六章§01

「……よし、やっと撒いたな」

神父ベンジャミンの安堵の声が、深緑色の絨毯へ溜息と共に吸い込まれた。
もう地平線に潜り掛けの夕陽が廊下の窓から差し込み、壁にもたれ俯く彼の横顔を茜色に染め上げる。
その顔には隠しきれない疲労が滲み出ており、彼の外見を十歳ほど上に見せていた。
それもそのはずで、神父エドと悪魔三人を捕らえミュステリオンへ帰還後、彼は休む間もなく厄介事を片付けねばならなかったのである。
帰還直後から、ミュステリオン総務局広報課の質問攻めに遭うこととなり、それを適当にはぐらかした後も他局の人間が纏わりついて離れなかった。
やっと一人になったかと思えば、次は同僚の暴れん坊シスターとそのパートナーから訳の分からぬ質問をされ、何故かしらシスターからは有り得ない罵声を頂いた。
それから嫌々ながらも総務局へ出向いて、必要な書類を貰って素早く退出。
が、またしてもしつこい広報課に追いかけ回され、先ほど漸く逃げおおせたところなのである。

「……もう少ししてから移動するか」

そう呟いた彼は、何とはなしに辺りを見渡した。
ミュステリオンのシンボルカラーである緑、白、銀の市松模様で構成された廊下。
館内のありとあらゆるところがその色で統一されており、ミュステリオンの魔術師への敬意を片時も忘れさせないようにしている。
だが、それも徐々に薄まって来ている、とベンジャミンは最近強く感じていた。
敬意を未だに払うのはほんの一握りで、新参者になればなるほど、敬意など──まして畏怖するなどという気持ちがほとんどない。
その理由も簡単で、魔術師があまり表に出ないことが原因だ。
だが一度でも見れば、彼の恐ろしさと独特の雰囲気を体感することとなろう。
それだけ彼は──魔術師サニーロードは、誰にも逆らえぬ存在なのだ。

内ポケットから小さな振動が伝わった。
取り出した携帯電話の表示を見て、ベンジャミンは顔をしかめた。
周囲を確認してから通話ボタンを押し、耳にあてがう。

「……はい?」
「神父ベンジャミン、貴方の報告はいつになるのですか」

機械音声が話しているのかと錯覚するほど、感情を何処かに置いてきたような声が尋ねた。
思った通りの問い掛けだ、とベンジャミンは内心舌打ちした。

「それがね副局長、色々と追いかけ回されて、そっちには今日中に辿り着けないと思われるな」
「そうですか。では結構、一つだけ質問に答えなさい」
「……、報告はいらないのか?」
「既にシスター・ミュリエルから受けています」
「あー……そう」

くるくる金髪の小さなシスターが、ベンジャミンに向かって舌を出している姿が、脳内に浮かび上がった。
腹立たしい気持ちが湧き上がるが、今は押さえ込んだ。
全てを嘆息に変えて、電話の主の問い掛けに耳を傾けた。

「それで、質問は?」
「今回、協力者がいたそうですね。それは誰ですか」

俄かに神父の表情が堅くなった。
腹の中に爆弾を埋め込まれたような気分になり、ベンジャミンは間を置いてから口を開いた。

「……儀式屋の連中だ」
「シスター・ミュリエルの報告では、ピンクの髪をした眼鏡の男だったと聞いています。その男の名を尋ねたのですが、分からないとの回答でした……ただし、」

意味ありげに一度そこで言葉を区切り、再び聞こえてきた声は、僅かにベンジャミンを非難するような声だった。

「貴方のことを、ベニーと呼んでいたそうですね?」
「……副局長、断じて俺自らが接触したわけじゃない。悪魔を追っていたら、あいつが偶々そこに居合わせただけだ。それに今回の一件は、はっきり言えばあいつの協力なしでは解決しなかった」
「貴方の情の深さには感心しますね……ですがそれは、あの男には必要ないものです」
「聞け、アンリ。俺は、」
「違うとは言わせません。もし違うというのならば、何故その時にあの男を殺さなかったのですか!」

脳を揺らすほどの怒声が鼓膜を貫いた。
だがベンジャミンはそれに嫌な顔をするわけでもなく、ただ憐憫の色を示した。
普段は機械仕掛けのような男が、制御装置を無視して暴走しだしたような怒りを呈する理由を、ベンジャミンはよく理解している。
男の弁は正論で、何一つベンジャミンは反論の余地がない。
あの男──アキを殺さなかったのは、正しく自分が情けを掛けたためだと言っても間違いではない、そうベンジャミンは頭の片隅で思った。

六章§02

ベンジャミンが黙っている間にも、副局長アンリは彼を糾弾する。
糾弾される側の髭の神父は、電話を介しているというのに、目の前で言われているような気分だった。

「忘れたのですか。あの男は、我々全異端管理局の唯一の汚点であり、ミュステリオンの脅威となる存在です」
「…………」
「あの男は許し難い大罪を犯したのです。特に貴方は、覚えているはずですが」
「…………」
「これが情けでないならば、貴方をとんだ腰抜け神父と呼ぶほかありません」
「……アンリ、お前は賢い男だ。だったら分かれ、今のあいつを殺すことは得策じゃない」
「えぇ、そうでしょう。ですがそれとこれとは……」

と、そこでアンリの声が途切れてしまった。
アンリ、とベンジャミンが呼び掛けるが返答はない。
耳を澄ませば、どうやらスピーカー部分を手で押さえているらしかった。
くぐもった声が微かに聞こえるが、はっきりとは聞き取れない。
暫くは黙っていたが、長針が一つ動いた頃には、流石に不安が募ってきた。

「……おい、アンリ?」
「やぁベンジャミン。残念ながら、アンリじゃなくてすみませんねぇ」
「っ、局長!?」

思わず彼は大声を挙げてしまった。
鼓膜を叩いた掴み所のないような声は、異端管理局長その人のだ。
途端にベンジャミンは、目の前にいないにも関わらず、背筋をしゃきっと伸ばした。
それが想像出来たのか、電話の向こうの人は声を立てて笑った。

「ベンジャミン、そんな改まらなくても構いませんよ」
「局長にはお見通しのようですね」
「ルイで結構ですよ、いつものようにして頂けた方が、こちらも話しやすいですし」
「……ルイ、その、アキの件だが」
「彼は元気でしたか?最後に見たのは、確か200年前でしたか」

穏やかな声の問い掛けに、ベンジャミンは遮られた言葉の続きを飲み込んだ。
ぐっと下唇を噛み締めて腹の奥底へ仕舞い込むと、ルイの問いに彼は答えた。

「ああ、相変わらずだったよ」
「それは良かった」
「なぁ、ルイ。俺は……」
「ミュリエルは彼を知らない、エドも知らない。アキを知っているのは、貴方だけです」
「……確かにそうだが、」
「今回の報告で重要なのは、エドが悪魔と共謀しミュステリオンを裏切ったということ。しかしそれは儀式屋の人間の協力なしには、防ぐことは出来なかった……それでいいでしょう?」
「…………、ルイ」

僅かに彼の声が震えた。
局長が告げたそれは、甘過ぎる自分の考えを肯定するものだった。
アキがかつて犯したことを、忘れてはいない。
彼が仕出かしたそれは、ミュステリオンに莫大な損害を被らせた。
以来、アキは悪魔の次に危険視される存在となった。
ゆえにアキと一緒にいる所を誰かに見られては、それだけで大事なのだ。
だからアンリが言ったこと──その場でアキを始末することは正しい。

「副局長は、ベンジャミンを心配して言っているだけですよ。何も深く悩むほどのことじゃありません」

そんなベンジャミンに、ルイが諭すように優しく声を掛けた。
ベンジャミンは目頭や喉へとせり上がる熱いそれを一瞬にして感じ、だが必死に抑え込んだ。

「……すまない、ルイ」
「でも気を付けて下さいね。今回はたまたま好条件が揃っただけ。次回あったら、庇いきれないと思って下さい」
「了解」
「では、私はこれから会議に参加しますので、これで」
「ああ、……有難う」
「どういたしまして」

きっと微笑みを浮かべながら電話を切ったろうルイに、ベンジャミンはもう一度心の中で感謝の言葉を述べた。



「……どういうおつもりで?」

携帯電話を返却されたアンリが問い掛けた。
作り物かと思う程に表情を欠落させた横顔は、既に扉に向かい歩き出した背を睨んでいる。
それに対して、鳶色の髪を翠玉色のベレーの下から覗かせる彼は、立ち止まりも振り返りもせずに答えた。

「ベンジャミンを責めて、何の得があるというんです?」
「局長、私は決して彼を守るために言ったのではありません。私は、貴方のために言ったのです」
「えぇ、分かっていますよ。間違いなく正論です。アンリの正しさに救われてきたことは計り知れません。…ですが、少々直情すぎるのが玉に瑕です」
「────」
「それよりアンリ、急ぎますよ。会議に遅れては、それこそ我々の質が落ちます」
「……承知しました」

眼鏡の奥に嵌る闇のような瞳は、物言いたげな色を宿したが、瞬きした後には何もなく、ルイの背を追い彼は翡翠の絨毯を踏んだ。

六章§03

精神世界には、二大勢力が存在する。
一つは世界のルールとして君臨する女王だ。
リベラル本人の力は言うまでもなく絶大であり、彼女の定めたルールに従わぬ者は容赦なく裁かれる。
更にその配下の“女王の駒”と呼ばれる彼らも侮れない。
血のように赤い軍服に身を包み、ルールたる彼女自らが手を下す必要がなければ、彼らが代行して裁くケースが多い。
彼らは精神世界のあちこちへ散らばり、女王の意向に従って世界の安寧を計る役を負っている。

その彼女らに拮抗する勢力が、ミュステリオンである。
悪魔街を支配し、サンを背後に付け、儀式屋をも大人しくさせている機関だ。
500年以上前、彼らは現実世界へと侵攻してきた悪魔を精神世界へ追い返し、更には精神世界自体を支配下に治めようとした。
ところがそれを良しとしなかったリベラルが、世界のルールとして突如現れ、それが不可能となった。
リベラルの絶対ルール──何人にも、精神世界そのものを支配させることを禁ずるという、それ。
彼女の全ての自由を代償に、精神世界は誰のものでもなくなった。
当然ミュステリオンは猛反発したが、リベラルに手を出すことは出来なかった。
以来、互いに手を出すことはタブーとし、絶妙なバランスで均衡を保っているのである。


そのミュステリオンを、現在、非常に緊迫した雰囲気が覆っていた。
異端管理局の神父ベンジャミンとシスター・ミュリエルの両名による、異例の出来事のせいだ。
あまりに異例だったため情報は錯乱し、どこもかしこも混乱状態に陥っていた。
そこで急遽、各局長による会議が開かれることになったのである。
ミュステリオン本部─悪魔街からさほど遠くはない場所に位置する─にある中央会議室では、既に名だたる局長の顔ぶれが並んでいる。
コの字状に机は並び、さほど広くない部屋に密集しているためか、嫌に狭苦しい圧迫感がある。
全員が漆黒の衣装に身を包み、どの顔も沈鬱な面持ちのせいもあるだろう。
奥の座席は空いており、そこはミュステリオン総統の席だった。
会議は彼が座席に着いてから開始されるため、室内は未だざわついている。
その囁きに耳を澄ませば、大半は今回の事件の噂である。
全くといっていいほど、事件の詳細を知る者はいない。
故に、やや勝手な憶測が飛び交っており、実際の事件から話の軸がずれた見解を呈する者もいた。

「──ミュステリオン総統閣下、御成遊ばされました」

総統の座席の背後にある、翠玉色の垂れ幕の向こうから、到着の知らせが聞こえた。
ぴたりと話し声が止むと同時に、幕が両脇に割けた。
局長たち全員がそちらに注目し、一斉に席を立ち上がると最敬礼をした。
かつんと軍靴を鳴らし一歩踏み出したその人は、まるで鷲を思わせる風貌だった。
孤高の存在たる雰囲気が指の先にまで行き渡っており、無駄な動きを許さない。
ぴんと背筋を伸ばし自らの座席に着くと、猛禽類のような眼孔を巡らせた。

「……皆、楽にしてくれ。急な召集に応じてもらってすまない」

一同が腰を下ろしたのを確認し、彼はさて、と言葉を続けた。

「早速議題に入りたいが……、肝心の全異端管理局の彼は、まだいないようだな」

猛禽類の瞳は、己から一番遠くにある空いた座席を見つめていた。
自然と、他の面々も視線を遣る。
特に何の感情も覗かせることはなかったが、中には忌々しそうな視線を向ける者もいた。
ただでさえ緊迫している室内が、やや重苦しい雰囲気に飲まれて、誰かが何か言えば、それが起爆剤になりそうである。

「おや……皆さん、お揃いでしたか」

そしてそれは、問題の本人によりもたらされた。
静かに扉が開き、翡翠のベレー帽を被った全異端管理局長ルイが、穏やかな声音で入ってきたのである。
冷ややかな視線が全てルイに注がれるが、彼はそれらを無視し、真正面の男へ顔を向けた。

「申し訳ありません、総統閣下。遅参しましたこと、お許し下さい」
「気にするな、ルイ局長。召喚に応じてくれたこと、感謝する。席に着け」

深々と頭を垂れたルイに彼はそう声を掛けた。
許しを得たルイは頭を上げ礼を述べると、己の背後に付いてきたアンリを促して、唯一の空席へ腰掛けた。

「──では早速、始めよう」

ルイが席に着いたのを見届けると、彼は開始の合図を口にした。

六章§04

精神世界にも季節がある。
柔らかなベールが世界を包み込むような陽光が射す、麗らかな春の気候。
地を焼き尽くすかの如く燃えるような熱さと、突き抜ける青が眩しい夏。
この二つの季節が、延々と繰り返されるのだ。

穏やかな春が終わり爽やかな風と共に夏が訪れる。
真夏という程ではないが、外に出れば春の空気ではないそれが肌を刺激する。
だが室内となれば話は別で、それらを感じることはない。

「やれやれ、嫌な季節に移り変わったものだね」

執務机に向かい愚痴を零したのは、死者のような白い顔の儀式屋だ。
眉間に小さく皺を刻むその顔は、珍しく不愉快さを滲ませている。
それに対して、まぁ、と鏡の中の美女。

「滅多に外出しない人が、言う台詞じゃないわ」
「アリア、私は別にそのことを言っているわけではないよ」
「あら、じゃあ何かしら?」
「暑い暑いと煩く喚き立てる輩が、現れる頃だということだよ」
「……ああ、そういうこと?てっきり私、貴方が暑いのが嫌だって言うと思ったわ。それなら坊主にしたら?って提言したかったのに」

ころころと鈴を転がすように彼女が笑うと、咎めるように彼は彼女の名を口にした。
佳人が口元に微笑を残して謝罪した直後、

「で、俺様はもう話させてもらえるのかな?」

いい加減待ちくたびれたような声が、二人に問い掛けた。
儀式屋は不満そうだった顔を、いつもの薄ら笑いに変えた。

「おやおや、不服そうな顔だね」

相変わらず濃い隈が塗りたくられた目は、指摘通り不満そうに細められて、儀式屋を睨んでいる。
執務机から数メートルの距離をもったところで腕組みをする彼より先に、儀式屋が口を開いた。

「私は、君の帰りを気遣ったまでだよ」
「……だったらさっさと済ましてくれ。無駄話をされちゃ、連れ戻された意味がないってもんだろ?」

……アンソニーの美術館での事件が一段落し、今からもてなしを受けようとしたところで、アキは急遽儀式屋に呼び出されたのである。
正しくは儀式屋の“影”が、アキを飲み込み連れ戻したのであるが。
それゆえアキは不機嫌なのだが、実際そこまで大きく文句も言えない。
あと半時間もすれば意識が途絶えて、数時間は起きないのだ。
その自分をヤスに任せて連れ帰ってもらうのも気が引けていたため、儀式屋の召喚は有り難かったのである。
ちなみに、ユリアとヤスはまだアンソニーの屋敷だ。

「あらあら、ごめんなさいねアキ君。腕も怪我してるのに、お待たせしすぎたわね」
「女神様の謝罪はいいのさ、全然。それに、怪我はとっくに治ったさ」

ほら、とアキは羽織っていたジャケットから左腕を抜き、シャツの袖をたくし上げた。
先刻、悪魔との戦闘において切り裂かれた彼の左腕は、今や何処が切られたか分からない状態だ。
アリアだけでなく、ルビーを嵌めた主人の両目が細められたのを確認すると、アキは袖を下ろした。

「綺麗に治るわね、毎回毎回」
「まぁな、汚いのよかいいだろ?」
「そうね。ボロボロのアキ君は、私は嫌だわ」
「そりゃ有り難いぜ」

鏡の中の女神の言葉に、アキの表情は若干和らいだ。
それを敏感に察知した彼女は、我が子を見るような眼差しを彼に注いだ。
長年彼と接しているアリアだからこそ、些細なアキの変化に気付けるのだ。
几帳面に袖を直しジャケットに腕を通すと、若干機嫌がよくなったアキは、儀式屋をその昏い瞳に映した。

「で、何から報告が必要?」
「ふむ……君に任せよう」

薄ら笑いの口元を組み合わせた手で隠しながら、儀式屋は答えた。
そうかい、とアキは呟くと数秒間黙した後で口を開いた。

六章§05

「……まずは悪魔街の報告からした方が、いいか」
「ならそうしたまえ」

儀式屋からの許可を得ると、アキは一つ咳払いをしてから報告を始めた。
しんと静まり返った部屋に、アキの朗々とした声が響く。

「とりあえず、区の半分以上は革命派になってきてるぜ。当主が維持派でも、革命派の連中は蔓延りだしてる……正直、時間の問題だろうな」
「……ふむ、予想通りだね」
「奴らに聞いたとこによれば、一つ崩れたら全ての終わり、らしいな。まぁそのお陰で、俺様ってば悪魔の皆さんに追いかけ回されたんだけどな」

はんっとアキは笑い、両肩を竦めてみせた。
多少自嘲気味な男に、儀式屋は両目を細めた。

「またいらぬことでも言ったのであろう?」
「別に?俺様はJほど面倒ごとは起こしたりしない性格だぜ?」
「ふむ、まぁいい……ところでそれは、革命派の区が、ということかね?」
「さぁ、そこまでは。だが革命派は、確実に終わらせる方法を知ってるのだけは確かだ」
「おやおや……」

困惑したような声音で儀式屋が呟いた。
表情にこそ出ていないが、どうやら不意打ちだったらしい。
その話を聞いていたアリアの方が、その美貌を険しいものに変貌させる。
何かしら彼女も、それが持つ危険性を危惧しているようだ。

「アキ、確信はあるのかね?」
「……アンソニーのコレクションに、十六区の手記があったんだが、今回悪魔は、それを狙ってきた。アンソニーがいうには、そこに書いてあるそうだ……、ミュステリオンはそれに気付いていないらしいが」
「──、儀式屋?」

深海の瞳を伏せて話を聞いていたアリアが、ふとその目を開いた。
見れば上から下まで漆黒の主が立ち上がり、闇色のコートに袖を通している。
美女の不思議そうな問い掛けに、口角を持ち上げた白い顔が振り返った。

「少し、出掛けるよ」
「何処へ?」
「Z世のところへ」
「……、そう」
「……?」

今し方、美女の麗貌を過ぎった陰はなんだったろうか?
微かな緊張と不安、それから──

「アキ、報告の続きは後程頼むよ」
「え、おい儀式屋!?」

それ以上の分析は、儀式屋の一言で中断させられた。
はっとしてアキが振り向き声を掛けたが、闇を纏う主は音も立てず既に消えていたのである。
アメジストの瞳を目一杯に見開き、暫く呆然としていたが、やがて諦めたらしく、深い溜息を吐き出した。

「ったく、思い立ったが吉日ってやつ?すーぐ行っちまうんだからよ……」
「仕方ないわ。あの人、自分に利がないと分かると、すぐに原因を解決したがる性格だから」
「やれやれ……じゃあ、アリア。君に話しとく」

桜貝色の頭を掻きながら、せめてもの妥協だと言わんばかりの口調で答えた。
それを感じ取った女神は、柳眉を鋭利な角度に吊り上げた。

「あら、私じゃご不満?」
「あ、あー……違う違う、そうじゃなくて…ほら、俺様、今はアキだけどもう少しで“アキ”に戻るだろ?そしたら暫くこの体はおねんねだからさ、アリアに話しとく方がいいだろ?」
「……、まぁいいわ」
「ご理解頂けて光栄だよ」

女神の機嫌はそれほど損なわなかったようで、アキはほっとした表情で続けた。

「儀式屋に一時報告でした内容だが、それの追加だ」
「……聞いたわ…亡霊街ーゴーストストリートーだそうじゃない。見たの?」
「ああ。だが、俺様が見たわけじゃない、あそこの連中だ」
「信用出来るのかしら?」

アリアの眉間に皺が寄せられた。
大丈夫さとアキは大きく頷いてみせた。
半信半疑そうにするアリアが先を促すと、彼は僅かに声量を小さくし、ゆっくりと答えた。

「亡霊街にある違反者どもの掃き溜め……ラビリンスだ」
「何ですって……!?」

深海色の瞳が大きく見開かれ、麗人の口から驚愕の叫びが漏れた。
彼女の反応はもっともだとばかりにアキは平然と受け流し、更に言葉を連ねる。

「賢い選択だ。まさかあんなところにとは思わない……最も安全かつ忌避すべき場所だからな」
「えぇ……えぇ、そうでしょうね。ああでも……アキ君、」
「アリア、あとは儀式屋に任せるしかない。いくら俺様でも、不可能だ」

左右に首を振る男に鏡の中の佳人は、ただただ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるほかなかった。
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