「動くな」

額に冷たい金属の感触を覚え、Jは絵を下ろした格好で停止した。
本来、額縁を外した向こうには壁があってしかるべきなのだが、今Jの目の前には、くり貫かれた壁の向こうに琥珀の瞳を持つモヒカンヘアの悪魔がいたのだ。
どうやら、当たりを引いたらしい。

「Jさんっ」
「小僧、貴様も動くな。この男の頭を吹き飛ばすぞ」

異変に気付いたマルコスが恐らくは駆け寄ろうとしたのだろう。
Jを脅す悪魔の警告に、寸でのところで足を踏み止めたらしい。
内心ほっとしたJは、自分の命を握る悪魔をしげしげと眺める。
先ほどJが倒した悪魔同様、このモヒカンヘアの悪魔も、何やら険しい顔つきでこちらを睨んでいる。
余程、他者がこの屋敷に足を踏み入れることが気に食わないのだろうか。
視線を少し外して、睨み付ける悪魔の後方を窺う。
その後ろは暗闇が続くばかりで、今の所は他の悪魔は確認出来ない。
僅かに頬に風を感じながら、Jはゆっくりと口を開いた。

「えーっと、とりあえず、暴力はよくないから、おでこの物体、どけてくれない?」
「貴様らにいくつか質問する」
「うわっ、無視?無視なの?」
「何故、この屋敷に侵入した?」

Jのからかいに微塵も反応せず、悪魔は強い口調で問い掛けた。
冗談の全く通じない相手だと理解したのか、吸血鬼は大仰に溜息を吐いてから答えた。

「そりゃ、此処の当主に会うためだけど?」
「会って、何とする?」
「はっ、何であんたに答える必要があるのさ?」
「答えろ」
「やーだねっ!」

Jが真っ赤な舌を出して見せたのと、銃声が轟いたのはほぼ同時だったろう。
一瞬、マルコスは紅白の頭が弾け飛んでしまったのではないかと、さっと血の気が引いてしまった。
が、現実には彼は死んではおらず、発砲されるのを見越して、しゃがみ込んで回避していた。
それを見過ごさず、悪魔はすぐさま軌道修正を図り、更に連射して来る。
今度は自分たちが入って来た扉のある方へ転がり、棒立ち状態だったマルコスを巻き込むようにして、Jはそのまま応接間へと突き抜けた。
そして素早い動作で扉を閉め、更に鍵まで掛けたのである。
ふぅと息を吐くと、やや混乱状態のマルコスと目が合い、照れ臭そうにJは笑った。

「いやーごめん、なんか怒らせたみたいだ」
「言われなくても分かりますよ…」

分かりきった状態のことを報告され、マルコスは脱力感いっぱいに呟いた。
この相棒は、事態を最悪の方向にばかり向けたがるらしい。
しかも悪いことに、それをまるで楽しんでいるかのような節も見受けられる。
今更ながら、コンビを組んだことを後悔してしまうぐらい、マルコスは絶望的観測しか今は持てなかった。
しかし、そうしていつまでも己が身の上を嘆いている場合ではなかった。
発砲してきた悪魔が、そのまま大人しく壁の向こうにいるとは、マルコスも考えてはいない。
次の手を打つ必要に迫られており、必死に最良の手を考える。
このまま逃げるか──それでは、自分がせっかく決意した思いを、自らの手で潰してしまうため、やりたくない。
ならば迎え撃つのか──だが、自分は護身用のナイフしか持っておらず、Jの後ろに隠れている方が邪魔にならないだろう。

(……嗚呼、弱いな)

頭の片隅で、酷く冷めた声の自分がそう呟いた。
考えても考えても、結局は後ろ向きな結論にしか至らない。
どんなに頑張りたくても、後一歩のところで弱い自分が足を引っ張るのだ。
飛び越せるはずの崖を前にして、踏み込むのを止めてしまっているようなもので、自分がもったいないことをしているのも分かっている。
それでも誰かが手を差し伸べてくれなければ、とてもじゃないが飛び越す勇気も出ない。

(こんなだから、いつまでも僕は当主として頼られない)

ミュステリオンに鎮圧されて以降、七区は最早自分の知る七区ではなくなっていた。
本来なら、当主たる自分が七区の悪魔全てに指示を出し、この事態を打開しなくてはならないのに。
なのにいつまでも周りに庇われ、護られ、安全な場所へと逃がされるだけの、愚かしい当主でしかない。
先代当主ならば──父ならば、そんなこともなかったのに。
父は最期まで慕われ続け、七区の英雄だった。
それに引き換え、自分はなんと情けないのだろう。
現状維持派だったはずなのに、自分の知らないところで革命派が蔓延っていき、遂には亡き者にされるところだったのだ。
すでに自分という存在は、敬意を払われる対象などではなくなっていた。
それが、無性にマルコスは悔しかった。
自分だけが無視されるならば良かったが、区民全てが当主に反旗を翻したということは、偉大だった父さえも侮辱されたに等しいのだ。
それが許せなくて、自分が情けなくて──結局、弱い自分へと結びついてしまうのだ。