「私の記憶をコピーして君に渡したのだよ」
馴れぬ感覚に首を傾げる少女に、儀式屋は真っ赤な唇を弧に描いて答えた。
そして、ユリアが何かを言う前に、昏い光を称える真紅の瞳を細めれば。
「さぁ、行きたまえ。“私”も私に戻らなければ、だからね」
「は……戻る?」
はい、と答え掛け、戻る、という単語が引っ掛かった。
そうだよ、と儀式屋は頷いてみせた。
「私自身は、既にサンの方に居てね…この、君の前にいる“私”は、私の影にすぎないのだよ……、ほら」
と、儀式屋がユリアに見えるよう、手を上に掲げてみせた。
つられるように、ユリアの目はそちらを見る。
すると、微かに黒曜石の瞳が見開かれた。
血の気のない手は、砂のようにさらさらと消えていっている。
しかしその部分は、砂塵の如く落ちていくのではなく、気化して黒煙のようになっているのだ。
儀式屋はぐるぐる渦巻くそれを、まだ残っている方の手で掴んでみせる。
が、するすると指の隙間を擦り抜けて、跡形もなくなった。
「影なのだよ、“私”は私のね」
「はぁ……」
言ってる間に腕は消えてしてしまい、次は反対側の腕が削れ始めた。
「“私”が付いていくという手段もあるのだが、生憎私が忙しくなると、形を保つのが難しくてね…」
さらさらさら
肩口まで消え、これで儀式屋の両腕はなくなってしまった。
次いで長い両足が、消える。
「さぁ、ユリア。惜しむ時間はない。すぐに彼女の下へ向かいたまえ…ああ、ヤスたちにはきちんと説明してあるから、何も気兼ねはいらないよ」
腰まで儀式屋は消えて、
「彼女に会ったら、必ず全て正直に言うこと。彼女は嘘を嫌うからね」
もう残りは胸から上だけで、
「それでは、失礼するよ」
……別れの言葉を口にすると、たちまちのうちに彼は気化して消えてしまった。
部屋にはただ、ユリアだけだ。
暫くぼんやりと儀式屋の影があった辺りを見つめていたが、やがて自分に科せられた用事を思い出し、ユリアは扉へと向かう。
“彼女”のことなど知らないに等しいが、ただ分かるのは、待っているのは事実だから早く行くべきということだ。
後ろ手にスタッフルームと廊下を繋ぐ扉を閉ざすと、ユリアは目的のために歩きだした。
そうしてとうとう、スタッフルームは、沈黙で満たされた。
ふっ、と儀式屋はその紅い瞳を瞼の向こうから覗かせた。
それから、ちらりと己の足元を見やり、既に唇を飾っていた笑みを深めた。
「どうしたの、儀式屋クン?」
その変化に気付いたらしい、ゆったりとソファに腰掛けている真っ白な魔術師が尋ねた。
ゆるく、尋ねられた男は首を振ってみせる。
「いや、もう一人の私が役目を終えたらしくてね」
「あ、そう」
さして興味が湧かなかったのか、サンはリディーの注いだ甘ったるい紅茶を口に運んだ。
──現在、儀式屋が居るのは、サンの屋敷だった。
相変わらず、意志なき少女たちがそこここで動き回り、サンと客人の儀式屋に尽くしていた。
「……ユリアのことなのに、やけに詰まらないようだね?」
「当然だよ」
「ああ、待って、貴方が不機嫌な理由を、当ててみせるから」
言いそうになったサンをすっと手で制し、わざとらしくえぇっと、などと呟いてみせる。
やがて、いつもと変わらぬ、だがやや楽しそうな声を作り出し。
「彼女が絡んだから、かな?」
「それ以外に理由があるなら、教えてほしいね!」
がちゃん!と乱暴にカップを置く彼は、珍しくかりかりしていた。
前髪に隠れた翡翠の瞳が苛立っているのを感じて、儀式屋は特に隠さず声を立てて笑った。
「ムカつくんだよ、あの女…大体、今回のお楽しみは、僕と儀式屋クンだけのはずだったのに、図々しく間に割って入って!これでユリアちゃんを誑かしたりしたら、僕は同盟を破ってでもあの女とやるからね」
「サン、物騒だよ」
やや嗜めると、わかってるよ、と唇を尖らせた。
儀式屋はもう一度だけ笑うと、時計を一瞥して。
「さて…私たちも、そろそろ始めようか?」
「…そうだね、そうしよう」
溜息を吐いた後──魔術師はほんの少し笑みを溢した。