だが、すぐさま吸血鬼は硬直を解き、そしてあろうことか、硬直する原因となったものを地面へ投げつけた。
哀れな機械は、その身を硬く冷たい地面に叩き付けられた衝撃で、画面が割れ、部品が弾け飛んでしまった。
恐らく、もう二度と元の機能としては働かないだろう。
それをきちんと見届けたかどうかも分からぬうちに、Jはさっさと廊下を歩き出した。
届いた内容からJの奇行までの間、棒立ち状態だったマルコスだが、立ち去るJに気付き慌てて追いかけた。

「じ、Jさんっ、いいんですか、あんなことをして!!」
「あー、いいのいいの。どうせ、もうあれには用がないし、起きることは起きたからね」
「起きることは起きた…?それってつまり、此処に誰かが来るってことですかっ!?」
「坊ちゃん、お楽しみを俺が今答えると思う?」

隣に追い付いたマルコスに、Jは鋭利な牙を覗かせながら笑った。
どうやら彼は何かに気付き、しかもその展開を心待ちにしているようだ。
だが、何も分からないマルコスにとっては、その笑顔すら不安材料でしかない。
それを払拭したいがために、更に少年は追及しようとしたが、突如吸血鬼が立ち止まったため、つられて足を止めた。
そして前方を確認した時に、マルコスははっと息を飲んだ。

「あらあら、これはどうしたことかしら」

柔らかなソプラノの声音で困ったように、その女性は呟いた。
漆黒の尼僧服に銀のロザリオを纏う彼女は、地獄に舞い降りた女神といって差し支えない。
だが、マルコスにすれば女神どころか、死神のような存在だ。
起きることが起きたとは、つまり、このことだった に違いない。
そんな彼女、シスター・ユーリは、艶やかなピンクの唇を弧に描いた。

「御機嫌よう、Jさん。こんなところでお散歩されてるの?」
「やぁ、シスター・ユーリ。ちょっと道に迷ってね」
「あらあら、なら出口までご案内しようかしら」

顔に張り付けた笑顔を崩さない彼女に対し、Jも同じく鋭利な牙を覗かせながら笑った。
Jの名を殊更穏やかな声音で呼んでみせた彼女だが、それが真意ではないことを吸血鬼の彼は重々承知している。
ユーリの笑顔の下には、残忍な本性が眠っているのだ。
誰もがその柔和な微笑みと言葉に騙され、自分から襲いかかって返り討ちに遭っている。
少しでも選択肢を誤れば、たちどころにこの世界に別れを告げなければならない。
聖母のような優しさに隠された真実を、Jはその金瞳で慎重に見極めつつ言葉を発した。

「いや、大丈夫。君が道を譲ってくれれば済むことだからね」
「なら、譲って差し上げたら、そこの七区の当主様は置いていってくださる?」

そこの、と突然名指しされた本人は、文字通り飛び上がらんばかりの心境であった。
流石は全異端管理局、他局とは違い自分を誰なのかはっきり認識している。
認識しているということはつまり、自分が犯した罪を理解しているということだ。
その考えに至った時、マルコスは今までにない程、恐怖で脳内が占拠された。
自分がこの場で捕まってしまえば、七区の行く末に未来はない。
何とかしなければと思うのに、焦るばかりで何一ついい案が思い浮かばない。
徐々に視線が下がっていき、マルコスは爪先一点を思い詰めた表情で見るしか出来なかった。

「それは無理だね、だって彼は俺の人質だから」

見詰めた足下に落ちた影と声に、マルコスははっとして顔をあげた。
黒革の背が少年の前に広がり、丁度シスターと自分の間を遮るように立っている。
庇われたのだと理解するのに、然程時間はかからなかった。
同時に、どうしようもない情けなさがマルコスの胸中を埋め尽くした。
Jは自分の配下の者ではないし、庇う必要はない。
なのに彼は何の躊躇いもなく自分を庇い、そして自分は抵抗することもなく庇われている。
これが情けない以外の、なんだというのだ。
そうして マルコスが自責の念に囚われている間にも、ユーリとJの駆け引きは続く。
ユーリはますます眉を八の字に描きながら、小首を傾げた。

「あらあら、Jさんたら。私、貴方が好きだから見逃してあげたいのに」
「全異端管理局のシスターから直々のラブコールなんて、俺には恐れ多いね」
「本当よ?それともJさんは、エリシアみたいなお誘いが好きなのかしら」
「あれは論外だね。ところでシスター、よくこんな場所に俺がいるなんて分かったね。それも俺が好きだから?」

冗談めかした調子で彼がそう尋ねると、ユーリは数度瞬きをした。
それから、口許に手を宛ててくすくす笑う。

「ご免なさいね、此処が分かったのは別の理由なの」
「へぇ、例えば誰かを探してたとか?」
「そうね、そんなところかしら」
「そうなんだ。折角告ってくれたのに、そんなこと言われたら、俺、妬いちゃうな。ねぇシスター、俺にヤキモチ妬かせるのは誰なのさ」
「あらあら、それは言えない御約束よ」

奇妙な緊張の糸を互いに手繰り寄せながら、どちらがそれを切るのかを探り合う。
切れたその時には、全てが終わると知りながら。
そしてその時は、もう、目前だ。

「言えないのかい」
「言えないわ」
「俺がお願いしてるのに?」
「私のお願い、聞いてくれないんですもの」
「だって俺のものは俺のものだし」
「そう、とても残念だわ」
「俺もだよ、シスター」

互いに遺憾の言葉を掛け合ったのが、全ての合図だった。
張り詰めた空気が裂かれたと同時に、Jは自分の背後で自己嫌悪に陥っているマルコスを抱えて地面に伏した。
その二人の頭上を、ユーリが放った青白い電撃が薙いだ。