「無駄なことを……」

悪魔はぼそりと呟き、即刻布を叩き落とした。
時間にすれば僅か一秒ほど、視界を奪われた程度だ。
痛くも痒くもない目眩ましだと、彼は思った。
だが、視界がクリアになると、悪魔は動揺を隠せなかった。
吸血鬼がいなくなっているのだ。
一瞬間を置いた後に振り返ったのは、勘が良かったのか、それとも運が悪かったのか。
赤と白の頭髪の男が繰り出した蹴りが、見事に悪魔の顎へとヒットする。
まるで、悪魔がこちらへ振り向くのを予想していたかのような攻撃である。
先刻前のJと同じように床へ伸びた悪魔を、更に追い討ちをかけるように迫る。
そして、何処かに隠し持っていたのかナイフを取り出すと、悪魔が起き上がる前に、その手の甲と床を縫い付けた。

「ぐぅ…っ!?」

刺された瞬間、とんでもない痛みを悪魔は感じた。
傷口からまるで炎が上がっているような感覚で、全身をじわじわと蝕んでいくのだ。
それが何故なのか、悪魔はいやというほど知っている。
何とかしてそれを引き抜こうとするが、それより早く吸血鬼に反対側の手を踏みつけられた。
思わず琥珀の瞳を向ければ、いい笑顔の吸血鬼と目があった。

「さぁ、話を聞いてやるよ。じっくりとね」

まさに形成逆転とは、このことを言うのだろうと傍観していたマルコスは思った。
今現在、床に倒れている悪魔ではあるが、無駄のない攻撃を仕掛けてきた所を見るに、かなりの手練れだろう。
だが、それを上回ったこの吸血鬼の力に、少年悪魔は驚きを隠せなかった。
以前、ミュステリオンのシスターや自身の区の悪魔達に命を狙われた時にも助けてもらったが、その時は彼の実力をこの目で確かに見たわけではなかった。
漸く今回、初めて彼の力を見たわけだが、マルコスはこんなに楽しそうに戦う人物を見たことがなかった。
自分たち悪魔は、ミュステリオンを常に警戒し、その命の危機に瀕しながら生きている。
何の因果で、滅ぼされるか分からない恐怖に晒されているのだ。
だから戦う時は、それこそ命懸けというのが当たり前だった。
しかし、Jからは微塵もそんな気配は感じられなかった。
彼も人間ではないため、本来ならば生きるために戦う道を選択するはずである。
だがどう見ても、そんな意思は何処にも見受けられないのだ。
戦うということ自体を楽しみ、絶対的な自信を持ってして立ち向かっていく。
一体この男は、何者なのだろうか。
同族を尋問する吸血鬼を眺めながら、マルコスは改めてJが敵でないことに安心感を覚えた。

「あんたは誰だ?一体此処で何をしている?」
「………っ」
「此処へ来るまでにいくつか部屋を見たけど、あんたたちの間で諍いがあったのか?それとも、第三者に荒らされたのか?」
「…………」
「……、やれやれ、あんたは死んでも口を利きそうもないね」

頑なに口を噤む悪魔に、Jは呆れると共に感心すら抱いた。
ナイフが貫通した手からは、全身が焼かれるような痛みを感じているはずなのに、呻き声すらあげない。
堅く口を閉ざす貝ですら、火を通せば開かずにはいられないというのに。
この悪魔は、余程誰かへの忠誠心が強いらしい。
だがいつまでもこうしているわけにもいかないのだ。
いつ誰が来るかも分からないし、あるいは貴重な手がかりがかき消されてしまうかもしれない。
Jが最良の方法について考えていると、すっと自分の隣に小さな影が落ちた。
今まで遠くから様子を窺っていた、マルコスである。
少年悪魔はJには顔を向けず、苦痛にもがく悪魔に視線を投げかけていた。

「……Jさん、すみませんが彼のナイフを外しても構いませんか」
「坊ちゃんっ、正気!?」

マルコスの申し出に、Jはやや声をひっくり返して思わず顔を覗き込んだ。
ナイフを抜くということは、この悪魔を自由にするという意味だ。
それをこの少年当主は、正しく理解しているのか。
覗き込んだ先の顔は、琥珀の瞳を真っ直ぐにJに向けて来た。
あまりの無垢なその目に、Jは自分の発言が誤っていたことを自覚した。