「当然だけれど、その時の現実世界は今ほど発展した世界などではなかったわ。彼らは、勝利を確信していた……予想外の出来事が起きたのは、すぐのことだったの」

リベラルの声のトーンが、やや下がった。
ユリアは依然黙ったままだったが、彼女のその違いに表情を変化させた。
女王は一呼吸置くと。

「……彼らはたちまちのうちに精神世界の奥底へ閉じ込められ、支配されてしまった…ミュステリオンという最悪の機関に」

かたかたと、扇子を握る彼女の細い手が震えて、何かを恐れるように口調が早くなる。

「……まだ彼らを支配するだけならマシだったわ…奴らは、この世界すらも支配しようとし始めた…!」

だんっ!

扇子がテーブルに叩きつけられた衝撃で、カップの中の液体が跳ね上がった。
呼吸を乱し、彼女の女神の容貌が昏い怒りと沸き上がる恐怖に彩られていく。
陰欝な、老婆のような顔だ。
その気迫に、ユリアは声には出さなかったものの、心の中で悲鳴を上げた。

「陛下、お気を確かに」

隣に控えているリヒャルトが、震える女王の手を握り宥めた。
すると女王の形相が、見る間に元の麗貌へと戻った。
先程の面影など、一切ない。
大丈夫よ、と一言そう彼女は言うと、裡に溜まったものを吐き出すように深く溜息を吐いた。

「……驚かせてごめんなさいね、わたくし、どうもこのことを思い出すと、気が動転してしまいましてね……」
「……あ、いえ…」
「いいのよ。貴女にはそうして感情を表現する自由が、与えられていますもの。当然の反応よ」

平静を取り戻し、何処か冷めた瞳がユリアを見つめた。
それに対して、少女は何も言い返せず頷いた。
それからリベラルは、自分達を取り囲む花々を眺めながら、途切れたままの話を続けた。

「……ミュステリオンの介入によって、精神世界の不文律が狂いだした。この世界はね、とっても繊細な世界なの。精神世界といわれるように、デリケートで傷付きやすい、そしてひどく不器用で強かな愛しい人間の内面と同じなの」
「人の……内面」

小さく、口の中でその単語をユリアは繰り返した。
内面──ユリアにとって、とても馴染みのある言葉だった。
何故ならば、ユリア自身が“精神体”であるからだ。
リベラルの語るそれが、何だか自分のことを分析されているようで、歯痒い気持ちになった。
彼女はそれを知ってか知らずか、ただ首肯しただけで特に何も言わなかった。

「だから、突然現れた奴らに対して、この世界は耐えられなかった。美しかった街並は廃れ、咲き誇る花は枯れ、甘やかな香りは霧散していった…掻き乱されていく世界の悲鳴が、日々わたくしの耳を貫いて、離れてくれなかった…」

不意に思い出した、此処へ来るまでに見た建物。
そのどれもが古びていて、通りを寂しくさせていた。
あれらには、こうした理由があったのだ。

リベラルはリヒャルトに握られていた手を、逆に自ら強く握った。
心を落ち着かせ、再度感情に振り回されぬよう、強く。

「……わたくしは、もういてもたっても居られなかった。愛した世界が、これ以上傷付いていってしまわないために、手を打つ必要があったわ…わたくしだけにしか出来ない、最良の方法ですわ。彼──儀式屋に頼み込んで、わたくしは自らの自由全てを犠牲にして、」

ふっ、とリベラルは握っていた手を離した。
そして一度、彼女は目を閉じるとすっと開眼した。

そこから覗く瞳は、確かな自信と強さを持ち合わせた、冷徹な光が宿っていた。
それは、並々ならぬ覚悟をした者にしかないものだ。
ユリアはそれに吸い込まれるようにして、呼吸すら忘れたかのように見入った。
真紅の麗人が次に口にする言葉を、早く聞きたくて仕方がなかった。
先程までとは違う、腹の底から突き上げてくる高揚感。

真っ赤な口唇が、言葉を形作った。

「……わたくしは、この世界のルールになりましたの」

そう、女王は事も無げに告げた。