、アキは一つ咳払いをしてから報告を始めた。
しんと静まり返った部屋に、アキの朗々とした声が響く。

「とりあえず、区の半分以上は革命派になってきてるぜ。当主が維持派でも、革命派の連中は蔓延りだしてる……正直、時間の問題だろうな」
「……ふむ、予想通りだね」
「奴らに聞いたとこによれば、一つ崩れたら全ての終わり、らしいな。まぁそのお陰で、俺様ってば悪魔の皆さんに追いかけ回されたんだけどな」

はんっとアキは笑い、両肩を竦めてみせた。
多少自嘲気味な男に、儀式屋は両目を細めた。

「またいらぬことでも言ったのであろう?」
「別に?俺様はJほど面倒ごとは起こしたりしない性格だぜ?」
「ふむ、まぁいい……ところでそれは、革命派の区が、ということかね?」
「さぁ、そこまでは。だが革命派は、確実に終わらせる方法を知ってるのだけは確かだ」
「おやおや……」

困惑したような声音で儀式屋が呟いた。
表情にこそ出ていないが、どうやら不意打ちだったらしい。
その話を聞いていたアリアの方が、その美貌を険しいものに変貌させる。
何かしら彼女も、それが持つ危険性を危惧しているようだ。

「アキ、確信はあるのかね?」
「……アンソニーのコレクションに、十六区の手記があったんだが、今回悪魔は、それを狙ってきた。アンソニーがいうには、そこに書いてあるそうだ……、ミュステリオンはそれに気付いていないらしいが」
「──、儀式屋?」

深海の瞳を伏せて話を聞いていたアリアが、ふとその目を開いた。
見れば上から下まで漆黒の主が立ち上がり、闇色のコートに袖を通している。
美女の不思議そうな問い掛けに、口角を持ち上げた白い顔が振り返った。

「少し、出掛けるよ」
「何処へ?」
「Z世のところへ」
「……、そう」
「……?」

今し方、美女の麗貌を過ぎった陰はなんだったろうか?
微かな緊張と不安、それから──

「アキ、報告の続きは後程頼むよ」
「え、おい儀式屋!?」

それ以上の分析は、儀式屋の一言で中断させられた。
はっとしてアキが振り向き声を掛けたが、闇を纏う主は音も立てず既に消えていたのである。
アメジストの瞳を目一杯に見開き、暫く呆然としていたが、やがて諦めたらしく、深い溜息を吐き出した。

「ったく、思い立ったが吉日ってやつ?すーぐ行っちまうんだからよ……」
「仕方ないわ。あの人、自分に利がないと分かると、すぐに原因を解決したがる性格だから」
「やれやれ……じゃあ、アリア。君に話しとく」

桜貝色の頭を掻きながら、せめてもの妥協だと言わんばかりの口調で答えた。
それを感じ取った女神は、柳眉を鋭利な角度に吊り上げた。

「あら、私じゃご不満?」
「あ、あー……違う違う、そうじゃなくて…ほら、俺様、今はアキだけどもう少しで“アキ”に戻るだろ?そしたら暫くこの体はおねんねだからさ、アリアに話しとく方がいいだろ?」
「……、まぁいいわ」
「ご理解頂けて光栄だよ」

女神の機嫌はそれほど損なわなかったようで、アキはほっとした表情で続けた。

「儀式屋に一時報告でした内容だが、それの追加だ」
「……聞いたわ…亡霊街ーゴーストストリートーだそうじゃない。見たの?」
「ああ。だが、俺様が見たわけじゃない、あそこの連中だ」
「信用出来るのかしら?」

アリアの眉間に皺が寄せられた。
大丈夫さとアキは大きく頷いてみせた。
半信半疑そうにするアリアが先を促すと、彼は僅かに声量を小さくし、ゆっくりと答えた。

「亡霊街にある違反者どもの掃き溜め……ラビリンスだ」
「何ですって……!?」

深海色の瞳が大きく見開かれ、麗人の口から驚愕の叫びが漏れた。
彼女の反応はもっともだとばかりにアキは平然と受け流し、更に言葉を連ねる。

「賢い選択だ。まさかあんなところにとは思わない……最も安全かつ忌避すべき場所だからな」
「えぇ……えぇ、そうでしょうね。ああでも……アキ君、」
「アリア、あとは儀式屋に任せるしかない。いくら俺様でも、不可能だ」

左右に首を振る男に鏡の中の佳人は、ただただ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるほかなかった。

六章§06

四角く切り取られた空は、茜色を薄墨色に染めている最中だった。
徐々にその境目はなくなっていき、気付いた頃には夜の空だろう。
夕刻から宵へ移ろうという中、帰って行った客の背を見送り、

「ったく、有り得ないよそれー…」

ぶすっとした表情を浮かべ、吸血鬼は鏡に写り込む美女を恨めしそうに見た。
アリアはごめんなさいねと謝るが、実際、そのチェリーピンクの唇は柔らかな笑みを乗せている。
諦めとも苛立ちとも取れる溜息を長く吐き出すと、Jは己の足下にある物を見た。
まるでそのまま息絶えたかのように微動だにしないそれは、うつ伏せの状態で床と向かい合っている。
かろうじて、耳を澄ませば寝息が聞こえるので、生きていることは確認できる。
……Jがカウンターに座っていると、突然背後の扉が開き、アキが飛び込んで来た。
かと思えば、そのまま何も言わずに床に激しいキスをお見舞いし、ぴくりとも動かなくなった。
あまりに唐突の出来事に、流石のJも対応に困っていると、鏡に現れたアリアがことの顛末を全て明かしてくれたのである。

「それに、儀式屋までいないってどういうことだよ」

だが、Jにとって一番腹が立っているのは、アキがぶっ倒れたことではない。
己の雇い主がいないことが、何よりも頭に来ているらしい。
アリアは苦笑いを浮かべて。

「あの人を責めないであげて。彼は彼が正しいと思うことをしに行ったんでしょう」
「……アリア、君は儀式屋に甘すぎる」

鏡の中、長く美しい金糸を指に絡めて遊ぶ彼女を、吸血鬼はじろりと睨んだ。
すると、美女は透き通った声で、笑ってみせた。

「あら、今に始まったことじゃないわ」
「確かにそうだけどさっ」
「貴方もいつか分かるわ」
「……これでも俺、あいつに350年くらい仕えてるんだけどね」
「あら、私が年を取ってるっていいたいのかしら?」

実に満面の笑顔を浮かべた彼女に何かを感じ取ったのか、Jはさぁねと呟きカウンターを乗り越えた。
そして、入口にかかるプレートを反転させ、鍵を掛ける。

「何してるの?」
「閉店準備。儀式屋いないってことは、俺が代理になるからね」
「……まだ閉店時間じゃないわよ?」
「俺を代理にしてるってことは、このくらい儀式屋も了承済みさ」

にんまりと、犬歯を剥き出して笑いかけると、彼は再びカウンターを飛び越え戻ってきた。
それから、床に伸びているアキの側にしゃがみ込み、彼の腕を首に回す。
よいしょと口にしながら立ち上がると、アリアに視線を向けた。

「まぁ閉店プレート掛けてるし大丈夫と思うけど、アキちゃんスタッフルームに連れてく間に誰か来たら呼んで」
「はいはい分かったわ」

ずるずるとアキを引きずりながら廊下に消えていったJに返事をすると、アリアは嘆息を一つついた。
平生を保つ水面に波紋がふわりと広がるように、それは静まり返った部屋の隅々まで伝わった。

(……彼の本心までは、何年一緒にいても読み取れないけどもね)

人間にしたら悠久とも言える時間を過ごすアリアでも、儀式屋の全ては未だに分からない。
否、理解してはならないのだと思う。
ただアリアに出来るのは、彼がしたいことの邪魔をしないこと。
それは、彼女が儀式屋と出逢ったその日から決めていることだ。
だからJには、儀式屋の居場所を教えなかった。
ある意味それは、儀式屋に甘いということなのだろうけれど。

──がんっ!

「っ!?」

その瞳と同じ深海にまで沈んでしまいそうな気持ちは、たった今聞こえた乱暴な音で中途半端に浮き上がった。
ぞわり、と一瞬にして全身の鳥肌が立つ。

がんっ!

もう一度、力強く殴りつける音。
耳を澄まさずとも分かる、誰かが扉を殴りつけているのだ。
だが誰が?何のために?
思い浮かんだのは、閉店のプレートが掛かっているのに、室内の灯りが見えるから呼んでいる者。
そしてもう一つは──招かれざる客だ。

「J君に知らせなきゃ……」

いよいよもって、ドアノブを執拗に回しだした相手に警戒し、アリアはカウンターの鏡から姿を消した。

六章§07

スタッフルームの鏡に映り込んだアリアは、丁度立ち上がりこちらを見たJと目があった。
そして彼は、アリアが言葉を発するために息を吸うより早く、口を開いた。

「分かってる」

どうやら、あの音はJにも聞こえていたらしい。
ソファへ横たえたアキを一瞥した後、瞬く間に彼は姿を消した。
アリアもそれに倣い、再びカウンター席へと戻る。
その時にはもう、Jは扉を開け放って外の様子を窺っていた。
いつの間にか夜の帳を下ろした世界から、獲物を見つけ出そうとその金の瞳を鋭利なまでに細める。
暗闇の隙間さえ逃さぬように注視するが、やがて不愉快そうに鼻を鳴らして頭を振った。
それから店内へ戻ろうとして、ふと彼は扉を見やった。

「………………」

扉の外側の把手が、僅かにひしゃげている。
その部分へと彼は手を伸ばし、握った。
その瞬間──

「っ!」

ばっと手を引っ込め、彼は険しい表情を作ると勢いよく扉を閉め、鍵をかけた。
そして盛大に何度目とも知れぬ溜息を吐いた。

「何?どうしたの、J君?」

やや不安そうな声音でアリアが尋ねる。
Jは何度か手を開閉させながら、アリアの視界に入り込む。
不機嫌さを微塵も隠さずに、彼はぶっきらぼうに口を利いた。

「悪魔だ」
「……え」
「悪魔。うちに入ろうとしたんだろうけど、儀式屋の結界が張ってたから諦めたんだろ」
「そんな……何で悪魔が」
「さぁ?でも、多分、誰かに召喚されてる奴だ」
「……どういうこと?」

佳人の眉が不可解そうにつり上がった。
Jは眉間に皺を寄せ、厳しい眼差しを足元へ投げかけた。

「こっちの悪魔なら、扉に触れた時点で苦痛を感じてそれ以上のことはしてこない。儀式屋の結界は、そういうもんだからね。でも、さっきのはドアノブを少しだけど変形させる力を持ってた。人間には不可能、もちろん悪魔にも。出来るのは、召喚され依代の体の悪魔だ」
「……じゃあつまり、現実世界の人間が、ってこと?」
「まぁそうかな。いずれにせよ、無理やり入ろうだなんていい考えの奴じゃないさ」

真剣な面持ちで告げた後、Jは己の掌を凝視した。
握った瞬間に伝わったのは、地獄の底を渦巻くような憎悪だった。
だが、悪魔自身から発されるものではなかった。
よりしろの体を通して発されている──つまり、悪魔を召喚した人間が持つ憎悪なのだ。
となれば、儀式屋にあるいは『儀式屋』に対して相当激しい感情を持つ人間がいる、ということである。

(一体、誰が?)
「でも、これでJ君はすぐには帰れなくなったわけね」
「……………は?」

あまりに唐突な話題転換に、かなりの間を置いてからJは反応した。
鏡に映る麗人は、それはそれは、何とも愉快そうな─ともすれば憎たらしいほどの─笑みを見せつけてくる。
すぐさま脳裏に、嫌な予感という文字がちらつき、吸血鬼は目を半眼にして美女を見やった。

「勤務時間中に不審な点が見られた場合は、儀式屋に報告する義務があるのよ」
「なっ……その肝心の儀式屋は、お出掛け中じゃないか!俺は暇に殺されろって?冗談じゃないね!」

見事予想的中で、目に痛い配色の髪の男は、ぎゃあぎゃあと喚きだした。
アリアは駄々っ子を見る目つきで彼を見つめ、やれやれと首を振った。

「あのねJ君。やることならたくさんあるわ。店内の掃除とか在庫の確認とか、そこの床を直すとか。時間は有効に使うべきよ」
「有効に?」

その単語に反応すると、打って変わって静かになり……二本の牙が唇から覗いた。

「……なら、もっといい使い方がある」
「…………まさか、今からさっきの奴を追い掛けるとか言うんじゃないでしょうね。それは、」
「アリアって本当に頭がいいよね!じゃ、行ってきま」
「待ちなさい!」

鋭い声音で制止をかけられ、流石に無視出来なかったのかJは動きを止めた。
何、と視線だけで尋ねると、アリアは声同様に厳しい表情で。

「……30分が限界よ」
「……、アリアが俺にも優しくてほっとしたよ」

金瞳を弧に描くと、再びJは行ってきますと呟いて、一瞬にして姿を消した。
アリアはJがいた場所を暫く見つめていたが、やがて小さく溜息を吐いて、つくづく自分は甘いのだと痛感した。
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