気まずい、とヤスは感じていた。
それは何時からだったか、と考えるが限り無く明確な答えはわかっている。
「姐さん…本当にどうしたらいいんすかね?」
いつものスタッフルーム。
いつもの真っ赤なレザーのソファ。
そこに寝そべりながら、青年は鏡の中の麗人に問い掛けた。
「どうって……言われても」
それに答えるアリアは、その麗貌に似付かわしくない憂いを覗かせた。
そんなことを聞いたとしても、アリアが答えを知っているはずがないと、ヤスは知っている。
すみません、と短く謝ると、ヤスは手を目の上に乗せた。
……現時刻、仕事が始まるまで一時間以上もある。
スタッフルームには、まだヤスとアリアしかいない。
もう少し経てば人数も増えるだろうが、だがだからこそヤスはこの時間に訪れた。
この時しか、チャンスはないのだから。
「ヤス君…滅入ってるのね」
「ははっ…姐さん、……返す言葉がないっすよ」
美女の気遣う言葉に、ヤスは乾いた笑いを返した。
この、誰よりも自分に関わった人たちを大切にする彼女のことだ、微々たる自分の変化に気付いたのだろう。
それが分かっているから、わざわざ何か言う必要はない。
「ユリアちゃんとJ君が…ううん、J君がユリアちゃんを避け始めて、一週間、ね」
ぽつりと言っただけだろうが、それが如実に全てを語っていた。
ヤスは、きゅっと唇を引き締めた。
“あの日”から、徐々に崩れ始めた二人の雰囲気。
いや、違う。
Jが巧妙に立ち回り、決して崩れていないように見せ掛けている。
彼は相変わらず遅刻をして、相変わらず儀式屋には文句を言って、相変わらずそのままの彼で──ユリアに、接する。
だが、彼の内面には近付けない。
一定の距離を保ち、近付こうとすれば擦り抜けてしまう。
まるで──捕まり檻に閉じ込められることを恐れ、逃げ惑う鳥のようで。
「おやおや…二人して悩み事相談会かね?」
「っ、おはようございます、旦那!」
この店の支配者の声に、横になっていたヤスは飛び起きた。
儀式屋は起立し挨拶をする彼に笑いながら、後ろ手に扉を閉めた。
かつんかつん歩いていきながら、己の机に向かう。
「それで、いい解決方法は思い付いたのかね」
「……狡い人だわ、知ってるくせに」
「おや、私は何も知らないがね」
「あらそう。そういう貴方は、何か良案でもあるのかしらね?」
すっとぼけたような彼に、アリアは柳眉を吊り上げ問う。
と、椅子に座した彼は、いつもの薄ら笑いを浮かべた。
「あるには、あるがね」
「ほ、本当にっすか!?」
儀式屋の答えに、ヤスは顔を綻ばせた。
が、アリアは依然として硬い表情のままだ。
蒼い瞳に、影を映して。
「あるが、ってどういう意味なのかしら?」
「……うちのお姫様は勘が鋭くていらっしゃるようだね」
くくっ、と彼は喉を鳴らした。
のっぽの青年はどういうことなのか分からないらしく、二人の顔を交互に見た。
見兼ねたアリアが、ちらっとヤスへ目を向けて。
「条件が揃わなきゃ、出来ないってことよ」
「全くその通り」
黒髪の男がそう肯定した。
それから、やや困惑気味な顔を作ってみせる。
「今それを模索していてね…さて、どうしたものかな?」
とはいえ、その声は平生と変わらないもので、本当に悩んでいるようには見受けられない。
そして美女が再び問い掛けようと、口を開いたその時だった。
「…喚ブ……彼…男…」
彼の机上のオブジェが、一声叫んだ。
それに儀式屋以外の面々が、目を見開きそちらを見た。
儀式屋は指を組んだ手に顎を乗せ、オブジェを愛しそうに眺めた。
「……ああ、条件は計らずとも揃ったようだね。では──」
ふいに、酷く優しそうな笑顔を浮かべたかと思うと、きゅっとその表情を引き締めた。
部屋の空気全てががらりと変わり、ヤスとアリアは息を呑んだ。
「始めようか?」
何を、と問うことは誰も出来なかった。