しん、と水を打ったような静けさが、店内を満たした。
だがそこに、先程までの穏やかさは、ない。
闇の濃度が増して、息苦しいような感覚に、ユリアはなった。

「この子は契約違反をしている」
「…………契約…違反…?」

もう一度、闇が繰り返した言葉にようやく魔術師は反応した。
己の腕を掴んでいる手を見て、それから真っ正面にいる少女を見る。
その瞳は、不思議そうな色をしていた。
本当に純粋に、ただ不思議がる子供のように、彼はユリアを見据えた。
当の本人は、その翠瞳から視線を外せなかった。
否、正確には外すことが、出来なかった。

「……何が、嘘?」

暫くして、ユリアに視線を注いだまま、サンは問いかけた。


ばんっ


突然、大きな音を立てて扉が開いた。
サンもユリアも、そちらへ顔を向ける。
入ってきたのは2人。
1人は、黒衣の儀式屋だ。
そしてもう1人は…

「マ、マサト…!?」

ユリアが驚愕の悲鳴をあげる。
…もう1人は、儀式屋の腕に抱えられている少年──マサトだった。
マサトは気を失っているのか、四肢をだらりと垂らしていた。

「どうして!?何でマサトが……」
「それを聞きたいのは私の方だ、神谷ユリア」

マサトの元へ駆け寄ると、男がそう言った。
その声は、まるで氷のように冷ややかで、ユリアを敵対しているようだった。
ユリアはその声に反応して、きっと睨みながら見上げ、怒鳴った。

「その前に、マサトを離し──!!」

怒りに任せて叫んだものの、その言葉は途中で消えてしまった。
ユリアの黒い瞳と絡み合った紅い瞳──それが、有無を言わさなかった。
ひっ、とユリアは息を呑んだ。

「神谷ユリア…説明したまえ」

儀式屋は視線を外さぬまま、そう命じた。
途端に、ユリアの意志とは反対に、口が勝手に話し出した。

「わ、私、言ったの!魔法使いに会うって!あの夜、見られて問い詰められて、だから言ったの!!」

そこまで一気に言って、ユリアの顔はさっと青ざめた。
それとは対照的な程に、儀式屋は口を三日月に歪めた。
そして“闇”は、唄うように言葉を紡いだのだ。

「魔術師、これが神谷ユリアの真実だ!」

彼の宣言は夜気に木霊し、大きく轟いた。


「…………ああ…僕はまた、人間に騙された……」


その呟きは、何処までも微かなものだった。
しかしながら、確かにその声ははっきりと聞こえた。
絶望的な程の、悲しみを湛えた声音。

「悲しいな…悲しいな…僕は、こんなにも人間が好きなのに…悲しいな……」

何処までもその呟きは続いて、次第に萎んでいった。
ユリアはその間微動だにせず、ただじっと儀式屋を見ていた。
出来ることならば、マサトを連れて今すぐこの場から逃げ出したかった。

(早く、逃げなくきゃ!!)

そう体を叱咤しているが、恐怖で固まった体は動かなかった。写真を握ったままの手が、しっとりと汗ばんできた。
心が焦り出し、足に全神経を集中させるが、1ミリたりとも動かない。
焦燥感を感じながら、ユリアは頭の中で、この噂を何度も繰り返し思い出した。
契約を破った者は『“魔法使い”の怒りに触れて、生きて帰れない』という恐ろしい掟。
今、サンは混乱しているのだろう、何も行動を起こさない。
逃げ出すのは、今しかなかった。

なかった、のに。

「サン、なら貴方はどうしたい?」

そんなユリアの頭の中を見透かしたように、儀式屋が声をかけた。
すぐに、サンはその答えを寄越した。

「罰を」

地獄の底から響くような低い声に、ユリアは震え上がった。
それから初めて、少女はサンを振り返った。

「……っ!!」

そこには、穏やかな姿の彼はもういなかった。
静かながらも殺気を剥き出し、帽子を取った銀の髪は逆立っていた。
その下に現れた翡翠の瞳を見た瞬間、ユリアの中に自然と言葉が流れ込んだ。


『オマエ、カエサナイ』


──気付いたときには、ユリアはマサトを置いて一目散に店から逃げ出した。