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サイレント沈黙続き(ネタバレ有)

やれやれである。最近というかいつも忙しくてダラダラする時間がない。
出かけたり買物行ったりしなくちゃいけないんだけど、もうウダウダとスマホいじくりたおして何もしたくないや。
なんでスマホいじくってダラダラしてる時間ってあっちゅうまに過ぎていくんや。(ダラダラしてるやん)

さて、サイレント沈黙の感想つづき。
えーっと、遠藤周作の沈黙。
これさー真夏の暑い日差しの中、ドログチャの地面に敷かれ、虫が湧いているゴザの上に座らされ、汗と垢にまみれながら何日も何日も自分たちがキリシタンではないことを無言で訴え、耐える。
というのを、夏休みのクソ熱い部屋の中で宿題のためというだけで本を読まされる自分…。拷問かな?
多感な時期に本に入り込みすぎて、日差しの痛さや暑さや手首に食い込む荒縄が擦れる痛さや、腐ったゴザに座っている下半身の不快さ、痒さなどを読んでいる自分が感じているかのような不快さで読めなくなったのよ。
映像ではそこまで陰惨に描かれてないが、というか自然と俳優陣が美しくて、汚いとか臭そうとかいうのが抑えられてて、見やすかった。拷問ばっかだけど。

ストーリーについて書いたっけ。
これはポルトガルの聖職者が主人公。キリスト教を広めるために、宣教師たちは各国に派遣(?)されているのだが、日本に出かけた師匠であるフェレイラ神父が棄教したという手紙を受け取る。敬虔な神の僕であった師匠が棄教したなんて嘘だッ!ってなってる二人の宣教師は、キリシタンが弾圧されている危ない日本に渡り、フェレイラ神父を探す。という話しの流れ。主人公は弾圧されている日本人ではなく、日本にやってくるパードレだ。

作中は演出的な音楽がほぼ無く、自然環境音くらいの静かな映画で、笑いも救いもない重苦しい映画なのだ。
この映画の面白いところって、キリストを信じている教徒たちが惨い拷問を受け、死んでいく状況なのに祈りは届かない、神は沈黙し続ける…。神とは。という話しをカトリックの司祭を目指していたくらい敬虔な信者のマーティンスコセッシが撮っているところ。
ちなみに原作者の遠藤周作もキリスト教徒なのよ。
つまるところ、神、キリストはいるのか?という事ではなく、信仰とはなにか、信仰する心とは何かと問い続ける話しなのだ。

日本は自然災害が多い島国なので、昔より神の存在は自然の中にいるものと考えている人が多い。お日さまも神様、雨が降るのも神の恵み、台風は神の怒りなどのように。そんななか、この「ジーザスクライスト」こそが神の御子で、この方を拝めば死んだあと天国に行けますよ、という考えかたって定着するかね?
映画内でも描かれているが、日本の信者たちは「今ツライ環境にいても死後は天国に行けます」という事だけを信じている感じ。
私はたぶん世間並の無神論者的な感じで、初詣には神社に行って葬式は坊主を呼び、クリスマスにはケーキ食う(食うだけ)みたいな状態だが、食事の前にはいただきます、お天道様が見てるから悪いことは出来ないというような、神道や仏教的なものが身にすりこまれている。
だから懺悔とか告解とか、よくわからん。なんかセラピーみたいだよね。
…あの、キリスト教を否定しているわけではないのよ。わからないだけで。

だから、キリスト教徒の多いアメリカの博物館には進化論的展示がなくて、日本の学校で習った猿が人間にっていう進化はタブー視されているってことを25歳くらいの時にテレビで見て、メッチャカルチャーショックを受けたもの。
キリスト教では聖書が真実であり、人は神が造ったものだから。猿が進化したものじゃないから。
そういう考え方があるのかーって、全然気づかなかった。
まあ、進化論も進化の空白ヶ所があるんだけど。

さて何のはなしだっけ。まあいいや。
ちなみに知識不足のため、私は牧師と神父の違い等もよく知らない。色々間違っていたらごめんなさい。
神主と禰宜とかの違いも分からん。
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