三章§34

階段を上る途中で、ユリアは不安に思う。
やはりJは、無理をしていたに違いない。
大体、あんなにぼろぼろなのに、何処が大丈夫などといえるのだろう。
あの服に付着していた血は、きっと彼のものだ。
ほんの少し、彼が黙っていたことに、何故だか胸の奥が苦しくなった。

(とにかく、儀式屋さんに知らせなきゃ…きっと儀式屋さんなら、なんとかしてくれる)

最後の一段を上り切り、床に足を掛けて廊下を駆け足で渡る。
二階の南棟、その奥の部屋が儀式屋の私室。
長く伸びる木目に添うように進み、儀式屋の元へ。
が、ユリアは急にその行動を妨害された。
どんっと、何かにぶつかり尻餅をついてしまったのだ。

「いたた…あ、すみません儀式屋さん……え?」

ぶつかった感触からして、壁ではなく柔らかいものだった。
となればそれは、誰か人と接触したことになる。
ヤスとJは一階にいるし、サンの行方は分かっていない。
ということは、二階にいるはずの儀式屋が残る。
だから少女は、彼の名を出して謝ったのだ。
だが、すぐにそれは間違いだと気付く。

目の前には、最前まで床に倒れていた、人物。

「J……さん…?」

やや薄暗い照明の中、見上げた先に居たのはは、紛れもないJだ。
しかし少女は違和感を覚える──これは、知っている彼ではない。
何が違うのか、じっと見つめてユリアははっとした。

前々からやけに鋭いと思っていた歯が、上下共に更に鋭く伸びているのだ。
悪戯な光を称えていた金瞳は、瞳孔が見開かれている。

その様はまるで獰猛な──獣。

「どう、したんです、か…?」

いつの間に現れたのか、などはどうでも良かった。
というよりも、思考がそこまで追い付かない。
何かが、心の奥底から喚いている。
ユリアはこの感覚を知っている、自分が此処へ来ることになった原因、その時に感じた並々ならぬ、恐怖だ。
床に置いた手が、じっとしない。

「……………」

見下ろしてくる彼は、微動だにせずユリアを見つめている。
と、彼は一歩踏み出した。
びくっと、ユリアは体を震わせた。
そして、小刻みに動く手で必死に床を押し、その“生き物”から離れようとする。
だが上手く手は動いてくれない。
手から分泌された汗で滑る。
その間に、元々短かった距離はすぐに詰められ、伸びてきた手が、ユリアの肩を掴んだ。

「!いや、離して!」

ぱんっ、と手を叩いた。
一瞬、手は離れたが、今度はより強い力で掴まれた。
その強さに、ユリアの肩は悲鳴を上げた。

「痛っ…やめて、Jさん!」
「……………」

名を呼ぶ、だが答えてはくれない。
そのまま彼は身を屈めると、反対側の手でユリアの首筋をゆっくり撫でる。
真っ赤な舌が、長い牙を舐めた。
彼の顔が近付き、ユリアの首筋に熱い息がかかる。

「あ……あ…」

ユリアの思考が、Jのその行為を見て一つの可能性に思い至った。
まさか、彼は──

「貴方…吸血鬼、なの…?」

小さな小さな声。
それが、Jの動きを止めた。
彼の血色の髪が、揺れる。
何の反応も示さなかった彼が、その単語に反応した。
もしかしたら、正気に戻ったのだろうか?

「Jさっ…!!」

だがその一縷の望みは、簡単に崩れた。
思い切り押され、強かに頭を床にぶつけた。
次いで肩を押さえていた手が、今度は首に回された。
きゅっと力を込められ、呼吸が苦しくなる。
やめて、と手をばたつかせたが、彼は止めようとしなかった。

「か…はっ…」

擦れた声が、頼りなげな光源に照らされた廊下に響く。
荒い呼吸を繰り返し、繰り返し、意識を途絶えさせるまいとする。

再び、汗ばんだ首筋に彼の吐息がかかる。
このままでは、いけない。
だが、どうすることも出来ない。
彼の口腔が開く、牙の先端が触れる。
それが絶望的で、ユリアは抵抗するのを止めた。
同時に少女の瞳を涙が覆って、目を閉じれば頬を伝った。

だがその凶器-牙-が、とうとうユリアの首筋に噛み付くことは、なかった。

三章§35

頭上を、一陣の風が通っていった。
刹那、ぴりっと首に微かな痛みを感じた。
それから、首の締め付けがなくなって、急激に酸素を吸い込んだためにむせ返る。
むせていると、体が誰かに抱き起こされた。
その時初めてユリアは、黒い瞳を開いた。

「J、いったい何やってるっすか!」
「ヤス…さん…?」

柔らかな茶髪が視界に入り、癖のある喋り方で誰だか気付いた。
ユリアの声に、ヤスは腕の中の少女に目を向けた。
眉が八の字になり、安心したような顔だ。

「…大丈夫っすか、ユリアちゃん」
「はい…」
「良かった…本当に良かった…」

ぎゅうっと、逞しい腕が少女の体を抱き締めた。
壊さないような優しさと、でも生きていることを確かめる強さをもって。
束の間そうしてから、ヤスは急に顔を真剣なものにする。
ユリアもそちらを見て、身を硬くした。
仰向けになる形で、吸血鬼が倒れているのだ。
無意識に、回されたヤスの腕を握り締める。

「ヤスさん…ど、して…?」
「ユリアちゃんがあんまり遅いっすから、見に来たんすよ。そしたらJがユリアちゃんを襲ってたっすから…思い切り頭を蹴り飛ばしてやったんすよ」

そう話しているうちに、ぴくりとJの腕が動く。
ヤスは神経を研ぎ澄まし警戒する。
吸血鬼は、だが起き上がる様子はない。
代わりに、そのままの姿勢で話し掛けてきた。

「………ヤス…くん…?」
「正気に戻ったっすか」

聞こえてきたのは、いつもの彼の声だった。
しかしヤスは、緊張を解かない。

「ごめん…頼みがある…」
「何すか」
「一人に、させてくれる…?」
「……、分かったっす」

弱々しく震える声に、ヤスは何か言いたげな顔だったが、下唇を噛むとユリアを抱えて立ち上がった。
目線が高くなったことで、ユリアはJを見下ろす形になる。
吸血鬼は焦点の合わぬ目で、ただ何処かを見て──哀しそうに笑っていた。

ヤスは吸血鬼に背を向けると、廊下を足早に元来た方向へ進んでゆく。
角を曲がるまで、ユリアはヤスの肩越しにずっと、一人暗い廊下に倒れこむ彼を見ていた。
その姿に、何故かユリアは瞳から雫が零れて、微かに痛む首筋に手を当てた。





階段を降りていく足音が消えてから、Jは深々と溜息を吐いた。
それから、顔面に腕を置いて。

「儀式屋……見てたんだろ…」
「そうだね、ずっと見ていたよ」

ぞわり。
炎が揺らめき、それまで誰も居なかったはずの場所へ、一つの影を落とした。
死者のように顔が白い、儀式屋だ。
儀式屋の声に、吸血鬼は笑った。

「悪趣味だよ、儀式屋」
「人聞きの悪い…私は、君がどうするのかを監視していたに過ぎないよ」
「じゃあ覗き魔だ」
「J……」

己の部下の散々な言い様に、漆黒の彼は呆れたように名を呼んだ。
儀式屋は赤い瞳を細めて、見下ろす。

「……まだ、耐えられるのかね?」
「……………」
「…痩せ我慢が、君は好きだね」

答えなかった彼に、儀式屋は薄ら笑いを口元に貼りつけた。
それからさっと腕まくりをし、顔同様に色のないそれを晒した。
そして、ポケットからナイフを取り出すと。

「我は汝に我の血を与え、汝は永遠に我の所有物となる──誓え、その命すべて我のものとなることを」
「……誓う、我、御身の所有物である」
「なれば、我の血を受け取るがいい!」

宣言、そして一思いに儀式屋はナイフを腕に当て、引いた。
腕に一筋の後がつき、そこが開いて真っ赤な──否、銀の液体が、浮き出た。
途端に、吸血鬼は身を起こすと、その腕に飛び付き上下の牙で挟み込んだ。
銀の液体を、一滴たりとも溢さないように、舌を押し当て傷口を舐める。
喉が動き、嚥下。
吸収され、全身に行き渡る。
見開かれていた瞳孔が、元に戻っていく。
長い牙も、見慣れたそれに変わる。
それでもJは、儀式屋のそれを摂取することを止めない。

「……飼い主付きの、吸血鬼か…」

闇色の男の呟きが、廊下にこだました。

三章§36

Jから逃げるようにして階段を駆け下り、スタッフルームにヤスは飛び込んだ。

「どうしたの二人とも!」

深刻そうな顔の青年と、その彼に抱えられ入ってきた少女を迎えたのは、たった今帰ってきた鏡の美女だ。
その麗人、アリアは、二人の姿に目を丸くした。
ヤスは赤いレザーのソファにユリアを座らせ、己はその対面、アリアに背を向ける形で腰掛ける。
それから、この事態の説明を待っている鏡の中の佳人へ。

「……、Jが、やっちまったんすよ」
「…どういうこと?」
「あいつ、ユリアちゃんの前で正体バラして、ユリアちゃんを喰おうとしてたんすよ!」
「何ですって…」

だんっ、とローテーブルに拳を叩きつけた音で、アリアの声は掻き消えた。
深い藍色の瞳が、信じられないと言いたげな色になり、震える彼の背を見つめる。

「J君、儀式屋の血しか飲めないはずよ…いったいどうして…」

そう、Jは契約を交わしたのだ。
儀式屋の血を与えられる代わりに、儀式屋に永久に仕えると。
立会人として、その日のことをアリアは鮮明に覚えている。
だからこそ、Jが何故ユリアを襲ったのかが分からない。
その疑問に答えるように、ヤスが口を開いた。

「……多分聖裁に遭ったんだと思うっす。じゃなきゃあいつが、理性失って、本性出して、ユリアちゃんを襲うなんて、考えられないっす…」

聖裁、その単語にアリアは胸を締め付けられる思いがした。
アリアはそれが、どれほどJを傷付ける行為なのかを知っている。

Jがミュステリオンと渡り合えるということ、それを称賛する者は多い。
だがJとて、そうしたくてしたわけではないのだ。

“何かに熱中してなきゃ、俺は俺であることを、忘れてしまいそうになる”

いつだったか、Jはそう言ったことがある。
彼は過去を持たない、契約の時に儀式屋へ全て渡してしまったから。
自分を定義するための名前さえも、彼は忘れてしまった。
だから、自分が誰なのかが分からなくて、彼は怖くなるのだ。
だから、敵として向かってくるものを、彼はその力を以てして闘う。
その時だけは、自分を必要とし憎んでくれる相手がいる──それが、それだけがJをJたらしめんとしてくれているのだ。

それがアリアには、彼が自虐的になりどうにも苦しんでいるようにしか見えないのだ。
引き止めたいのに、でもそのための手が彼には届かない。
ただ此処から見守るしか出来ない、それがアリアには歯痒かった。

「……っ…!?」
「どうかしたっすか、ユリアちゃ…えっ!?」

思考の底に沈んでいたアリアは、のっぽの青年の驚いたような声に反射的に顔を上げた。
ヤスは立ち上がり、ユリアの手を掴んで固まっている。

「どうしたの?」
「あ…姐さんっ、ユリアちゃんの…血が…」
「血…?」

アリアの覗く鏡の位置からでは、その状況がよく分からなかった。
やや困惑していると、少女がか細い震える声で告げた。

「わ…たしの、血…ぎん、いろ…」

真っ白な指先に付着した、本来ならば真っ赤な色のそれは、きらきらと輝く銀色だった。
深海色の瞳が、目一杯に見開かれた。

「…銀色って、まさか……姐さん?」

ヤスがそちらを見たとき、鏡の中は既に空っぽだった。







どのぐらい、そうしていたろう。
じゅっ、と唇が肌を吸う音がして、吸血鬼は漸く顔を上げた。
ぺろりと真っ赤な舌を出し、唇を舐め、嚥下。

「……満足したかい、J」
「ああ…」

手の甲で口を拭い、Jは返事をした。
儀式屋は頷くと、開いたままの傷口に反対の手を当てる。
傷痕に沿って動かせば、そこは瞬く間に元の陶器のような腕に変わる。

「瀕死状態とは…何年ぶりかね」
「さぁ?興味ないよ」

その様を傍目に、Jはゆったりとした動作で立ち上がった。
と、儀式屋は彼の長い髪を掴み上げ、両目共に覗き込んだ。

「……何?」
「君は、気付いたね?」

有無を言わさぬ語調で、儀式屋は金瞳に問い掛けた。

三章§37

黒衣の彼に向かって、Jは諦めたように口を尖らす。

「……いつも思うけど、それ、狡いよね」

紅い瞳。
それは、絶対的であり拒絶させないものだと、知っている。
Jは金瞳を細めて、それから吐息をひとつ。
逸らされない目を、睨み返す。

「……儀式屋とユリアちゃん、同じなんだろ」
「何がだね」
「儀式屋は、きちんとした実態を持たない、この世界に生まれた存在。そしてユリアちゃんは精神体…もはや元の体がない。つまり、両方この世界じゃ特異な存在だ」

こちらを見てくる目は、先を促す。
Jは一度唇を引き結んでから、口を開いた。

「俺は…儀式屋の血を摂取することで生きてる。だから、儀式屋の血の匂いを、俺は察知することが出来る。そして…そしてそれが、ユリアちゃんからも、した」

擦れた声音で、言葉を舌に乗せて音にする。
思い出したくもない、あの本性が垣間見えた瞬間。

「…俺は儀式屋の血の匂いと色を覚えている、そうすることで他人の血を飲まないようにするために。……でも、ミスが起きた」
「何かね、それは」
「分かるだろ儀式屋?あんたとあの子の血は同じ匂い…そしてきっと銀色だろ。平常なら俺は、抑えられた。でも瀕死にあった俺は理性を失い、この沸き上がる醜い欲望を抑えられなかった…だからユリアちゃんの血を、吸おうとした…!」

ぎりりっ。
吸血鬼の特徴である牙が、音を立てる。
それが忌まわしいものか何かのように、Jは顔をしかめた。
儀式屋は、それでも沈黙を守ったままだ。

ややもして、下手をすれば溢れだしそうな感情、それを抑え込み儀式屋に問う。

「…儀式屋、何故かつての俺は、この衝動さえも、あんたに渡さなかったんだろうな…?」
「…………」
「俺は、覚えてない。俺がいったい何処から来て、本名は何で、何歳で、家族は誰で、誰を愛し誰を殺して、儀式屋で働いているのか…俺は、何も知らないっ!知らない知らない知らない知らない!」
「J」

静かに儀式屋は、今にも発狂しそうな勢いでまくしたてた彼の名を、呼んだ。
奇抜な男は、ぴたりと叫ぶのを止める。
影のような彼の主人は、抑揚のない声を出した。

「君は、後悔しているのかい?」
「……馬鹿言わないでよ」

問われた内容に、今までの勢いは何処へやら、急激に熱が冷めたような口調になる。
あまつさえ、彼はニヒルな笑みを真っ赤な口唇に乗せてみせる。

「俺は、不満はないよ。俺の中を空っぽにして、あんたの物になった、それは当時の俺が下した最良の形だった。なら、何故俺がその俺に憤る必要がある?」
「だが君は、その吸血衝動を恐れている。そして、何故それもなくさなかったのか、怒っている」

淡々と、儀式屋は彼の中の感情を読み上げる。
それでもなお、Jの態度は変わらない。
ぱしん、儀式屋の腕を払い除ければ、髪を整え直す。

「それは儀式屋、俺を物としたのに何故俺から感情じゃなく記憶を奪ったのか、ってのと変わらない質問じゃん」
「……やれやれ、ああいえばこういうとは…まさに君のことだね」

払われた手をそのままの形で残し、黒髪の青年は呆れたように薄い笑みを引き伸ばした。
それから、ちょっと付け足すかのような軽さで。

「J、明日からどうするのかね」
「……さぁ?きっと、ヤス君に殴り殺されるかもね」

それから、と。

「多分、ユリアちゃんには避けられちゃうだろうね」
「それは、君が近付かないのではなく?」

その言葉に、ほんの一瞬、瞳が揺れた。

「……大差変わらないよ」

珍しく言い返すこともなく、Jは儀式屋の言葉を肯定した。
おや、と影は目をやや見開いた。

「そんなに、ユリアを食そうとしたのが、ショックだったのかい」
「……しつこいね、だから嫌われるんだよ儀式屋は」

うんざりした表情を向ければ、儀式屋はくくっと喉を鳴らした。

三章§38

ゆらゆら、ランタンの灯りは揺れる。
そこに浮かぶ真っ白い顔が、悪戯っ子のような口調で告げる。

「おやおや、私は君にアフターケアをしてあげているのだがね」
「必要ないね。もしそう思うなら、今日は一日休みにしてくれたら有難いんだけど?」

隻眼をナイフのように鋭くするも、儀式屋は相変わらずの薄ら笑いのままだ。
だが、その口が紡いだ言葉は意外なものだった。

「構わないよ。この分だと、ユリアに色々と説明する必要があるからね。店自体休みだよ」
「……そ。じゃあ俺は帰るから」

あっさりした答えに面食らったが、Jは特に気に留めず踵を返した。
その背が遠ざかる前に、儀式屋は一つ確認を取る。

「ああ、そうだ。君のこと、“全て”話すが構わないね」
「……俺に拒否権があるとでも?」

皮肉った言葉を吐き捨てれば、Jは振り返らないで廊下から姿を消した。
儀式屋はただじっと見ていたが、やがて私室へと足を向けた。



「どうするつもりなのかしら、貴方は?」
「…やれやれ、うちの店の人間は皆して盗み聞きが好きらしいね」

扉を開けた途端に、予想されていた静かな声が彼を出迎えた。
彼は苦笑し、かつかつ靴音を立ててデスクへ。

「無論、ユリアに説明するつもりだがね」

椅子を引きながら答えると、鏡の中の麗人は呆れたような顔をする。
柳眉を寄せると、腰に手を当てて余裕面な彼に。

「……そうじゃないわ。今後のことを私は聞いたの」
「?何も変わらないが」
「──何言ってるのよ、儀式屋!」

びりりっ、鏡面が揺れる。
ちらりと、儀式屋は血色の瞳をさも愉しそうに歪め、佳人を映す。

「いつも通りですって?貴方は分かってない!J君もユリアちゃんも、今は二人ともがお互いを恐れているのよ…なのにどうして、どうしていつも通りが出来るのよ!?」
「アリア、それは君の勝手な思い込みだろう。根拠がまったく…」
「いいえ、違うわ儀式屋」

儀式屋の言葉が述べ終わる前に、アリアは割って入る。
やや儀式屋の仮面のような笑みが、動いた。

「確かに貴方が命令すれば、二人はいつも通りにするわ。けれど、貴方は二人に感情を許した…分かる?二人の心は、貴方が命令すればするほど“いつも通り”にはならないのよ!」

出来ることならば、目の前の男の胸倉に掴み掛かって言ってやりたい。
それが出来ないアリアは、悔しげに顔をしかめ、ただ縋るように鏡面に爪を立てた。

今のまま放っておけば、二人の距離は自然と開いてしまう。
特にJは、自らそれを作りユリアに出来る限り近付かないつもりだろう──それが、彼が出来る最大の優しさとでもいうように。
だがそれは、ユリアに誤解を与えかねないことだ。
あるいは、それこそが彼が望むことなのかもしれない。

だが永遠にすれ違う二人を、アリアは見たくない。

だから──

「アリア、美人がそんな顔をしては駄目だよ」

不意に、頬に何かが触れる感触。
顔を上げれば、儀式屋の冷たい手が鏡面を突き抜けて、アリアの頬に添えられていた。
見つめれば、彼はふっと笑った。

「つまり、二人の関係をきちんと修復しなければ、店の雰囲気が下がるという訳だね」
「……どうしてそういう解釈になるのかしら」

前半こそ自分の思いが届いたと目を輝かせたが、どうやら彼は巡り巡って妙な結論に至ったらしい。

「すまないね。しかし…ふむ、そうなるとヤスが一番うるさくなるだろうから、手を打つべきだな」
「本当に?」
「要は、二人が互いに理解してそれを受け入れればいいのだろう?」
「そう、そうよ儀式屋!」

やっと分かってくれたのね、と麗人は顔を明るくさせた。
それに儀式屋は、真っ赤な唇を吊り上げた。

魔術師が残していった“お楽しみ”のもう一つ。
やはりこちらは、自分のためのものらしい。
そう考えると、彼はますます気持ちが高揚していくのを感じた。

「ふっ…お楽しみ、か」

これから先に展開されるであろう事象を思い描いて、ただただ彼は口元を弧に描くだけだった。




To be continued...
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