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適菜 たとえばニーチェについて「価値の破壊者」「道徳の破壊者」といった誤ったイメージが流布されています。しかしニーチェが破壊しようとしたのは「キリスト教的価値」「キリスト教道徳」にすぎません。むしろニーチェは、理性によって裁断させてしまったヨーロッパの歴史を通観し、道徳の復権を唱えたのです。
つまり、真っ当な人間のあり方を考えた。だからニーチェは保守主義者の側面を持っているのですが、それをわかっていない人が多すぎる。
剛志 ヒュームも同様の誤解をされています。彼は「理性は情念の奴隷である」といったため、虚無主義者のように受け取られた。しかし、ヒュームをよく読むと、彼が言いたかったのは、理性ではわからないものを否定してしまったら、理性も壊れてしまうということだったということが分かります。
ある論理を正当化するには、別の論理が必要である。だが、その別の論理もまた、それを正当化する別の論理を必要とする。そんな調子で突き詰めていくと、結局のところ、論理を論理だけで正当化できないという話になる。ならば、論理を成り立たせるものは、究極的には、論理以外の何かということになるはずだ。ということは、論理以外の何か━━宗教的権威や古来からの慣習など━━を破壊すると、論理自体も破壊することになる。だから、そういった権威や慣習といった論理では説明しきれないものでも積極的に守ろう。そうしないと、理性が失われてしまうから。これこそが保守主義の要諦なのです。
適菜 良質な哲学者や思想家は、時代を超えて同じ部分はを指し示していたりする。
マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」もそうですね。知識の中には、明示的に意識化されない人間的要因が含まれているとする概念で、わが国ではもっぱら職人の技能伝達や企業風土の継承といった間違った文脈の中で用いられていますが、これもヒュームの発想と同じものを指していると考えられます。つまり、人間は言葉に置き換えることのできないものより、制御されているということです。それがこの鼎談のテーマでもあったわけですが。
信子 自然科学の世界では基準はひとつであるべきで、個別の人間の価値観を認めない。認める場合は、互いに翻訳可能にして基準を統合しようとするのです。そして、原則として将来にあるものが正しいということになっています。もっともそれはそれで大きな過ちをおかしているのですが。
ともあれ自然科学の世界では、いかに壮大な理論を構築しても、実験による再現性があるかどうかが試金石となります。しかし社会科学では……。
適菜 そういうことですね。歴史に再現性などないのですから。理性や合理というものだけでは人間は成り立たないと感知するのが保守であり、いやむしろ逆で、人間という存在からその根幹を支えているものを切り離し、学問的モデルとして生み出されたのが「近代人」ということですね。
信子 自然科学の方法論にしても、それは自然科学の領域で通用するものであって、それを杓子定規に実社会にあてはめればよいものではありませんね。
このあたりを誤解する人が多いから、自然科学は左翼と親和性があるのでしょうが……。共産主義を「科学的社会主義」などと言ってしまうあたりからして、すでに大きな勘違いがはじまっている。
適菜 ポランニーが危惧したのは、まさにそこです。機械論的な人間観や世界観と教条主義的な道徳が結合したときに、新しい「狂信」が発生すると。
剛志 よく「歴史に学べ」と言って、「自衛隊を海外に出すのはアジアを侵略した歴史に学んでいない」といった話にしてしまうバカな左翼がいますが、歴史から学ぶというのは、本来はそういうことではありません。歴史上の人物たちが、どのような時代状況の限界のなかで、どのように悩みぬき、いかなる判断を下したか、あるいは下さざるを得なかったのか……その過程を追体験することに、歴史を学ぶ意味があるのです。