恐らく、何もなければ彼はいつものように攻撃し、逃走を図る頃だ。
それが出来ないのは、今正にそこで意識を失っている存在のためだった。
彼は金と“緋色”の瞳をマルコスに注ぎながら、いかにしてこのシスターを退けるかを検討する。
そして、僅か数秒の沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。

「二区の王様に会いたい、それが此処にいる理由さ」
「あらあら、それは貴方の雇い主の命令?」
「想像に任せるよ。ただ、少なくともその彼については、俺が王様に会うためにつれ回してるのさ」
「こんな哀れな当主様、必要かしら」
「君こそ、此処に来た理由に、彼はいらないだろう?それより、有益な話をしようじゃないか」
「有益なことなんて、何かあるのかしら」

ただ淡々と交わされる言葉は、何処までも平行線を辿り、終着点が見えない。
だけれども、それを無理矢理にでも収束させ、決着を着けるべく、Jはユーリに囁きかける。

「まもなく此処に、第三者が現れる」
「誰かしら」
「それは俺にもわからない。だけど、悪魔であることは確かさ」
「…つまりはなぁに?Jさんは、その悪魔を私にプレゼントすると言いたいの?」
「お気に召すかい?」
「気に入らなかったら、この子を頂いていくわ」

ユーリが正に、そう告げた時だった。
長い廊下と外の世界を結ぶ扉が開き、Jの予告通り悪魔が乱入し、何の前触れもなく二人に襲い掛かってきた。
剣を振りかざしてJを袈裟斬りにしようとしたらしかったが、それよりも速くJが反応し、悪魔の顔面を殴り付けた。
予想だにしなかった悪魔は、驚愕の表情を浮かべながら撥ね飛び、石畳の地面に叩きつけられ動かなくなった。
やれやれとJは拳を緩めたが、開いた扉の向こうから、こちらへ迫る足音を彼の耳が拾い上げた。
だが、その数は一人二人どころではない。
ぞろぞろと扉の向こうで群れなしているようで、廊下の奥からも禍々しいまでの殺意と共にこちらにやってくる。
あら、と今まで傍観していたシスターが声をあげた。

「困ったわ、Jさん」
「何がさ」
「私、一人しかいないの」
「全異端管理局シスターが何をおっしゃる」
「あらあら、貴方たち“二人”を見逃す代わりに、沢山の“脱走者”を私一人で相手しろなんて、少し酷すぎるわ」
「……、なるほど、“脱走者”ね」

Jは鋭い犬歯を覗かせ笑い、立ち上がった彼女の足元に倒れているマルコスを素早く抱えあげた。
気絶しているが、特に酷い外傷はない。
それを確認すると、こちらを見遣る彼女と目を合わせる。
彼女は数度瞬きをしてじっくりとJの目を見たあと、不意に微笑んだ。
何の意図も含まれない、純粋な微笑みに、彼は眉根を寄せた。

「何さ」
「いいえ、流石はあの人の吸血鬼ね」
「……、この目に惑わされないなんて、君のとこの局くらいだ」
「あらあら、とても魅力的よ?ただ、局長の方が残念ながら貴方よりもっと魅力的だから、なびかないの」
「そう。なら、さっさとこいつらお持ち帰りして、局長に誉めてもらいな」
「それもそうね」

そして二人して頷き合い意気投合したところで、残りの悪魔が飛び込んで来た。
そこから先は、二人とも言葉を掛け合うこともなく、襲い来る悪魔へと向かって行った。





ヤスはカウンターに座り、珍しく思考の海に沈んでいた。
一人でカウンターに座るのが三日も過ぎ、これがなかなかアクティブな彼には苦行だった。
本来なら、もうあと三人ここにいるのだが、一人は鏡が留守だし、一人は潜入調査中だ。
そしてあともう一人のことに思考が及んだ時、もう百は越えたほどの溜息を吐いた。
ヤスの気持ちが今一つ沈むのは、他ならぬユリアの不在が原因だった。
あの日、少女が流した涙をヤスは忘れられなかった。
少女は自分だけが何も知らないことに苦しみ、そして目に見える形で除け者扱いされることに悲しみ、感情がぐちゃぐちゃになったまま、“彼女”のところにいってしまった。

(何か、もっと方法はなかったのか?)

儀式屋が動き出したということは、いよいよあの二十年前の事件の核心に触れようとしているということだ。
同時に、警戒レベルはぐんと高まり、危険度は増す。
そんな中で、ユリアの安全を確保するために人員を割くことは、出来ないと理解している。
だが、理解することと納得することは別物だ。
Jやアリアは長年儀式屋の側にいて馴れているから、どう足掻こうがあの決断が覆らないと理解した上で、納得している。
けれどヤスは高々二十年程度側にいるだけであり、そんな二人のように大人な態度を取ることは出来ない。
今ここに座っていることだって、命令でなければとっくに止めて、ユリアのもとに行っている。
──行ったとして、それでいったい何になる?

(結局俺は、あの子のために何も出来ない…)

冷静な声が、自分の考えに待ったをかけた。
行ったところで、あの子を連れ出して、それで自分に何が出来てどうするというのだ。
そうだ、結局“あの頃の自分”から、何一つ変われていない。
救いたい人を、救えなかったあの頃と変わらない。

「だから剣士クン、僕の側にいたら良かったのさ」
「!?」

子どものように拗ねた声が、ヤスの心を見透かしたように呟いた。
声のした方に顔を向けると、真っ白な魔法使いがカウンターを挟んだ反対側に、頬杖をついて座していた。
ヤスの意識が向いたことに気付いたのか、彼は毒々しい紫の唇で笑った。

「もう二十年も過ぎたんだねぇ…僕ぁ、君が僕の側に居た頃のことを、昨日のように覚えているよ」
「……、あんた、何でっ」
「あの頃の君は、毎日僕を殺そうとしてきたよね。あれは、すごくいい退屈しのぎに良かったよ」

ヤスの問い掛けには答えず、サンは回顧録を紐解くように何処かを眺めながら語っている。
前髪に隠れて見えないが、恐らくその目はひどく柔らかい形に細められているのだろう。

「ねぇ剣士クン、僕は君を儀式屋クンにあげたことを、最近後悔してるんだよ」
「…後悔?」
「だってどうだい、あの頃の君は孤高の狼だったのに、今じゃ牙をなくして首輪をつけられた仔犬じゃないか。こんな腑抜けになっちゃうなんて、僕は不服だよ」

ずいっと彼は顔をヤスに近付け、困惑の色を浮かべる目を覗き込む。
ほらね、とサンはヤスの顔を指差す。

「今、君は僕の首を切りに来なきゃいけないのに、右も左もわからないような目をしてる」
「俺は、そんなことは…!!」
「ほらほらそれだよ。そんな人間くさい道徳に囚われて、僕を殺せないでいる。躊躇わず、その剣で僕を切り殺すんだよ」
「!!」

サンのぞっとするほど甘ったるい声と言葉に集中してしまったせいで、ヤスは自分が彼の言葉に誘導されてしまったことに気付いた。
無意識に剣を抜き、それをサンの首筋に当てて、今まさに胴体と切り離そうとしているではないか。
どっと冷や汗が全身から吹き出し、慌ててヤスは身を離して剣を鞘に収めた。
その様を見て魔術師は、大層おかしそうに笑う。

「あははっ!!本当に変わらないね、折角のチャンスを溝にまた捨てちゃうなんて…」
「なんなんすか、さっきからあんた!!」
「だからさ、あの頃に戻ろうって言ってるんだよ」
「………、は?」

完全に予想外の返答に、それまで剣呑な雰囲気を放っていたが、急激に萎んだ。
代わりに、疑問符が彼の頭に浮かび上がる。
戻る?いったい、何を言っているのだ、魔術師は。