黒衣の男の登場に、あれ程酷く耳を刺激していた喧騒が、一瞬にして沈黙させられる。
屋内に差し込む光の量は少ないが、それでもぼんやりと物の輪郭を捉えることは出来る。
だが、今エリシアのメイスを受け止めたのが人だとは、誰も気付けなかった。
あたかもそこには、ただの闇しか存在していないかのように見えたのだから。
そう、この場所はまさに──闇を具現化したような、儀式屋の独壇場だ。

「J、聞いているかね?」

その彼が、片手に持った短剣でエリシアを止めたまま、Jに問い掛けた。
未だにぎちぎちと嫌な音が耳をつんざくが、儀式屋の声から察するに、彼はさほど力は入れていないらしい。
代わりに、シスターの額からはじわりと汗が滲みだしている。

「……悪かったね。だけど、こうしたら来るだろ、儀式屋は?」

その様を見ながら、Jは己の主に答えた。
口では自分の非を認めているが、どうにも反省しているような様子は窺えない。
やれやれ、といったように儀式屋は首を左右に振ると、そこで初めてエリシアの方に目を向けた。
真紅の瞳が、シスターの姿を頭の上から下まで映すと、不意に嗤った。

「……これはこれは、ミュステリオン全異端管理局のシスター・エリシア…そちらに居るのは、神父サキヤマだね」

すっと目だけが動いて、サキヤマを確認するように見つめた。
正視された神父は、言葉を発する代わりに首を縦に振った。
宜しいと小さく呟くと、依然短剣で受け止めたままだったメイスを、大きく腕で円を描くようにして下へ向けさせた。

「すまないが、これを退けてもらえるかな?……ああ、有難う」

無言でエリシアが身を引くと、儀式屋も同じく手に持つ短剣を下ろした。
それからぐるりと周囲を見渡して、じっとこちらを見ているユリアの上で視線が止まる。
一瞬、彼はその目の力を弱めてみせた。
その些細な変化に、ユリアは数度瞬きを繰り返した。

「推測だが、これはJが君たちに無礼を働いたか、それとも……」

ユリアから視線を目の前の尼僧に戻すと、この状況を推理してみせる。
空いた片手を顎に添え、もう一つの可能性を口にする。

「ユリアが…ああ、あそこにいる子なのだがね、何かしたかな?まぁ何せユリアはうちに来たばかりで、今日初めて店から出したもの──」
「うちに来たばかりだと!?」

滑らかに舌を動かしていた彼の弁を、エリシアが驚愕の声で遮った。
微かに儀式屋の眉が中央に寄るが、それでも彼は丁寧に答えてみせた。

「そうだが?」
「しかし、我々はそのような娘を貴方が所有しているなどという話、一言も──」
「当然だ、私はユリアの所有許可を、人間の少女として申請していない」
「……は…?」
「おやおや、神父サキヤマともあろう者も、そんな声を出すのだね」

くくっと喉を震わせると、儀式屋は一際はっきりとした声で告げた。

「ユリアは精神体なのだよ、分かったかね?」
「精神、体……!?」
「そうとも。どうやら私がややこしく申請したものだから、少してこずったらしくてね……先程、漸く許可が下りたところだ」

これがそうだ、とスーツの内ポケットから儀式屋は一通の封筒を取り出した。
その封蝋は、エリシアたちが一番よく知るシンボル。
遠くにいるサキヤマは見えなかったが、相棒が微動だにしない様子を見て納得する。

「……、やれやれ…これでは手が出せないではないか」

長く沈黙していたシスターは、そう言葉を吐き出した。
それからメイスを肩に担ぐと、踵を返した。
おや、と儀式屋は目を見開いた。

「もう帰るのかね?」
「……余らは聖裁の途中だ、このような場で遊んではおられぬのだ」

ふんっと鼻を鳴らすと、くいっと手で相方を呼ぶ。
それに彼は一つ頷くと、赤髪の男を一瞥してからシスターの背に付き従った。
そのまま出ていきかけて、ぴたりとエリシアの足が止まる。
振り向きはしないで、背筋をぴんと張る。

「余らはその小娘を悪魔から救ってやったのだ……覚えておくがよい!」

それだけ言い放つと、颯爽とサキヤマを引きつれて廃屋から出ていった。