四章§21

──ルールに、なった。

その言葉の意味するところが、ユリアには測りかねた。
暫く考えてみたが、やはり理解出来なかった。

「要するに、わたくしの想い一つで、この世界は左右される、ということですわ……酷い、エゴイズムでしょう?だけれど、それしか世界を救える道はなかったの…」

小箱から絶えず流れるメロディは、いつしか静かなピアノ伴奏に変わっていた。
ゆったりとした切ない音色が、庭園の雰囲気を変えていく。

「わたくしがルールになった時、もう、この場所しか残っていなかった…だからわたくしは、とにかく何が何でもこの場所だけは、護り抜くことにしましたわ…かわりに、永遠にわたくしは自らの名を無くしましたが」
「……え…ど、どうして…?」
「…わたくしは、何か一つルールを決める度に、自由が失われていく運命なのですわ」

不安げに揺らぐユリアの目に、リベラルは静かな笑みを向けた。
その笑みは、あまり明るいものではなかった。

「…この場を護り抜くと決めたとき、わたくしの呼ばれるべき名前は無くなった…ミュステリオンの権力を抑圧したとき、この屋敷内でしか動けなくなった。他にも色々ありますけど…その度にわたくしは、自由がなくなっていった」
「そんな……何でそんなの、受け入れたんですか!?」

淡々として語る麗人に、ユリアは声を荒げた。
ルールとなる代わりに、失われゆく自由。
ユリアでさえ、儀式屋の所有物とはいえ、自由が許されている。
リベラルには、それすらないのだ。
何故そこまでして、ルールになろうとしたのか。

「……いつかわたくし、全ての自由がなくなって、本当の意味でルールとなってしまうかもしれないわ」
「っ、それが分かっててどうして…!」
「この世界を、愛しているから」

きんっ、と音が途切れて、リベラルの声が庭園にこだました。
同時に、辺りを包んでいた香りが薄れていき、まるで慣れない空間に放り出された気持ちになる。

「わたくしはこの世界のためなら、わたくし自身を捧げることを厭わない。だってわたくしが愛した世界だもの…本当に大切なものならば、護り抜くために何だって出来るのですわ」

ただ静かに、密やかに女王はその心境を語った。
愛しているから──たったそれだけの感情で、彼女は自らを殺すことも厭わないというのか。
そしてそれを支える、凄まじいまでの庇護欲。

(この人は…本当に世界を誰よりも大切にしてるんだ…)

赤を身に纏う麗人、その存在感は測り知れぬ程に大きなものがある。
けれどその下には、目には見えない辛さや苦しみが、此処へ辿り着くまでにあったはずだ。
それを微塵も感じさせず、リベラルはただ微笑を浮かべている。
そんな女王を直接見ることが出来なくて、ユリアの視界は膜を張った。

「……あら、泣いているの?」
「え……?あ、あれ…なんでっ?」

女王に指摘され、ユリアは瞬きをして膜を割った。
途端に視界は晴れ、代わりに頬を水滴が転がり落ちていった。
どうして涙が出たのだろうか、何も悲しいわけでもないのに。
理由が全く分からず、必死に雫を手の甲で拭おうとするが、止まらずに溢れてくる。
そんな少女を、リベラルはまるで愛しいものでも見るような眼差しを向けた。

「貴女、きっと感じやすいのね」
「感じ、やすい…?」
「そう…ねぇ、今どんな気持ち?悲しいのかしら?」

(私は、悲しい?)

問われ、自分は悲しいのだろうかと熟考する。

(ううん…悲しく、ない)

閉じた目から手の甲へ落ちた雫は、悲哀を含んだものなどではなかった。
胸の奥深く広がる、呼ぶべき名称が見当たらないそれ。
冷たい茨にがんじがらめにされ血の滲むような痛みではなく、柔らかな泡に包み込まれて守られている感覚、これは──

「……変かもしれない、ですけど…私…すごく、心が今、あったかいです」

ユリアは温かなそこに手を当てると、静かに泣きながら笑ってみせた。

四章§22

泣き顔の中に咲く華やかな笑顔の少女の言葉に、リベラルはゆったりと頷いた。
それから彼女は、微かに口元を柔らかな形に変えた。
そして、全てのものを包み込むような声と眼差しを以て、少女へ。

「そう……わたくし、貴女のその言葉を聞くことが出来て…よかった、本当によかったわ…有難う、ユリア」
「え……?」
「有難う……本当に有難う、わたくし、とっても嬉しいわ…」

ありがとう、ありがとうと繰り返す麗人の後方、琥珀の瞳の彼はただ彼女を安堵したように見つめていた。

女王が礼を述べた理由は、おそらく少女には察しがつかないだろう。
だが、長く彼女の傍にいた自分は、その意味が容易く分かる。
女王の声が柔らかで、それでいてやや震えている、その僅かな差。
それだけでも、今リベラルがどんな気持ちなのかを推し量れる。
女王の喜びが、そのまま己の幸福に繋がる。
だからリヒャルトは、その琥珀の瞳を和らげることが出来るのだ。

暫く彼は頬の筋肉を緩めたままだったが、俄かにそれが緊張により硬化していった。
瞬きをするよりも早くリヒャルトの体は、突然傾いだ女王の側へと動いていた。
同時に、彼女の異変を知らせるかのように、鳴りを潜めていた小箱から、大音量で不協和音が轟く。
薄れていた香が、むわっと嘔吐くほどの濃さで園内に充満する。
テーブルへとしがみついた真紅の麗人を、脇からそっと抱えると。

「陛下!」
「ああ、リヒャルト…大丈夫、少し目眩がしただけ」
「いけません、お休みになられなくては」

腕の中へ納まった彼女が、リヒャルトへそう言った。
だがその声は、霧の向こうから聞こえるようで、とても大丈夫だとはいえない。
リヒャルトは口を一文字に引き結ぶと、女王を椅子から立ち上がらせた。
そのままふらりとしたリベラルを抱えて、呆然と此処までの過程を傍観していた少女に向き直った。

「ユリア様、少々お時間を頂きます」

ユリアの口が肯定の意味を為す音を形作る前に、彼は庭園から素早く身を翻していた。




「──先程は、失礼致しました」

既に小箱からの耳障りな音は絶え、今は厳かにメロディが流れていた。
一時期は呼吸するのも嫌になる程にきつかった香も、霧散してしまった。
訪れた時と同じに戻った場で、ユリアはリヒャルトに注がれた新たな紅茶を啜りながら、注いだ本人からその言葉を聞いた。
少女は音を立ててカップを置くと、黒髪がぶんぶん唸る程に首を振った。

「いえ!いいんです、気にしてなんかないですからっ」

本当にユリアはそう思っていた。
寧ろ、あそこでもたつかれた方が気にしていたと言っても、過言ではない。
それを悪魔の瞳を持つ男はどう取ったのか、とても申し訳なさそうな表情を作ってみせた。

「ユリア様は、大変寛大なお心の持ち主でいらっしゃるのですね…」
「あ、そんなんじゃ…」
「いいえ。そうなのですよ。陛下があのようなことになったのも、私の失態ですから。ユリア様は、私に怒りを感じてもよいのです」
「……リベラルさんは、大丈夫なんですか?」

此処にはいない人物の名が出て、そこで初めてユリアはリベラルの容体を問うことが出来た。
彼が戻って来てすぐに問おうとしたのだが、その顔のあまりの無表情さに何も言えなかったのだ。
リヒャルトは少女の問いかけに、一瞬琥珀の瞳を大きく見開き、それからああといったように。

「お伝えするのを忘れていましたね…陛下は、大丈夫ですよ」
「良かった…」

微笑を浮かべた執事が告げる、彼女が無事であるという吉報に、ほぅっとユリアは長く息を吐いた。
だが続く言葉に、開いた眉を寄せることとなった。

「いつものことです。お客様と面会されると、必ずですから」
「……必ず、ですか?」
「えぇ…」

リヒャルトはやや視線を下方へ向けると、一瞬その顔に俊巡を滲ませた。
それから、ユリアへと彼はその理由を話してみせた。

「陛下は…時間さえも縛られてしまっているのです」

四章§23

時間──あまりにも抽象的なのに、実感としてあるそれ。
生きていく上で、決して切り離すことの出来ない事象。
女王はそれすら、自由を奪われているという。

「陛下は時間の自由を代償に、この世界に溢れる様々な声を聞くことが出来るのです。陛下は、もはやこの屋敷の外へは出歩けない…だから外の世界で何が起こっているのか、陛下には分からないのです。ですから、せめて声だけでもと思われ、そうされたのです」
「……、どうしてですか?何でその必要が…」
「陛下は世界のルールですが、それを破る者がいるのも、世の常というものです。たとえルールであったとしても、人の心までを押さえ込むことは出来ません…陛下がルールとなったのは、この世界がこれ以上崩壊するのを防ぐためであって、人の心を操るためではないのです」

そこまで言って、リヒャルトは目を主人のいる方へ向けた。
ユリアもつられて見上げる。
荘厳な屋敷の何処かにいる赤色の彼女には、この会話も筒抜けなのだろう。
きらきらと格子状の枠に填まる窓を照らす空の光に、少女は黒瞳をやや細めた。

「だからといって、この世界を乱すことは、陛下にとって許しがたいこと。ならば監視とまではいかないが、世界中の声を聞き続けると決心されました。その声の中に、この世界を傷付けるものがあれば、処罰されます。そしてそれを補佐するため、ミシェルのように陛下の配下になった者たちがいるのです」

“俺は女王様の忠実なる駒さー”

門前で別れた赤髪の男の言った、その意味。
リベラルは屋敷の外へは行けないため、自らの手で世界を傷付ける人物をどうこうすることが出来ない。
そのために、ミシェルのような者たちがこの周辺に散らばり、いつでもリベラルの目的のために動けるようにしているのだ。

そうでなくては、あの時に運良く現れてなどくれなかったはずだ。
たとえ、ユリアを迎えに行くという命を与えられていたとしても、正確な場所までは把握出来ない。
きっと、リベラルがユリアの声を聞いて助けてくれたのだろう。
……そう思うと何だか、少しだけユリアは気恥ずかしくなった。
さっと頬に赤みが差したが、それをリヒャルトに問われる前に、ユリアはまだ説明されていない事柄を尋ねた。

「でも…その、時間の自由を縛られているって」
「私たちも変わらない、とおっしゃりたいのですね」

少女の変化に気付かなかったのか、リヒャルトは穏やかな表情で、ユリアが言おうとしたその先を口にした。
少女は素直に首を縦に一つ振った。
初老の男は、やはり、といったような顔つきになる。

「そうですね、私たちは時間と無関係に生きていくことは出来ません。それもある意味、自由がないといえるのかもしれません……ですが、陛下の時間に自由がないというのとは、異なってきます」
「どう違うんですか?」
「陛下は人と会う時間を、縛られてしまっているのです」
「人と会う…?」

そう言われても、ユリアは今一つ理解が及ばない。
例えばそう、とリヒャルトは呟く。

「外部からのお客様とは、半時間ほどしか面会することが出来ません。それ以上無理をすれば、体が言うことを聞かなくなってしまうのです」

真紅の麗人が倒れた時を思い出し、ユリアは目を見開いた。
毎度そんなことになっているというのか。
急に、ユリアは此処へ来たのは、いけないことだったかのように思えてきた。

「何故なのかは私の推論で申し訳ないのですが…世界の声が聞けるのであれば、外部からの情報は必要ない、ということなのでしょう…」
「そんな…だったら私、来るべきじゃ」
「ですが、例外があります」

リヒャルトからもたらされる内容に、ユリアは皺になるほど強くスカートを握って、琥珀の瞳へ訴えようとした。
だがそれを遮って、彼は言葉を続けた。

「私を除けば、陛下をルールとされたユリア様の主と、この世界唯一の魔術師…彼らとはどれだけ共に居ても、何ともないのです」

ユリアは声を重ねようとしたが、何も言えずただ彼を見つめた。
リヒャルトはそんなユリアに微笑みかけると、続きを口にした。

「そして半時間以上も陛下と会話をされた…ユリア様、貴女様なのです」

やけに鮮明に、それはユリアの中へ小箱から溢れるメロディと共に入り込んだ。

四章§24

「わ、たし……が…?」

目をぱちぱちとさせて、ユリアは微笑を保つ彼をじっと見つめた。
それから、考え込むようにして俯くと、大分温くなった紅茶に自らの顔が映った。
そこにいるのは、何処にでもいそうな14歳くらいの少女の顔だ。
いかにも普通で、全くリヒャルトがいう特別な要素は見当たらなかった。
ユリアがゆっくり顔を上げると、こちらを観察していたらしい彼と目が合った。

「……何故ですか?」

少女の口から出たのは、そうではないと否定するものではなかった。
慌てることなく落ち着き、ただその理由を静かに問いかけた。
問われた彼は、直ぐ様少女の問いに答えた。

「陛下が精神世界のルールとなられた時の代価としての自由は、その身も心も魂も全て精神世界に捧げ、世界を一身に引き受ける、というものです…つまり、精神世界が傷付いたなら、それは陛下がお受けになる、本来なら負わなくてよいものを、強制的に負わされているということです」
「……………」
「そしてそれは…誰かが、何かがこの世界に訪れた時にも発生するのです。陛下のご説明にもありましたが、この世界は非常に脆く出来ており、外部のものを受け入れるのは容易ではありません」
「……あの、それなら儀式屋さんのお店は、常にこの世界を傷付けてるんじゃ…?」

ユリアの働く『儀式屋』では、訪れる客たちは現実世界からの者たちもいる。
これは、世界を傷付けていることになるのではないのか。
だが執事は、緩やかに首を左右へ振った。

「『儀式屋』は精神世界と現実世界の狭間にあります。完全にこちらの世界のではないので、大丈夫なのです」
「あ……そうなんですか」
「はい。ですがそこまで考えて下さるとは、貴女様は余程陛下と精神世界を案じて下さったのですね」

そう言ったリヒャルトの顔は、とても安らかなものだった。
自らの仕える主のことを気に掛けてもらえたことが、彼には何よりの喜びなのだろう。
そしてその雰囲気を纏ったまま、彼はユリアへの回答を続けた。

「ユリア様がこの世界へいらっしゃった時、私は失礼ながらまた陛下を傷付ける輩が来たと、気に病んでいました。ところが、陛下は全く何の痛みも訴えられませんでした……それどころか、大層お喜びになって…」

“リヒャルト、今回の子はあの彼が、魔術師を裏切って手元に置くつもりよ!”
“わたくし、この子と必ず会うわ…必ずよ。きっと大丈夫な気がするもの”

「……そう陛下は仰せになられると儀式屋様をお呼びになって、ユリア様とお会いになる約束をされたのです」
「それは……」

そこからユリアは、言葉を何一つ紡げなかった。
この世界へ来たその時から、自分と会うことを望んでいたという事実。
まだ見もしない少女に、どうして彼女は期待をしていたのだろうか。
分からない、だがその気持ちの重さに、ユリアは答えられている気がしなかった。

(だって私は、ただの精神体で……?)

「……それは、私が精神体だから、ですか?」

口を突いて出たのは、思ってもみなかったことだった。
だが言ってから、それが妙にしっくりと心の中へ落ち着いた。
リヒャルトはユリアのその答えに、目を開いてそうです、と。

「貴女様が、儀式屋様が選んだ精神体であるからこそ、いいえ、でなければ陛下はお会いになる気は全くなかったはずです」
「そう…その通りなのですわ、ユリア」

リヒャルトの言葉の後に聞こえたのは、凛とした確かなその人の声。
はっとして見れば、赤い麗人が庭園と屋敷を繋ぐ彼女より尚濃い薔薇のアーチの向こうに、しゃんとして立っていた。
それと相反する色の瞳は、冷静さを保ってこちらを窺っている。
その姿は、会ったばかりの彼女と同じように、自信に溢れたものがあった。

「ごめんなさいね、ユリア。せっかく貴女と会えたというのに…倒れている暇など、ないのですわ」

彼女は、リベラルはそんなことを口にすると、確かな足取りでアーチを潜り抜けて、ユリアとリヒャルトのいるそこへと向かった。
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