深々とナイフが刺さった悪魔は、再び地面に倒れ込んだ。
それきり、悪魔は動かなかった。
暫くの間、マルコスは茫然と琥珀の瞳に、事切れた相手を映していた。
あまりの出来事に、マルコスはJに声を掛けられるまで、何も言うことが出来なかったのだ。

「悪かったね、坊ちゃん」
「……あ…いえ、僕こそすみませんでした」

Jが何に対して謝っているのか最初は分からなかった。
だが、徐々に停止していた脳が動き出し、彼が貴重な証人の命を絶ってしまったことについて謝ったのだと理解する。
マルコスは、もう一度首を振り、言葉を重ねた。

「Jさんは、僕との約束を守られただけですから」
「ま、そうなんだけどさ。しかし恐れがないからって、俺の存在まで忘れられちゃ困るよね」

言うことを聞かないどうしようもない子どもに対するかのように、Jは独り言を呟いた。
恐れがない──だから、マルコスに襲い掛かってみせた、ということだろうか。
他区の貴族の当主を手に掛けることにさえ、全く怖じ気つくことはない。
それが勇敢な姿だったかと問われれば、そうではないとしかいえない。
あれは、精神世界の支配者は自分たちであるという、狂気さえ感じられるほどの盲信から来る、蛮勇だ。
そんなものだけで、彼らは突き進むというのか。
だとしたらそれは非常に危険で、無謀としか言いようがないだ。

「恐れがないってのは、ただ馬鹿みたいに何も考えなしにって意味じゃないよ」
「え?」

マルコスの考えを読んだのか、悪魔の額からナイフを抜き去りながらJは答えた。

「言ったよね、俺。十六区の繰り返しは避けたいって。つまり、こいつらは十六区が成し遂げられなかったことを、成し遂げ得るだけの情報を持ち、いつでも条件が揃えばミュステリオンはおろか、精神世界すら乗っ取れる状態にあるってことだ」
「もう失うものは何もない、だから恐れがないということですか」
「それからもう一つ。多分、魔術師が動かなかったことも要因の一つだね」
「……魔術師」

ひゅっと、マルコスは息を飲んだ。
五百年前の大戦時、ミュステリオン側が勝利を手にしたのは、紛れもなく魔術師サニーロードの力添えがあったからに他ならない。
自分はその頃に生まれていなかったため知らないが、伝え聞くところによれば、それはそれは、凄まじいものだったらしい。
故に、魔術師にだけは絶対に反旗を翻すようなことは、どの区においても禁じられており、結果的にミュステリオンに逆らうことも本来してはならないのである。
だが、二十年前の反乱時、魔術師は動かなかった。
マルコスは今までそこにそれほど大きな意味を見出すことは出来なかった。
抜き去ったナイフを弄びながら、言葉を付け足す。

「ま、あんなヘンジンなんて、気紛れで動いてるようなもんだから分かんないけどさ。でも、君ら──あー、革命派にとったら、動かなかったという事実は、事実だ。十六区が命を賭して証明したことにより、勢いづいたんだろうね…だから、あちこちで革命を起こそうと、悪魔が動き出したんだ」
「……Jさん、最初に会った時に分からないとかおっしゃってましたけど、ほぼ分かっておられますよね」
「何言ってんだよ。これはこの悪魔が言ったことを繋ぎ合わせた結果だよ。それに、肝心な部分を聞けてない」

さらりとマルコスの疑惑を受け流し、Jはぐっと彼に顔を近付けた。
納得がいかないマルコスではあったが、Jが口にした“肝心な部分”という箇所に興味をそそられた。

「肝心な部分?」
「当主の行方と、この屋敷の状態。それに、革命を成功させるための条件さ」
「……確かに」
「ま、聞く前に俺が殺しちゃったから仕方ないし……ってことで、ちょっと失礼」
「!?じぇ、Jさんっ!?」

吸血鬼がきちんと真面目に考えているのだと感心したのも束の間、いきなり彼は死んだ悪魔の衣服を漁り始めたではないか。
マルコスの感性からすれば、そうした行動はたとえ敵であったとしても死者への冒涜のように思えてならず、下手をすれば気を失いそうだった。
が、Jがそんなことに構うはずもなく、悪魔の衣服を引っ剥がして何かを探している。

「お、あったあった」

そう言って悪魔の尻ポケットから、四角い無機質の物体を取り出した。
にやり、と犬歯を零して笑う男に、マルコスは何やら言い知れぬ恐怖を覚える。