皆さんこんばんは(・ω・`=)ゞ

上の画像の商品、半額だったので思いきって買ったよ。フム…味は悪くないのだが、バターが入ってるから油っこいのと、思ったより小さかった(爆)バターを固体で見たの何年振りだろうか。味は兎も角、コストで考えるに二度と買うことはないだろう(゜ー゜)(。_。)


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閑話休題


秋葉原発のAKB48が日本を席巻した頃

 東京・秋葉原に劇場を構えるAKB48。
 ほかにも名古屋を拠点とするSKE48、大阪のNMB48、福岡のHKT48など、48グループは極めて地域性を押し出した活動を展開し、それぞれ固有のファンを獲得することに成功しました。
 彼女たちの台頭により、2000年代後半以降の秋葉原はよりいっそう「アイドルの聖地」としての色合いを濃くしました。

 さて、彼女たち48グループの楽曲で使われる一人称の多くが「僕」なのをご存じでしょうか。48グループの公式ライバルとして誕生した坂道グループ、乃木坂46や櫻坂46(旧欅坂46)でも同じように「僕」が用いられることがほとんどです。
 一方、2020年にデビューし人気を博しているガールズグループNiziU(ニジュー)の楽曲での一人称は「私」がほとんどです。また2000(平成12)年前後に一世を風靡(ふうび)し今も活動を続けるモーニング娘。の歌詞も、一人称は「私」が多くなっています。
 このような、ガールズグループの楽曲における人称はどのような意味合いを持つのでしょうか。
 はじめに、48グループ、坂道グループの楽曲で使用されてきた「僕」のいくつかの意味合いを見てみましょう。前述では48グループ、乃木坂46、櫻坂46はいずれも「僕」の頻度が多いと一緒くたに示しました。しかし歌詞をよく見てみると、同じ「僕」でも意味合いが異なることがわかります。

ファン目線で展開するAKB48の歌詞世界


 48グループと乃木坂46の楽曲の多くは、少女――アイドル自身と言い換えることもできます――を見る側の視点から歌詞が書かれています。
 AKB48を代表するヒット曲のひとつである『ポニーテールとシュシュ』(2010年)の歌詞には
<ポニーテール(揺らしながら)
 振り向いた
 君の笑顔
 僕の夏がはじまる>
とあり、ポニーテールをしている少女自身ではなく、それを見る「僕」目線での歌詞であることがわかります。


 ポニーテールをしてパフォーマンスをするAKB48が体現しているのは、歌詞で言うところの「君」で、「僕」はそんな「君」に思いを馳(は)せる存在です。「君」を体現しながら「僕」目線で歌っている、ということなのです。
 今では女性からの人気も負けず劣らず獲得した48グループですが、当時はファンのメイン層が男性、すなわち“見て消費する”側面が強くありました。
 歌詞のこのような構図はアイドルとファンの見る・見られるという関係性に対応しており、「僕」として歌詞内容に引き込む効果があったと考えることができます。
 一方、櫻坂46の場合は単なる「君」の相手として描かれるものではない「僕」を多く表現してきました。

NiziUと櫻坂46の比較で分かること


 48グループのような、相手がいて成り立つ恋愛ソングが比較的少ない櫻坂(欅坂)46の楽曲には、自分らしさを追求し、集団や抑圧からの脱却を目指す歌詞が多くあります。
 櫻坂46の場合「僕」は強さの表現のようにも見えますし、飾らないアイドル自身の姿のようにも捉えることができます。
 このような歌詞であったがゆえに、48グループに比べ、メンバー自身により近い属性のファンを多く獲得したと考えることができます。「僕」が中性的に響いたのも、ファン層の拡大にひと役買っているでしょう。
 そこにあるのは見る・見られるといった距離のある関係性ではなく、共感、共鳴というような、没入を伴う聴き方だと言えます。

アイドルのコンサートライブは男女を問わない大勢のファンが訪れる人気イベント。コロナ禍では開催が難しくなっている

 では、一人称で「私」が使用されている場合はどうでしょうか。
 NiziUの場合、一人称は「私」でこそあれ、歌詞の中での「私」の立ち位置は櫻坂46に類似していると考えることができます。
 2020年12月のデビューシングル『Step and a step』の歌詞に<私だけのペースで>と自らを肯定するような歌詞があるように、NiziUの楽曲はそのままの自分を前向きに捉える歌詞が多いのが特徴です。

「情景」描写と「情動」描写の違い

 櫻坂46の場合は前提としてある何らかの障害から脱却することによって自由を目指し、それを肯定するという流れでしたが、NiziUの歌詞の場合は、外的環境などが関与しない状態での自分自身の肯定を描いています。
 どちらも、一人称は「君」との対比として使われることは少なく、そこに直接的な関係性は描かれない、あるいは重要視されないのです。
 NiziUの代表曲『Make you happy』は恋愛ソングと言える歌詞ですが、48グループが連続的な“情景”を描写しがちなのに対し、こちらは“情動”に比重があります。
「僕」から見た「君」、「私」から見た「あなた」の描き方の違いが、48グループの恋愛ソングとは印象を異にしているようにも見えます。

「僕」から見た「君」、「私」から見た「あなた」。描かれ方にグループの特性が表れる

 ただひと口に僕、私、といってもその使い方は時とアーティストによってさまざまです。
「僕」「私」に固有の意味合いを持たせる傾向があるとは言い切れません。それよりも、「僕」「私」が、「君」あるいは「あなた」とどのような関係性で描かれるかという点に、楽曲の特徴が表れるのかもしれません。
 AKB48が「僕」目線の「君」を描き続けることでファンを「アイドルを見る」存在として歌詞内容に取り込んでいるのに対し、NiziUは「私」の内部に重きを置いて描くことにより彼女たち自身の内面を見せる、すなわち楽曲にファンを取り込まない状態で完結しているように見えます。

メンバー選抜に表れるファンとの距離感


 これは、AKB48とNiziUのメンバー選抜の方式ともつながるものがあります。
 48グループの「選抜総選挙」は、ファンの投票により、つまりファンが深く関与することで選抜メンバーが決定してきました。
 応援する・されるという関係性が非常にはっきりしている企画です。
 対してNiziUの場合、総合プロデューサー(J.Y. Park氏)が直接審査を行い、オーディションの様子をファンに関与させない形で見せることで注目を集めました。
 ガールズグループの楽曲で描かれる「私」と「あなた」のあり方は、ファンとの関係性を浮き彫りにしているのかもしれません。







まるで世間でAKB系とNiziUというのが人気はあるかのような、錯覚に陥る文章ですね。どちらも既存メディアが推しに推しまくる程認知されてないだろ。たとえ人気があるとしても、ごり押しは嫌われるんだぜ。そんなに嫌われなかったのは新垣結衣位じゃねぇの。ガッキーですらアンチはいたからな。

おニャン子クラブの時もそうだったが、AKB関連は秋元康が書いてるんだよね。おっさんがあの歌詞をと思うとかなり変態感が増す。
ま、それはさておき、我らか実稀ちゃんも、歌詞を書くにあたって殆ど第一人称は僕だ。OctaviagraceやRoman so Wordsのようなバンドだとそうならざるを得ないらしい。まあ、RsWはほぼYui君が書いているけど。実稀ちゃんは実体験は殆ど書いてないからね。これはFukiちゃんも同じような事を云っている。音楽性に『私』が合わないのもあるのだろう。Fukiちゃんは実体験を歌うのは恥ずかしいみたいな事も云っていたような気がする。
2人の共通点は、どちらかと云うとファンタジー寄りの内容が多い事かな。なので、作詞家というよりは物語を作ってる感じ。『書く』というより『描く』が相応しい。 実稀ちゃんは作曲もかなりやってるから、歌の難易度も含め、実は負担が大きい。hanakoちゃんがもっと曲作ればいいんだが、自由人なので無理強いはないだろう(笑)そんな事を云ったらバンド辞めそうなコなんだよな( ̄▽ ̄;)

そういえば、『俺』というのは見たことないかも。いい印象がないのだろうか。
俺は自分を僕と云った事はないな。ふざけて云う事はあったかもしれんが。

蛇足だが、AKBに全く興味ない友人が、12年位前にメイドスキーな友人に誘われ、秋葉原で観たらしい。「可愛いコ1人もいなかった」と嘆いていたのはここだけの話。小嶋陽菜はいなかったんか?
序でに云うと、NiziUは前にも触れたが曲が┐(-。-;)┌これは作曲とアレンジが俺には生理的に無理って事かな。