レモネードをかき混ぜて

話題:あーもー、好きだー

あれから、ネットの男とはなにもなく。華麗に無視を決め込む。どうでもいいやってなったら、どうでもいい。彼と付き合っている間はないんだろうなと思った。あたしが他の男となにかあることは。それは、すきだからとか依存とかじゃなくて、そこまでするのなら別れて、その他の男を選べばいいから。そんなにたくさんの恋をしても時間をかけなければ育たない。無意味なことに時間をかけるなら満足いくまで彼との関係を育ててみようと思った。

近頃の彼はよく、夜遊びして失ったお金のことをぼやく。総額で80万くらいは使ったんじゃないかなと悔いてもしきれないくらいに悔いているようで、そりゃそうだ、額が額だから。まるで、あたしの父親を見ているようで残念ではあったが、今は口先だけではなく本気であんな風なお金の使い方はしないだろう。形に残るものに使えばよかったとかなんとか、次から次へと出てくる後悔を、そうだねと聞くあたしの気持ち イズ 虚しい。

今日は、打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?を観にいく予定。評価はイマイチのようだけど、原作は岩井俊二なので観てきます。

ちょっとくらいやさしくしても罰は当たらないのに

話題:もやもや

二日酔いとまでも行かなくても気だるいのはいつものことなのか昨夜のワインのせいなのか、実家から帰る電車のなかで考える。戻っておいでと言われる度、簡単にあたしの決意は揺らぎ、帰ろうかなと思ってしまう。24歳にもなるし、実家にいるのもなぁと思うこともあったがそんなこと生きてくなかで特別に重視するものではないようだ。家庭の事情やら金銭面やら母親の思考回路も読み取れず、戻ることがいいのか仕送りというのがいいのかと考える。仕送りは、転職するか同棲でもしないかぎり、現状ではむづかしいことだ。ぐるぐると思考はめぐり、選択の正しさなんてカッコつけようとして実際はそんなことが無意味なことを知りながら世間体を気にしている自分に嫌気が差した。選択の正しさよりも大事なのは自分の気持ち。無理を我慢をせずに疑問を抱かず、これでいいかなと思えるものを選ぶことこそが正しいのだ。そんなこんなで三連休はおわりに向かい、祖母が喜んでくれるのでワインを1本飲んでみたり、母親たちと買い物へ行ったり、活動的で有意義な連休となったわけで現実に帰るかのようにひとりで住む部屋に連れていく電車を恨めしく思った。



服を選びながらかわいいと思ったものの値段を見て戻す。セールやらアウトレットやらそういう時でないと買えなくなっていることがすこし悲しかった。たくさんの定価品を買うことは無理であっても、たまには買いたいもの。彼に何万する服を買ったと自慢げに話されるとチクリと胸が痛む。やはり、実家の方が自己投資はできるよね、と嫌みのひとつを言いそうになるが口つぐむ予定が、あたしは、セール品しか買ってないなぁと結局、嫌みのひとつはこぼれてしまった。こんな自分が嫌になる。経済力が身についたとか現実的になったとかたくましさとかそういうのはあるかもしれないが、やはり、それ以上になにかわからないものが失われ、日々疲弊していくのはなんでだろうと思わずにはいられない。こんな自分は、きらいだ。

彼と付き合う前に一度会って、セックスした男がなかなかのしつこさでブロックしてもネットで見つけてきてブロックしても新しく作り直してコンタクトを取ろうとしてきて業務的にブロックする作業をしていたが彼の最近の言動に疲れたのと将来性を感じられないことから会ってみるのもありかなとブロックせず連絡を取り合い、飲みに行こうよとなるわけで。彼も頻度は減ったとは言え女の子のいる店で羽目を外して好きなものを好き勝手に買って、親孝行、シスコンを披露しては、あたしとのデート代は折半でお願いしたいと志願するわけで、それがわるいと言わないし、色んな恋人たちのやり方があると思うが正直、いい気はしない。

ちょっとくらいやさしくしても罰は当たらないのにって内心は思ってるよ。

打ち上げ花火、きみと一緒に

話題:ひとりごと

フルで聴きたかった「打ち上げ花火」がようやく解禁され、エンドレスリピートしている。岩井俊二原作のドラマがアニメ化、期待と疑問(シャフトなので安心もある)が入り交じりながらも公開日が近づき、胸は自然とおどりだす。待ってたよ、とワルツをこの作品とともに。岩井俊二は、あたしにとって大切な存在だ。岩井俊二の世界で息をしていたいくらいに、綺麗で聡明で美しい。あの色彩に音楽に魅了されつづけたい、いつまでも。夏をぎゅっと濃縮したようなせつないラブストーリー。時代を越えて、舞い戻る。



だれでもいいわけじゃない。それだけは、よくわかっていてほしいなと思う。時間は有限であり、お金だってそう。そのなかでだれと過ごしたいかって、重要なこと。それに気づくまでに数年かかったけど、あたしよりも先を歩み、それに気づいた大人たちが耳打ちしてくれてもその逃避行まっしぐらの時は聞く耳など持てず、失敗して、心をこわして、何度も後悔して反省してたどり着いた、理解した。だれかのことばではなくて、自分のことばで気がついた。だから、あたしは忠告もしない。彼にも自分で気づいてほしいから、あたしは大人しく見守っている。いつだって、自由意思で選びつづける生き方を歩んでほしいし、歩みたいし。忘れてはいけないよ、自分のことは自分で決められることをと心で繰り返しながら。永遠なんてないってことを、約束は仮初めであることを、実現しつづけることの忍耐力を。

ひとりで過ごす時間は大切。隣駅に映画館があって、定期圏内でってなったら行くしかないでしょうってね。嫌なことばかり目につくけど、そんなところばかりに目を向けていても仕方ない。ほら、飛びたいでしょう?飛ぼうよ、ね。本屋巡りもいいかもよ、喫茶店とかも。服とか雑貨とか。スーパーとか100均とか、すきなもののある場所へ行けばいい。すきなことをしていいんだよ。

彼しかいないのと自制心。ひとりでは歩めないと立ち止まる。過去は戻るためでなく振り返るために、進んだ先に未来はある。存在は呼吸のように、世界は愛よりも不平等。息苦しくて窮屈で、涙のながしかたを忘れては、夢の見方を忘れない。

きみの本音を知りたい

話題:素直な気持ち

8月に入って、涼しい日が続いたと油断していたら暑さがまだまだだよーと本気を出してきたようですね。あつい。夏のあつさは苦手。エアコンに当たらない生活をしていたら扇風機だけでさえお腹を痛めたりしていて、彼の体質が移ったかなと思いながらあと1日がんばれば三連休と胸をおどらせている。明日、仕事が終わり次第、実家に泊まるのでたのしみでしかない。家のゴタゴタとした問題やお金のことで実家に一度、戻ろうかなと考える。先週は妹が泊まりに来てくれてたのしかった。その時に聞いた、家のお金事情は離婚して母親ひとりになったことでのストレスやらなんやらでヒートアップしたヒステリックに妹と弟も頭を悩ませているようだった。離婚して半年後に父親が亡くなり、借金やら諸々、うれしくないものをこどもたちであるあたしたちに遺して、すべての放棄の手続きを終えたのが年末。それから、8ヶ月。それぞれの道を、それぞれの歩幅でやり方で歩んでいるつもりではあるが、どうにもどこかで綻ぶ。

彼とはうまくいっているというと厳密にはちがうが喧嘩はしていない。多少の口論はあるものの、すぐに仲直りできる程度のもの。未だに、夜遊びも少なくはなったが月に1度くらいは足を運んでいるらしく証拠をちゃんと処分しないからあたしも知ってしまう結果に、むしろ、自分から悪そびれもなく話してきたり。ああ、まただ。あたしたちってほんとに価値観が合わないんだろうとその瞬間、思わされる。ねえ、一緒にいたくないの?なんなの?と心のなかでは喧嘩を売って、毒づいた。

結婚するまでは自由であろう。恋と好きはちがう。どれだけ許せて、受け入れて止められるか。それは、ほんとに大事なことだろう。くれぐれも我慢と履き違えないことと肝に命じて。

一人暮らしは、ひとりなのだし勝手にしているものだから地元へ戻るのだって勝手に決めてもいいと思っているのだが彼がさみしがるからという理由から決断できずにいる。だけど、戻ってほしくないのなら彼なりになにか策を練ってくれてもいいと思うし、もっと言えば、同棲だって視野に入れてくれてもいいのにと思ったのは内緒の話。

客観性と一人相撲

話題:最近読んだ本

江國香織の左岸を読んでいると好きという気持ちがよくわからなくなる。ぐちゃぐちゃに混ざり合った絵の具のように最終的には黒になるような。まだ半分しか読んでいないのに恋をしたくなくなってきてしまったのにまだ上巻。
最近読んだ本は、現実味をおびていなかったり、共感ができなかったりしている。左岸を読み終えた現代っぽいの読みたいから綿矢りさの私をくいとめてを読もう。唯一、よしもとばななのハネムーンは近いものをかんじた。小川洋子のやさしい訴えは、チェンバロを通して越えられない壁、世界があり、時に美しく、そして気持ちわるく感じた。世界をふたりだけに切り取ることはわるいことでないのに、そこで疎まれた主人公がどうにも不憫におもえ、どす黒い感情に支配されてしまうのもまた。抱擁、あるいはライスには塩の世界観もふしぎなもので、社会から孤立しながらも独立し確立しているお屋敷に住む一族は、左岸とおなじく1970年代前後の話なのでイメージが容易には浮かばないのだが、おもしろいなとはおもった。一族のなかでの暮らしが窮屈であるものもいれば、この窮屈さが心地よいものもいる。世間知らずとはこのことかと思わずにはいられないようなやり取りのなかでも必死に生きようとしている姿はたくましかった。

本を読むのも映画を観るのも余裕があるからできること。そして、客観的になれているということ。自分ひとりの世界に閉じ籠っているときは、なにも見ようとせず、ひたすらに黙々と閉じ籠る。客観性をもたないとひとと対峙するのはむづかしい。
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