静寂──。

聞こえていた時計の音さえも、掻き消えた。
だが、ユリアはその事象を気に留めることが、出来なかった。
目の前の、闇の化身のようなその人に、意識がすべて持っていかれていたからだ。

「まだ喚くのかと、聞いたんだよ」

胸倉を掴まれ、凄まれているのは儀式屋のはずなのに、そうした威圧をものともしていない。
それどころか、それをJへと跳ね返してしまっている。
返された本人は、思い切り目を見開いたまま、微動だにしなかった。

「…君は、一度私の依頼を断っている。なのに、その後に異議を唱えるのは、どういう了見かな?」
「……それは、」
「どうせ答えられまい?特に、“今の君”ならば尚更にね」
「……っ」

それまで真っ直ぐに儀式屋に向いていたツートーンの頭が、やや下に傾いだ。
ユリアからは見えなかったが、Jが悔しそうな顔をしているのは、それで容易に想像できた。

(儀式屋さんを止めなきゃ…Jさんがまた、傷ついちゃう!)

でも──、

(私が、する必要があるの?)

ふと、頭の中を過る声に、ユリアは口籠もってしまった。

──自分が、何か言ったところで、何が変わるというのだろうか。

つい先日起きた“事故”は、少女の中で大きな塊として、未だに胸の中に居座っていた。
Jが吸血鬼だったことを目の当たりにし、そして拒絶の声も届かず襲われかけたあの日。
それは、確かにユリアの中で恐怖の塊だった。
だがこうなってしまったのは、自分の血液が原因であり、何よりJは瀕死の状態だったのだから、彼を責めるのはお門違いだ。
というよりも、そのくらいで責めるなど、ユリアには到底出来なかった。
Jが“J”である理由、そして正体を黙していた訳を聞かされ、ユリアはどうしようもなく悲しかったのだ。
だから、伝えようと思った──私は、決してJが思うほど弱くなんかないのだ。と。

だが、それをユリアは未だに言い出せてはいなかった。

事件のあった翌日、Jはいつもと変わらない、少しふざけた笑みを引っ提げて現れた。
それを見たユリアは、温かな感情に心を包まれた。
もしも彼が気に病んで来なかったら、どうしようと不安に思っていたのだ。
それが外れたことに、少女は密やかに喜んでいた。

だがその喜びはほんの束の間であり、ユリアの内に秘めた杞憂は更に悪化した形で現れた。

気付いたのは、Jと二人きりになった時だった。
流石に、人前で彼に伝えるのは、やや恥ずかしかった。
だからこの限られた時間のうちに、ユリアは伝えてしまおうと考えた。
ところが、ユリアが彼を呼ぼうとするより早く、Jはこちらへ背を向けたままアリアが呼んでいたと告げてきた。
そこでユリアは美女のもとへ行ったのだが、彼女は呼んでいない、と返してきたのだ。
ユリアは首を傾げながら、先に戻っていたヤスと談笑していたJにことの次第を告げた。
すると彼は、勘違いだった、と言ってきた。
その時はそれで丸く収まったのだが、それ以降、二三回立て続けに同じことが起きた。

そしてある時、ユリアは、それがJの細やかな拒絶なのだと理解した。
Jが、周りには分からない程度に、自分を遠ざけているのだ。
……胸が張り裂けそうだった。
どうして他のみんなには以前と変わらない態度なのに、自分だけを避けているのだろう。
まだ、あの時のことを引きずっているのだろうか?
だとしたら、今すぐにその誤解を解かなければならないのに!

誰かにこのことをユリアは言いたかったが、言えなかった。
言ってしまえば気持ちは楽になるだろう。
しかし同時に、二度とJが店に来なくなる予感があった。
何故ならこのことは店の雰囲気を壊し兼ねない──ひいては、儀式屋に迷惑をかけることとなる可能性があるからだ。
それは、全てを捧げた自分が決してしてはならないことだと、ユリアは悟っていた。
そしてまた、もし言ったなら、J自らが原因だと言っていなくなってしまいかねない。
だから、誰にも打ち明けなかった。

たとえ──Jがそれさえも考慮した上でやったのだとしても。