浪江さんは103番地に住んでいます。
敷地は横に広くて大きいですが、家そのものはちょっとちいさめ。
でも緑がいっぱいで、花がいっぱいで、家からは海が見えてとっても住みよくていい町でした。
実は浪江さんには秘密がありました。
テレビで有名なダッシュ村のロケに家が使われていて、TOKIOの皆さんとお友達であったのです。
でも、そのことをひけらかすことを浪江さんはしませんでした。
テレビでも、決して自己主張せず、表に立つTOKIOの皆さんを立てて支えていて、だからきっとTOKIOの皆さんも、浪江さんのことが大好きだったと思います。
でも、大震災がやってきて、浪江さんのところは大ダメージを受けました。
海沿いのところはめちゃくちゃ。
そして緑いっぱいの森側は原発ペンキ屋さんからのインクが、最低最悪の風に乗って撒き散らかされてしまったのです。
村も人が入れない程の汚れ。
震災のあの日以来、仲良く楽しかった日々は終わってしまったように思えました。
でも、浪江さんとTOKIOの皆さんの絆は途切れたりはしませんでした。
家にも住めなくなって避難しなくてはならなくなった大変な時。
けれど、自分達の事と同じかそれ以上にダッシュ村とTOKIOを心配していた浪江さんをTOKIOの皆さんは、抱きしめてくれました。
ペンキが付くかもしれないのに。
そんなことは何でもないと言う様に何度も足を運んで励ましてくれたのです。
それが浪江さんの心をどんなに励ましてくれたかはいうまでもありません。
浪江さんちの汚れは酷くて、正直区画でも最悪レベル。
元通り家に戻って、また一緒に暮らすのは正直難しいかもしれないとみんな知っています。
でも、TOKIOの皆さんは言います。
諦めないと。
いつか、取り戻す。と‥‥。
TOKIOの皆さんや、励ましてくれるテレビの人がいる限り浪江さんもまた諦めないと思います。
いつか楽しかったあの日を取り戻す日まで。
昨日、用事で東京に行っていました。
犬もいるので日帰りだったのですが、その時、作業用の古新聞の中に、思わず手が止まるものを発見しました。
3月12日の産経新聞です。
震災が起きたのは3月11日ですから、11日の新聞はいつものとおりのものだったはず。
号外もあったでしょうが、震災翌日の新聞、しかも東京の、全国紙の新聞が一体大震災をどう報じたのだろうと、興味があってお願いして貰ってきました。
一面は
「列島最大の激震 M8・8」
「津波30m 使者300人強超」
「壊滅的被害「100年に一度」」
一面の写真は名取市の燃えながら津波に流される住宅の写真でした。
中の記事は東京、関東の記事が主で、帰宅難民が多く発生したこと、九段会館やその他多くのホールなどの崩落事故などを報じていました。
この時はまだ、この地震が日本最悪の惨事を引き起こしているとは私達でさえ、思っていなかった事でしょう。
13日のは無かったのですが14日の新聞は一面に原発事故を、裏面にがれきの陸とかした南三陸町を報じていました。
きっと13日の新聞は原発事故の第一報だったのだと思います。
14日の新聞に載っていたどこまでも続くガソリンを求めて並ぶ車の列の写真は、私の家からそう遠くない所で、こんな形で私の街を沢山の人が見ていたのだとなんだか切ない気持ちになりました。
やっぱり、福島とは違う新聞づくりがされていたのだな。と思いながら見ていた13日の新聞にこんな文章が。
産経新聞の編集長さんのコラムです。タイトルは「あの日になる一日」ちょっとだけ
抜粋させて頂きます。
「われわれの底力が試されている」
「今こそ、ひとりひとりが自分に何ができるか考えて欲しい」
「今日は、歴史に残る新聞を作ることになるだろう(中略)将来、「あの日」の産経新聞はどんな紙面だったかとひもとく人を意識しながら作った。それは私だけではな
く産経新聞社全社員同じ思いであったろう。
例え、それがあまりにも辛く、あまりにも悲しいあの日だったとしても」
あの時、私も、多分、たくさんの人も自分と目の前の事で手いっぱいでした。
毎日、震災の記事しかなく、それも悪い情報、哀しい情報しか乗らない新聞。
避難所では誰も見たくなくて余ってしまい、子供達と紙飛行機にしてしまった新聞。
でも、その新聞にもたくさんの人が未曾有の大災害を前に、できることをしよう。という思いを込めて作っていたのだ。と、少し反省しながら、そして感謝しながら読みました。
まだ、将来と呼ぶには少し早いけれど、3月12日の新聞をあの日を思ってひもといた私の気持ちは、この記事を書いた編集長さんに、新聞を作った人たちに届くでしょうか?